第66話 スピリテッド アウェイ③
第五層中央――そこでは、一人の男と、一組の男女が対峙していた。
女はダンジョンの石柱に磔にされ、残された男は、対する男の術に囚われ、何十物結界に拘束されたまま、抵抗もできずに何かの詠唱を受けていた。
その周囲を囲むのは――数百体に及ぶモンスター。
黒く禍々しいオオカミが低く唸り、巨大な熊の怪物は鋭い鉤爪を光らせる。しなやかな蛇が滑るように這い、上部からも逃すまいと烏たちが羽を広げ、猿の異形は異様な咆哮をあげて群れを煽る。異形たちが幾重にも取り囲み、退路を閉ざしていた。
その様子を、岩陰から鋭い視線で窺うKIRCS菅原隊の面々。
「神獣の気配が消えた思たら、戦っとったモンスターまで一斉におらんようなるし……慌てて来てみれば、何やこの状況!?」
祠堂 和歌が、目の前の異様な光景に思わず声を上げる。
「あれは結界術? いや、あの石柱はなんだ? 見たことがないものです」
副隊長の壬生 兼道が冷静に状況を観察するが、未知の状況に動揺を隠せない。
しかし、その混乱を鎮めるように、隊長・菅原 崇雅が一歩前へ出て、鋭い眼差しで中央の男を見据えた。視線は、術を仕掛ける男の腰からぶら下がるエンブレムへと止まり――驚愕の色が一瞬だけ浮かぶ。だがすぐに、感情を押し殺し冷静に指示を飛ばした。
「あの紋……。術を仕掛けている男の方を止める。和歌は俺と来い。他の者は、嬢ちゃんを保護。式神・白鷹!」
言葉とともに菅原が胸元から取り出した5枚の和紙は、瞬く間に白い鳥型の式神へと変じる。それぞれがその背に飛び乗ると、二組――二人と三人に分かれ、羽音ひとつ立てずにモンスターの群れをかいくぐり、それぞれの目的地へと一気に接近していった。
菅原と和歌は、式神から飛び降りた瞬間にはすでに術を放っていた。投げ放たれた護符がジンを囲うように爆ぜ、眩い閃光が洞窟を照らす。菅原は鳥の式神をそのまま鋭い刃へと姿を変えさせ、嵐のような連撃を繰り出す。
「KIRCSの一番槍! 特級退魔師の和歌ちゃんが助太刀にきたで!」
爆風が収まり、空気が晴れる。
――しかし、ジンは無傷のままだった。
それどころか、唐突に割って入り攻撃を仕掛けたKIRCSの存在など、視界に入れる価値すらないとでも言わんばかりに、一瞥すら向けなかった。
「何やアイツ! ちょっとシュッとしとるからって、余裕かましよって!? ――雷鳴散符!」
和歌は早口でまくし立てつつも、効果がないと悟るや否や即座に属性を変えた護符を重ねる。菅原は彼女の戦闘センスを信頼しており、和歌の攻撃を軸にフォローへと徹する立ち回りを選んでいた。
しかしジンは、丈一郎への術を淡々と詠唱し続けたまま、片手を軽くかざすだけで結界を追加で展開し、全ての攻撃を弾き返した。
さらに、ほんの一歩、地を踏み鳴らしただけで――ダンジョンが呼応したかのように地面が唸りを上げてせり上がり、分厚い岩壁が二人からの追撃を完全に遮断した。
ジンとの戦闘が始まろうとしているその頃、菅原隊の壬生と橘兄弟の三人は、拘束されている舞のもとへと辿り着いていた。
「じっとしていてください――砕きます!」
壬生の鋭い声と同時に、橘兄弟が左右から同時に岩の拘束を叩きつける。轟音とともに石柱が粉々に砕け散り、舞はついにその束縛から解放された。
「ありがとうございます……! 丈くんが――!」
「ええ、分かっています。すぐに――」
だがその声を聞いてもなお、ジンは舞が解放された事実すら些末なことと捉え、意識の一片も向けなかった。彼の集中は、丈一郎への結界術を完成させることにすべて注がれていた。
しかし――それは致命的な判断ミスだった。
舞が解放された。
その瞬間、力を奪われ続けていた丈一郎の胸に、最後の抵抗の火が灯る。
守るべきものが自由になった今、もはや無力のまま蹂躙される理由は、どこにもなかった。
「――オオオオオオオッ!!」
獣のような咆哮が、丈一郎の喉からほとばしる。
彼は、自らを縛る光の結界を、内側から、その拳で殴りつけた。
ミシリ、と結界に亀裂が走る。
「クックックッ……。いやはや、どんなに力を持っていてもバカは治らないのですネ。無駄ですヨ。それは《《小さなダンジョン》》のようなものだヨ。物理的な攻撃では――」
ジンの言葉が、驚愕に途切れた。
二度、三度と叩きつけられる拳。亀裂は瞬く間に結界全体へと広がり、檻を構成していた幾何学模様が乱れ、崩れていく。
そして――。
バリンッ!とガラスが砕け散るような甲高い音と共に、光の結界は無数の粒子となって弾け飛んだ。
術が不完全に終わったことで、ジンがわずかに体勢を崩す。その口から、初めて苛立ちの混じった舌打ちが漏れた。
光の結界が砕け散った衝撃波が収まると、丈一郎はふらつきながらも、その場に強く足を踏ん張って立っていた。すぐに舞たちは駆け寄り、その傍らに立つ。
「ごめんなさい、わたしのせいで…!」
「大丈夫だ。アイツの術は半端に終わったし、大したことない」
丈一郎は心配させまいと短く答えると、視線を漆黒の装束を纏った男たちへと向けた。その中心に立つ、歴戦の風格を漂わせる男に声をかける。
「誰だか知らんが、正直助かった」
「かまわん。状況はまだ分からんが……少なくともあいつは、我々と因縁があるようやからな」
リーダー格の男、菅原はそう言うと、ジンの腰元からぶら下がるストラップの先、紋の入った小袋を鋭く見据えた。その視線に気づき、副隊長の壬生と祠堂和歌もそちらに目をやる。
そこには、金色の糸で編まれた縦4本、横5本の格子状の文様が刻まれていた。
「あれは……まさか九字紋!? なぜ、今の時代に……」
壬生が、信じられないというように声を上げる。
「ちょいまち! 静ちゃんの推測では、金色の黄昏が怪しいっちゅうはなしやったやろ!?」
和歌の驚愕に満ちた声が響いた。九字紋は、かつて名のある陰陽師が掲げていた紋であり、ロンドンを拠点とする現代の組織との関連性など、本来あるはずがなかった。
「壬生副隊長。ダンジョン内で無用に騒ぐな、だね」
「和歌さんも。ダンジョン内で無用に騒ぐな、だよ」
驚く二人を横目に、橘兄弟がかつて自分たちが言われた言葉を、そっくりそのまま返しながらツッコミを入れる。
菅原隊の面々がジンの正体に動揺する中、当のジン本人は、自らの術が破られたことすら気にかけていない様子だった。彼は、砕け散った結界の残滓に指を触れながら、興味深そうにブツブツと考察を呟いている。
「管理者の権能と結界師のスキルを組み合わせた、いわば複合結界術。それを内側から、純粋な物理的破壊力のみで破るなど……違うネ。物理ではなく何らかの、例えばダンジョンに関わる力……。複数職を持っていたことから管理者の権能に近い力があるとすれば……」
その分析は、まるで子供が新しい玩具の仕組みを解き明かそうとするかのように、無邪気で、だからこそ不気味だった。
やがて、ジンは一人で納得したように頷くと、こちらに向き直り、再びあの不快な笑みを浮かべた。
「不完全に終わりましたが、まぁ、十分でしょうネ」
その言葉が、戦いの再開を告げるゴングだった。
「モンスター共を頼む。ダンジョンにも気をつけろ。あいつは俺がやる!」
丈一郎は菅原隊に後方を任せると、一直線にジンへと向かって地を蹴った。
だが――その一歩目で、強烈な違和感が全身を襲う。
体が、重い。
まるで分厚い鉛の鎧を纏わされたかのように、手足が思うように動かない。速さも、力も、普段の半分も出せている気がしなかった。
ステータス画面を確認するまでもない。先ほどの不完全な結界術によって、STR、VIT、AGI、INT、LUK、その全ての能力値が大幅に低下させられていた。
「おや、ようやく気づきましたカ」
彼が軽く片手をかざすと、掌に淡い炎が灯り、それが瞬く間に攻撃用の火球へと変わる。そして低く「mandirigma(武人よ)」と呟くと、もう一方の手が宙を裂くように動き、そこから霊体を呼び出した。
同時に、ジンの足元からは幾重もの防御結界が展開される。
魔法使い、霊媒師、結界師――そして管理者。
複数の職業スキルを、これほどまでに高度かつ無駄のない形で行使するその様子に、丈一郎だけでなく、後方で様子を窺っていた菅原隊からも驚愕の声が漏れた。
「……その様子だと、何も知らないようですネ」
ジンは、無知な子供に世界の真理を教える教師のように、楽しげに語りかける。
「あなたがイレギュラーなだけ。通常、この世界の理において――
第二、第三の職業の扉を開くことが許されるのは、我々ダンジョンマスターのみなのですよ」
その言葉と同時に、ジンはモンスターたちへ攻撃命令を下した。
四方八方から殺到するモンスターの群れが、音もなく羽ばたき、足を踏み鳴らしながら丈一郎たちを包囲する。
その中心で、ジンは先ほど生み出した火球へと霊体を宿らせた。炎は歪み、やがて武人の形を成す。
「もっとも、力を得たところで――
それを組み合わせることすらできない三流のあなたと、私とでは、根本的に格が違いますけどネ」
嘲る声と共に、炎で構成された武人が咆哮をあげ、丈一郎めがけて突撃してきた。




