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ダンジョン&ゾンビーズ〜崩壊した世界で、職業ゾンビが世界最強〜  作者: 楽太郎
第2部/第1章 ダンジョン&キョンシーズ
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第75話 月光

「九龍寨城公園にて黄泉の門――霊門が完全開放され、地牢ダンジョンから大量のキョンシーが溢れ出しておる」


 師が告げた衝撃の事実に、二人は言葉を失った。つかの間の安堵は消え去り、より深く、より広大な絶望が眼前に広がっていた。心玥シンユエが、かろうじて声を絞り出す。


「ですが陳老師! 私たちが龍脈儀を直し、力の流出は止めたはずです! それでも、門は開き続けるというのですか!?」


 その問いに、陳老師は静かに首を横に振った。


「確かに龍脈儀からの力の流出は止まった。お主らの働き、見事であった。……じゃが、九龍寨城公園が香港でも有数の『龍穴』であることは、お主らも知っておろう」


 龍穴。大地の気が噴き出す、龍脈の力が集中する特異点。心玥シンユエが修行の際、一時的とは言え門を開けたのも、龍穴であったからだ。


「完全に開いてしまった地牢ダンジョンは、もはや龍脈儀を介さず、龍穴から直接、大地の気を吸い上げておるのじゃ。我らが今感じておるこの邪気は、そこから漏れ出す余波にすぎん」


 老師は続ける。その言葉は、二人が夜通し戦い抜いた現実を、さらに過酷なものとして突きつけた。


「夜の間に香港の主要な龍脈を巡ってきたが、状況は芳しくない。街はほぼ壊滅状態じゃ。おそらく他の龍穴の上にも、同様に門が開いておるのだろう」


 香港が、壊滅。その一言が、二人の胸に重く突き刺さる。人々を守るために道士になったのに、何一つ守れなかった……。宇軒ユシュエンは悔しさに拳を握りしめ、心玥シンユエの瞳には涙が滲む。


 その二人の表情を、陳老師は穏やかな、しかし厳しい眼差しで見つめていた。


「これほどの災厄、我ら道士の永い歴史を振り返っても前例はない。お主らが心を痛めるのも無理はない。……じゃが、後ろを見よ」


 促され、二人が振り返る。そこには、不安げに、しかし確かに生きている数十人の市民たちの姿があった。


「お主らは、この地獄の中で、それだけの命を救ったのじゃ。下を向いている暇などないぞ。……道士として、今なすべきことはなんじゃ?」


 師からの問い。それは、試練だった。絶望の中で、己の道を見失うなという。

 二人は顔を見合わせ、そして、力強く頷いた。宇軒ユシュエンが答える。


「……生き残った人々を、一人でも多くこの結界の内側へ」


 心玥シンユエが、涙を拭って続けた。


「そして、皆が生きていくために必要な、食料や物資を確保します」


 その答えに、陳老師は満足げに頷いた。


「うむ。ならばワシは、街に残る殭屍キョンシーを殲滅しつつ、地牢ダンジョンそのものを閉じる方法を探るとしよう。では、また後でな」


 そう言い残すと、老師の姿はふっと陽炎のようにかき消えた。残された二人の瞳には、もう迷いの色はなかった。 


 二人は短い休息と朝食を済ませると、昼過ぎには侯王古廟の門をくぐった。


 夜の闇を支配していた殭屍キョンシーたちは、日の光の下ではその勢いを完全に失っていた。二人が街を探索すると、奴らは建物の影や暗い路地裏で、まるで力を失ったかのようにじっと佇んでいる。


「……夜とは大違いですね」


 心玥シンユエの呟きに、宇軒ユシュエンが頷く。


「ああ。太陽の陽気は、陰の気で動く奴らにとって猛毒だ。抵抗する力も残ってはおるまい。好機だ、行くぞ」


 二人はその弱点を突き、白昼の救出作戦を開始した。固まって動かないキョンシーたちをまとめて護符で祓い、道中の安全を確保。さらに、生存者が通るための避難ルートの要所要所に簡易な結界を張っていく。


 やがて、高層ビルの上階に取り残されたオフィスワーカーたちや、地下室で息を潜めていた家族連れなど、わずかに生き残った人々を発見する。二人は彼らに道中で確保した食料と水を分け与え、状況を簡潔に説明した。


「我ら道士が、市内の各寺院に結界を張りました。殭屍キョンシー――あなた達を襲ったモノたちは、光の当たる場所には出てきません。ここからですと文武廟マンモウミュウが最も近いでしょう。最低限の荷物とともに避難してください」


 生存者たちは、道士という希望の存在に涙ながらに感謝し、それぞれの避難場所へと向かっていく。二人はその背中を見送り、また次の救出へと向かう。夜が来る前に、一人でも多くの命を救うために。



 昼は生存者の救出と食料の確保、夜は結界の要がある侯王古廟ハウウォンコミュウを防衛するべく交代で夜番につく。そんな死と隣り合わせの日々が、二週間続いた。


「これ以上は、もう……生き残っていないかもしれません」


 その日の探索を終え、古廟に戻った心玥シンユエが、絞り出すように呟いた。手分けして香港中を駆け回ったが、生存者の姿を見つけることは、ここ三日というもの一度もなかった。

 それぞれの拠点に保護できた人々を合わせても、千人に満たない。七百万都市であった香港の人口を思えば、それは絶望的な数字だった。


 問題は、それだけではなかった。


「なぁ、どうして外からの助けが来ないんだ」

「もう二週間だぞ! こんな生活、限界だ!」

「お願い……家に帰して……」

「娘を……! 私の娘はまだ見つからないのか……!!」


 日常を失って二週間。かろうじて繋がったラジオから流れてきたのは、このパンデミックが世界中で起きているという、希望を打ち砕く報せだった。外部からの救援は期待できない。避難生活はいつまで続くのかわからない。結界の外は相変わらず死者が徘徊している。それら事実が、人々の心をゆっくりと蝕んでいく。


 日中、食料確保を手伝ってくれる者もいるが、それもいつまで続くかわからない。日に日に、人々は苛立ちを募らせ、食料を巡る諍いや、他人を追い出そうとする陰湿ないじめが頻発するようになっていた。いつ全体が爆発してもおかしくない、危険な空気が結界の内側に満ちていた。


 心玥シンユエも、宇軒ユシュエンも、心身ともに限界だった。人々を救うために戦い続けているはずなのに、救ったはずの人々の間には不和が生まれ、自分たちに向けられる視線には、日に日に疑念の色が濃くなっていく。その重圧が、若い二人の肩に容赦なくのしかかっていた。


 各地に散らばる辟邪派の道士たちとの連絡も、パンデミックの初日からあらゆる方法を試みてはいるが、一度も連絡を取れていない。それぞれが同じように孤立した状況に置かれ、助けを期待するのは厳しいと、二人は口に出さずとも悟っていた。


 そしてなにより、頼りの陳老師が、あの朝以来一度も戻ってきていない。


 陳老師の強さを、二人は誰よりも知っている。どんな窮地であろうと切り抜け、ある日突然、何もなかったかのようにひょっこりと帰ってくるだろう。そう信じていた。


 しかし、二週間に及ぶ絶え間ない戦いと、救ったはずの人々から向けられる無言の圧力は、14歳の少女の心を少しずつ、しかし確実に削っていた。肉体的にも精神的にも疲れ果てた心玥シンユエは、ついにその不安を口にしてしまう。


「陳老師……ご無事なのでしょうか」


 か細く、震える声だった。宇軒ユシュエンは、そんな妹弟子の痛ましい姿に、責めるでもなく、ただ静かに寄り添うように言葉をかけた。


「案ずるな、小心シャオシン。師を信じろ」


 彼の声は、疲労の中にあっても変わらず穏やかだった。


「街の殭屍キョンシーは相変わらず多いが、増えてはいない。我らの戦いで、確実に奴らの数は減っているのだ。きっと、他の地の道士たちも同じように道を切り開いている。陳老師も同じだ。案外、『お主ら、ワシの噂話をしとったじゃろ』などと言いながら、今夜あたりにでも帰ってこられるかもしれんぞ」


 その言葉には、何の根拠もなかったかもしれない。だが、揺るぎない信頼に満ちた兄弟子の声は、心玥シンユエの凍えかけた心を、そっと温めるには十分だった。


 その夜。心玥シンユエは、侯王古廟ハウウォンコミュウの門の前で、一人、夜番に立っていた。

 闇夜を徘徊する死者たちの姿は未だ尽きないが、パンデミック初日の混沌と冷静に見比べれば、その勢いは確実に弱まってきていた。


 (……ユウ兄さんの言う通り。少しずつだけど、確かに道は開けてきてる)


 胸の奥に、希望の灯がそっと灯る。

 静かな夜風に吹かれながら、心玥シンユエはふっと小さく息を吐いた。


 ――交代のときには、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。

 そう思いながら、彼女はまっすぐ前を見据えた。


 その、視線の先。月明かりに照らされた道の向こうから、一つの見慣れた影が現れた。

 ゆったりとした、しかし力強い足取り。その佇まいは、この絶望的な状況で何よりも待ち望んでいた人物のものだった。涙が滲み、視界がぼやける。


「陳老師……!!」


 歓喜に満ちた心玥シンユエの声に、本殿前で仮眠を取っていた宇軒ユシュエンも飛び起き、門へと駆け寄る。


「やっと、やっとお戻りになさっ……」


 しかし、安堵に緩んだその言葉は、途中で凍りつく。


 駆けつけた宇軒ユシュエンが妹弟子の目線の先へと目を凝らす。

 確かに、そこに立っていたのは――陳老師、その人だった。


 だが。


 夜空を覆っていた雲が流れ、月がその姿を照らし出す。

 冷たい光が、現実を突きつけた。


 硬直した両腕。

 まっすぐ前方へと突き出された手。

 生気のない青白い肌。

 焦点の合わない、濁った瞳――。


 それは、たしかに“陳老師”の姿をしていた。

 しかし、そこにあったのは、魂を失い、死を歩く者の姿だった。


 ――老師が、還ってきた。絶望という姿で。

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