第72話 殭屍之夜〜パンデミックの始まり〜
心玥がダンジョンから帰還して、一週間が経った。
心玥の免許皆伝の報はすぐに師である陳 清和の耳にも届き、道士をまとめる辟邪派の最高位指導者という立場でありながら、老師はすぐさま香港へと駆けつけてくれた。
師匠の人となりをよく知る心玥は、老師が本当は香港美女との出会いが目当てではないかと内心で疑っていたが……それは秘密だ。
そんな心玥の心を知らない陳老師は、弟子との再会を前に顔中の皺をくしゃくしゃにして、心の底から嬉しそうに彼女の帰還を喜んでくれた。
「小心! 本当によくやったの! 宇軒も厳しい立場でよく導いてくれた。お前たち二人は、ワシの誇りじゃ!」
その満面の笑みを見て、心玥は嬉しさが込み上げると同時に、一瞬でも師を疑った自分を恥じた。
その夜。心玥の体力が十分に回復したのを見計らい、陳老師が祝いの宴を開いてくれた。三人が訪れたのは、湾仔の路地裏に佇む、地元の人々で賑わう海鮮料理の店だった。
店の喧騒と、湯気の向こうから漂う香辛料の匂いが、心玥に現実世界へ帰ってきたのだと改めて実感させる。円卓を囲み、陳老師はさっそくどこからか連れてきた美女二人を左右に侍らせ、鼻の下を伸ばしていた。
「聞いたかね、お嬢さんたち! ワシのこの弟子は、14歳にして免許皆伝になったのじゃ! 試験のために配置しておった四凶の幻影なぞ、この子の前では子猫同然だったとな! そこの宇軒も含め、優秀な道士たちが育ってくれた。まぁ全部、ワシの指導の賜物なんじゃがの! ガッハッハッハッ!」
「さすが陳老師、すごーい!」
「ハッハッハッ! 何を言う、お嬢さんたちのものも、すごーいではないか。むむ!? ワシの求めていた桃仙郷はここにあったのか!?」
(はぁ……やっぱりスケベジジイの目的はこれですか……)
心玥は内心で盛大にため息をついたが、弟子の武勇伝を肴に酒を飲み、目を細めて自慢げに語る師の姿は、不思議と憎めなかった。
そんな老師の向かい側で、宇軒が静かに茶杯を傾け、穏やかな眼差しを心玥に向けた。
「本当によく頑張った。まるで自分のことのように嬉しいよ、小心」
その静かで誠実な言葉が、心玥の胸の奥をじんわりと温めた。親愛に満ちた優しい視線を受け、自然と頬が緩む。
「ありがとうございます、ユウ兄さん」
「そうだ、合格の祝いに、これを渡したいと思っていたんだ」
そう言って、宇軒はひとつの包みを差し出す。
「開けていい?」
彼の頷きを確認した心玥は、そっと包みを解いた。中から現れたのは、朱地に金の刺繍が施された、見事な道士袍服だった。
「小心。改めて免許皆伝、おめでとう。これからは共に、道士として人々のために尽くしていこう」
それは、共に並び立ちたいと憧れていた宇軒から贈られた、最も嬉しい言葉だった。思わず胸がいっぱいになり、涙が溢れそうになるのを抑えきれず、道士袍服に顔を埋めた。そして、もう一度顔を上げ、感謝の気持ちをまっすぐに伝える。
「ユウ兄さん……ありがとうございます……!」
久しぶりに囲む温かな食卓。気心の知れた師や兄弟子との団欒――数ヶ月ぶりに感じるその温もりに、心玥は心の底から安らぎを覚えていた。任務も責務も忘れてこの時間がずっと続けばいいと、本気で願ってしまうほどに。
*
海鮮料理の豊かな香りと心地よい満腹感を伴い、三人はレストランを後にした。眼前に広がる香港の夜は、色とりどりのネオンサインが湿度を帯びた空気に滲み、街全体が巨大な宝石箱のように輝いている。
「ふむ、やはり香港の夜は格別じゃのう。次はいつお嬢ちゃんたちと茶会を開くかのう」
長く伸びた顎髭をさすりながら陳老師が満足げにぼやく。その隣で宇軒が苦笑し、心玥も呆れたようにため息をついた。
そんな、ありふれた幸福感に満ちた瞬間は、唐突に終わりを告げる。
甲高い悲鳴が、街の喧騒を突き破って鼓膜を打ったのだ。
最初はどこかの揉め事かと思った。だが、一つの悲鳴は瞬く間に連鎖し、四方八方から恐怖に満ちた絶叫となって返ってきた。一台のタクシーが運転手を失ったように暴走し、高級ブティックのショーウィンドウに轟音と共に突っ込む。ガラスの破片が夜道に散らばり、人々がパニックに陥って逃げ惑い始めた。
「……気の流れが乱れておる。ただ事ではないの。……宇軒」
「はい。これは……まずいことになりそうです。陳老師」
混乱が広がることを表すように、眠らない街の灯りが、一区画、また一区画と急速に消えていく。摩天楼が次々とシルエットへと変わり、香港はまるで呼吸を止めるかのように闇に飲まれていった。
「師匠、ユウ兄さん、何か来ます……!」
心玥が叫んだのと、路地の暗がりから一体の「それ」が飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。
額には道士が使うものと同じ黄色い護符。清朝時代の役人のような衣装をまとい、両腕を硬直させたまま前方へ突き出している。そして、両足を揃えたまま、背筋を一切曲げずにぴょんぴょんと跳ねて移動する異様な姿。
それは逃げ遅れた通行人の背後へ瞬時に回り込むと、容赦なくその首筋に牙を立てた。噛みつかれた男は数度痙攣したかと思うと、その場で崩れ落ち、数分も経たないうちに同じ硬直した動きで立ち上がる。
心玥たちがいる場所にも、闇に沈んだ街の四方八方から、リズミカルに響く無数の跳躍音が迫ってくる。額に札を付け漢服を着ている者だけでなく、生気を失った青白い顔をしたスーツ姿の男性や華やかな衣装に身を包んだ女性もいる。むしろそういった者のほうが多いだろう。
トントン、トントン、と地面を打つ硬質な音が、徐々に数を増し、一つの巨大なうねりとなって、その場に残る生者である3人の元へと迫りくる。
宇軒が、信じられないといった様子で呻く。
「馬鹿な……こんな街中でこれほどの殭屍が出るなど……!」
「……考えるのは後じゃ。2人共、こやつらへの対処方法は学んでおるな?」
師匠の言葉に冷静さを取り戻し、2人は静かに頷く。
心玥は銭剣を、宇軒は桃剣を、そして陳老師は拂塵を構える。三人は背中合わせに陣を組み、絶望的な光景を前に、静かに覚悟を決めていた。
死の街へと変貌を遂げた香港の夜は始まったばかりだ。そしてそれは、世界同時多発的に起きたパンデミックということを、彼らはまだ知らない。




