第74話 龍脈儀
ネオンの残光が不気味に揺れる路地裏を、二人の道士が駆け抜けていた。背後には怯える数人の生存者をかばい、前方からは絶え間なくキョンシーの群れが迫る。
「小心、気を抜くな!」
「はいっ!」
宇軒の鋭い声に応じ、心玥は銭剣で一体のキョンシーをいなし、懐から投げた護符でその動きを封じる。その隙に宇軒の桃剣が一閃し、キョンシーは塵と化して消えた。目指すは闇の中に浮かぶ侯王古廟のシルエット。そこだけが、この死の街に残された唯一の希望だった。
だが、たどり着いた古廟の山門は無残に破られ、境内は静まり返っていた。本来あるべき神聖な気は欠片もなく、代わりに肌を刺すような冷たい邪気が満ちている。
「そんな……結界が……!」
心玥が愕然とするのと、境内の影から新たなキョンシーたちがぬるりと姿を現したのは同時だった。
「小心! 生存者たちを本殿そばの部屋へ! ここは私が食い止める!」
宇軒は即座に判断を下し、妹弟子に後方を託す。心玥は一瞬ためらうが、兄弟子の真剣な眼差しに強く頷き返すと、生存者たちの手を引き、本殿へと駆け込んだ。
宇軒は一人、殺到するキョンシーの群れを完璧な剣技で捌き、時間を稼ぐ。やがて最後のキョンシーを祓い終えると、彼は本殿の奥、祭壇の裏に隠された石の扉へと向かった。
「この邪気の源は……やはりここか」
扉を開けた瞬間、空気が鉛のように重くなる。石室の中央に鎮座する結界の中枢――「龍脈儀」は、本来の穏やかな金色の光を失い、禍々しい紫電を散らしながら弱々しく明滅していた。
宇軒は即座に駆け寄り、その異変の源を探る。そして、見つけてしまった。龍脈儀の心臓部、気の流れが集中する一点に突き立てられた、黒曜石のような輝きを放つ一本の杭――「呪釘」を。
(結界が破られたのではない。香港の龍脈そのものが汚染され、その力が…悪用されているのか…!)
天才道士の顔から、初めて血の気が引いた。事態は、彼の想像を遥かに超えて深刻だった。
心玥が市民を簡易な結界を張った部屋に保護した後、本殿へと駆けつけると、宇軒は祭壇の裏にある隠し扉から彼女を手招きした。石室に足を踏み入れた彼女は、その異様な光景に息を呑む。中央に鎮座する「龍脈儀」は禍々しい紫の光を明滅させ、清浄であるべき聖域は邪気に満ちていた。
「ユウ兄さん、これは……」
「ああ、これが原因だよ、小心」
宇軒が指し示したのは、龍脈儀に深々と打ち込まれた黒い杭だった。
「結界が壊されたのではない。この『呪釘』によって、香港を守る力が別の場所に吸い出されている。そして、その吸い出された力が、おそらくこのキョンシーの群れを生み出す元凶だ」
その声には、これまで心玥が聞いたこともないほどの焦りが滲んでいた。物理的に引き抜こうにも、呪釘は強力な呪術で守られている。方法は一つしかない。
「二人で気を送り込み、龍脈儀を内側から浄化、つまり内側から呪釘を押し出すのだ。儀式を始めるぞ!」
二人は龍脈儀を挟んで対峙し、同時に印を組んだ。祝詞が紡がれ、二人の掌から清浄な「気」が金色の奔流となって龍脈儀へと注ぎ込まれていく。紫の光が金色に押し返され、装置が激しく振動する。
だが、儀式によって発せられる神聖な気は、同時に境内に残るキョンシーたちを呼び寄せていた。石室の入り口から、一体、また一体とキョンシーがなだれ込んでくる。
「師兄は儀式に集中を! ここは私が!」
心玥は儀式を続けながらも、片手で印を組み直し、懐から数枚の護符を宙に舞わせる。護符は彼女の気の流れに乗り、石室に侵入したキョンシーたちを次々と撃ち、その動きを封じていく。
激しい攻防の末、ついに龍脈儀が本来の輝きを取り戻した。金色の光が溢れ出し、呪釘は甲高い音を立てて弾き飛ばされ、塵となって消える。石室を満たしていた邪気が一瞬にして祓われ、清浄な空気が戻ってきた。
二人は肌で感じる。香港の龍脈を守る結界が、今、再起動したことを。
しかし、その安堵は一瞬でかき消された。宇軒が悔しげに顔を歪める。
「……駄目だ。結界の力が、この侯王古廟の周囲までしか届いていない」
呪釘によって龍脈との接続を深く傷つけられた影響は、想像以上に大きかった。香港全土を守るはずだった結界は、今やこの小さな寺院を守るのが精一杯だったのだ。
こうして侯王古廟は、ひとまず安全な拠点となった。だがそれは、広大な死の海に浮かぶ、あまりにも小さな孤島に過ぎなかった。
不完全な結界という現実に、心玥は焦りを募らせていた。
「ユウ兄さん、結界がこのままでは……! 今すぐに呪釘を仕掛けた者と、龍脈の力が流れた先を追うべきです! このままでは、香港がキョンシーに喰い尽くされてしまいます!」
早口に、必死に訴える心玥。だが、宇軒は静かに首を横に振った。
「落ち着け、小心。陳老師の言葉を忘れたか?」
その声は穏やかでありながら、有無を言わせぬ響きがあった。
「我らの務めは、まず民を救うことだ。黒幕を追うのは、この地を安全な拠点としてからでも遅くはない。それに、この結界があるだけでも幸運だ。今は、この光の内側で救える命を一つでも多く救うべきだ」
「ですが!」
「わかるさ」と、宇軒は心玥の言葉を遮る。
「お前の気持ちは痛いほどわかる。だが、逸る気持ちで動いては、救えるものも救えなくなる。師は、我々を信じてこの場所を託されたのだ。その信頼に応えるのが、我々の道だろう?」
心玥は反論しようと開いた口を、ぐっと結んだ。宇軒の真摯な瞳と、師の教えの重さに、返す言葉が見つからない。
悔しさに唇を噛む彼女の肩を、宇軒がそっと叩いた。
「行こう。時間はあまりない」
その言葉に、心玥は力なく、しかし確かに頷いた。二人はまず、この廟の周辺に残された生存者の救出を最優先することを決意し、再び死の街へと駆け出していった。
*
夜の闇は、キョンシーたちの独壇場だった。
宇軒と心玥は、侯王古廟の結界を背に、再び死の街へと駆け出した。煌びやかだったネオンの光は消え、今はただ月明かりと、遠くで燃え盛る炎だけが、破壊された街並みを不気味に照らし出している。
「あそこだ!」
宇軒が指差したのは、シャッターが半壊した商店の二階。窓から、助けを求めるように布が振られていた。二人は視線を交わすと、息の合った連携で店を取り囲むキョンシーの群れを切り裂く。心玥が護符で道を切り開き、宇軒が桃剣で残る脅威を祓う。
店の中にいたのは、恐怖に震える若い夫婦だった。二人は道士の姿に安堵の涙を浮かべ、その手を引かれて古廟へと避難していく。
助けを求める声は、至る所から聞こえた。マンションの一室に立てこもる老人、地下鉄の駅に逃げ込んだ学生たち、ひっくり返った屋台の影で息を潜める親子。
二人は休む間もなく戦い、走り、人々を導いた。道士服は返り血で汚れ、体力は刻一刻と削られていく。それでも、彼らは足を止めなかった。絶望に沈む街で、自分たちが唯一の希望なのだと知っていたからだ。
やがて、東の空が白み始め、夜の闇が薄れていく。日の光を嫌うキョンシーたちは、まるで朝霧のように一体、また一体と影の中へと姿を消していった。
朝日が昇る頃、二人は数十人の市民を古廟の中へと保護し終えた。一晩に及ぶ死闘を終え、境内には安堵と、そして拭いきれない疲労の空気が漂う。
侯王古廟の境内に柔らかな光が差し込む。心玥は銭剣を握りしめたままその場に座り込み、宇軒も壁に背を預け、荒い息を整えていた。
その時、まるで朝の散歩から帰ってきたかのような涼しい顔で、陳老師が姿を現した。夜通し香港中を駆け回り、何十倍もの死線を潜り抜けてきたはずのその姿には、一切の疲れが見られない。
「うむ、無事結界を起動できたようじゃの。ワシの方でこの地の結界の起動と連動するよう各寺院への霊脈の回路も繋いでおいた。香港全てとはいかぬが、他の聖域も今頃は機能しておるじゃろう」
こともなげに告げる師の言葉に、二人は愕然とする。自分たちが一つの結界を張るだけで精一杯だったというのに、師は香港中の要点を飛び回り、市民を救いつつも結界網を築いていたのだ。知識も、力も、まだあまりに遠い。二人はその圧倒的な差を改めて痛感した。
老師はそんな弟子たちの心中を見透かすように笑みを浮かべるが、ふっと真剣な表情に切り替える。そして、衝撃的な事実を告げた。
「――龍脈の力が流れ着いた先が判明した。おぬしもよく知る場所じゃ、小心」
「え……?」
心玥の顔から血の気が引いていく。老師は、その迷いのない瞳でまっすぐに弟子を見据えた。
「九龍寨城公園にて黄泉の門――霊門が完全開放され、地牢から大量のキョンシーが溢れ出しておる」
その言葉は、つかの間の安堵に浸っていた二人の心を、新たな絶望の底へと叩き落とした。




