第71話 免許皆伝
第2部より、香港編となります。
パンデミックの少し前の時間軸から物語は始まります。
舞台が変わり、ゾンビもキョンシーに。
よろしくお願いいたします。
亜熱帯の湿った風が、九龍寨城公園の木々を揺らしている。かつて「東洋の魔窟」と恐れられた城塞の面影はどこにもなく、今はただ穏やかな蝉の声と、生命力に満ちた緑の匂いだけが空間を支配していた。
公園の中央、過去を伝える記念碑の前に、見習いの証である青い道士服に身を包み、髪を左右で結んだ一人の少女が立っている。李 心玥、14歳。その表情には、これから始まる長く険しい最終試験への緊張と、揺るぎない決意が固く入り混じっていた。
その後ろに立つのは、心玥の試験の立会人であり、兄弟子でもある荘 宇軒だ。5年前に免許皆伝を受けた天才と名高い彼は、涼やかな顔で佇んでいる。だが、その静かな瞳の奥には、たった一人の妹弟子を気遣う確かな温かさが宿っていた。
「臆するな、小心」
静かだが、芯のある声が心玥の背中に届く。
「お前が積んできた修行は本物だ。だが、決して驕るな。道士の道は、常に己との戦いでもある」
小心。幼い頃から共に修行を重ねてきた兄弟子や師が、親しみを込めて呼ぶ心玥の愛称だ。その名を呼ぶ宇軒の声には、厳しさの中に確かな優しさがあった。
心玥は、その声に背を押されるように、胸の奥から力が湧いてくるのを感じた。そして、きゅっと唇を引き締める。
(ユウ兄さん……)
心の中でだけ、いつも通りの呼び名で呟く。この人の隣に、いつか立つために――その一心で、血の滲むような修行に耐えてきたのだ。
「はい、宇軒師兄。肝に銘じます」
その声は、歳不相応に落ち着いている。憧れを抱く兄弟子に、大人びて見られたいという、ささやかな願いを込めて。
心玥は記念碑に向き直ると、すぅ、と深く息を吸い込み、心を鎮める。次の瞬間、彼女のしなやかな指が、空中で複雑な軌跡を描き始めた。まるで舞うように、それでいて寸分の狂いもなく、古式の印が組まれていく。
やがて、彼女の唇から言葉が紡がれる。気の流れを操り、世界の理に語りかけるための、古式の祝詞。低く、けれど凛とした声が、公園の空気に響き渡った。
祝詞に応え、世界の理が軋む。記念碑の前の空間が陽炎のように揺らめき、虚空から滲み出すようにして、朱塗りの荘厳な門の輪郭が浮かび上がった。反り返った瓦屋根、龍の彫刻が施された柱、そして固く閉ざされた重厚な両開きの扉が、まるで数千年前からそこに存在していたかのように姿を現す。
伝統的な様式で彩られた荘厳な門――「霊門」が音もなく空間を裂いて現れ、その向こう側にはあり得ざる光景が広がっていた。無数の建物が墓標のようにひしめき合い、天を覆い隠す、かつての九龍寨城。
この世と黄泉の狭間に存在する「地牢」。その入り口だった。
「隠された宝具を見つけ出し、無事に戻ってこい。それが免許皆伝の証だ」
宇軒が、念を押すように言った。
心玥は力強く頷き返した。その迷いのない瞳に、兄弟子の姿を焼き付ける。そして、覚悟を決めた足取りで、霊門へと踏み込んだ。現実世界の喧騒が遠のき、ダンジョンの重い空気が彼女を包み込む。
霊門が静かに閉じていく。心玥は試練に見合う力をつけたとはいえ、その道程が厳しく険しいものであることを、宇軒は知っていた。次に会えるのは、おそらく数ヶ月後になるだろう。その最後の光が消えるまで、彼はただ、じっとその場所を見つめていた。
*
霊門をくぐった心玥の身体を、重く湿った生ぬるい空気がまとわりついた。振り返ると、先ほどまで背後にあった荘厳な門は音もなく消え失せ、現実世界との繋がりが完全に断たれたことを肌で感じる。
見上げた空は、澱んだ灰色一色。光はなく、無法の建築が折り重なって天を塞ぎ、息が詰まるような圧迫感を生んでいた。埃っぽい中庭に一人立つ心玥は、ここが師の語った異空間――この世と黄泉の狭間にある「地牢」であることを悟った。
その時、前方の暗がりから、青白い光がふわりと浮かび上がった。人の魂を弄ぶという初等の妖怪、「鬼火」。それは意思を持つかのように揺らめきながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
だが、心玥は慌てなかった。修行で幾度となく想定してきた状況だ。彼女は静かに懐から一枚の護符を取り出すと、清められた朱の文字が描かれたそれを、しなやかな指に挟む。
「破邪!」
短い気合と共に放たれた護符は、一直線に鬼火へと飛翔する。青白い光は護符に吸い込まれるように掻き消え、霧散した。
その瞬間、心玥の脳内に、まるで網膜に直接焼き付けられたかのように鮮やかな文字が浮かび上がった。
《経験値を獲得しました》
《職業:道士 に就任しました》
「……これが」
師匠から聞いていた通りの現象だった。戸惑いよりも先に、身体の奥深く、気の巡る中心から、新たな力が微かに満ちてくるのを感じる。それはまだ小さな流れだったが、紛れもなく自分自身の力だった。
心玥は気を引き締め、油断なく周囲を警戒する。案の定、建物の影という影から、新たな鬼火が次々と姿を現した。数は五体。だが、今の彼女に恐れはなかった。再び護符を構える。先ほどとは明らかに感覚が違う。指先に込める気の流れが、より滑らかに、より強くなっている。
放たれた護符は、以前より鋭く風を切り、鬼火を確実に射抜いていく。一体、また一体と光が消えるたび、心玥は自身の力が確かなものになっていくのを実感した。レベルが上がったことで、気の流れがさらに増している。しかし、彼女は決して慢心しなかった。一体ずつ、着実に。それが師と兄弟子から受けた教えの根幹だった。
鬼火をすべて祓い終えた心玥は、建物内部へと足を踏み入れる。入り組んだ通路の奥から、今度は甲高い笑い声と共に、身長一メートルにも満たない「子鬼」たちが姿を現した。子鬼たちがそれぞれ手に握っているものは、この廃墟から持ち出したであろう、錆びた金属の棒、ささらの折れた箒、刃こぼれした包丁。悪意に満ちた目が、暗がりから心玥を睨んでいる。
心玥は即座に腰に差した銭剣を抜き放った。清められた古銭を繋ぎ合わせて作られた剣が、薄暗い通路で鈍い光を放つ。
一体が突進してくるのを冷静に見極め、銭剣の腹でその棍棒を打ち払う。子鬼が体勢を崩したその一瞬の隙を逃さず、もう一方の手に挟んだ護符をその額に叩きつけた。子鬼は悲鳴を上げる間もなく、黒い煙となって消滅する。
一体を銭剣で牽制し、もう一体を護符で討つ。長年の修行で身体に染みついた連携動作を、心玥は淀みなく繰り返していく。ここは危険なダンジョン。だが同時に、自らの力を試し、証明するための試練の場でもあった。彼女の瞳には、覚悟の光が強く灯っていた。
*
そこからの日々は、絶え間ない戦いの連続だった。
時間の感覚は次第に薄れる中、心玥はただ目の前の妖怪を祓い、先へと進むことだけに意識を集中させた。一体倒せば、また一体。一体祓えば、また一体。終わりなき戦いの中で、彼女は確実に成長を遂げていく。
妖怪の返り血と体液で青い道士服は汚れ、所々が引き裂かれていた。だが、心玥は建物内で見つけた布や糸で服を修繕しながら攻略を進めていく。いつしかその姿は、見習い道士のそれではなく、幾多の死線を乗り越えた戦士の風格を帯び始めていた。
疲労が限界に達すれば、敵の少ない階で小部屋を見つけ出し、四方に護符を貼って簡易な結界を張る。瓢箪から一口で空腹を回復できる仙水を取り出して飲み、短い仮眠を取った後また立ち上がる。
一人前の道士になる。その決意だけを道標に、どれほどの時をこの暗く長い地牢で過ごしただろうか。外では、おそらく季節が二つは巡っていた。
数ヶ月に及ぶ戦いは、かつての少女からあどけなさを削ぎ落とし、代わりに精悍さと、揺るぎない自信を与えていた。
幾多の激戦を乗り越え、シンユエはついにダンジョンの最上階、最後の区画へと足を踏み入れた。もはや、妖怪の気配や唸り声はなく、そこには静寂のみがあった。
しかし、心玥はその静寂の中に、これまで感じたことのない清浄な「気」が僅かながら漂っていることに気がつく。
(この気の流れ……間違いない)
かすかな気の源を辿り、彼女は最奥の一室へと慎重に足を進めた。扉を開けた先は、意外にも古びた浴室だった。カビの匂いが漂い、タイルは所々が剥がれ落ちている。その壁に、一枚の古びた円形の鏡が無造作にかけられていた。
地牢に入る前の自分なら、きっと気にも留めずに見過ごしただろう。だが、長い戦いを経て研ぎ澄まされた心玥の霊感は、その鏡が放つ強大な霊力を見抜いていた。彼女がじっと見つめると、埃をかぶった鏡面に刻まれた八卦の文様が、自身の霊力に呼応するかのように淡い光を放ち始める。
「これだ……。これが……宝具……!」
心玥は確信し、鏡へとゆっくり手を伸ばす。指先が冷たい鏡面に触れた瞬間、温かい光がほとばしり、彼女の身体を優しく包み込んだ。宝具から光が立ち上がり、挑戦者が宝具まで到達したことを何処かへと知らせる。
その光を見届けた心玥はその場でへたり込む。免許皆伝の証、宝具「八卦鏡」を手に入れた達成感とともに緊張が溶け、数ヶ月に及んだ戦いの疲労が一気にやってくる。
遠のく意識の中、背後から門が開く音がした後、兄弟子の祝福する声がするのが聞こえた。




