第64話 スピリテッド アウェイ①
静寂を破ったのは、唐突に現れた一つの人影だった。
洞窟の奥、折り重なる岩陰からぬるりと姿を現したのは、黒いシャツにデニムという、この異質な空間にはあまりに不釣り合いなほどラフな格好の青年だった。
その腰には、何かのエンブレムが付いたストラップをベルトから下げている。
コツ、コツ、と落ち着いた足取りで、青年は横たわるキメラの方へと向かう。その途中、一度だけ、まるで道端の石ころでも確認するかのように、無感情な視線をこちらに向けた。
「…あいつ、俺達に気がついている」
丈一郎の呟きに、隣の舞の肩が微かに震える。緊張が肌を刺す。
しかし、青年は値踏みするような視線を一瞬向けただけで、すぐに興味を失ったかのように顔を背け、再びキメラに向かって歩き始めた。そのあまりに堂々とした、こちらを脅威とすら認識していない態度が、逆に彼の得体の知れなさを際立たせていた。
青年は巨大なキメラの前に立つと、その禍々しい獣の額にためらいなく手を置いた。そして、まるで子守唄でも口ずさむかのように、抑揚のない声で何事かを囁き始める。
直後、キメラの巨体がビクンと激しく痙攣した。
グ、ギギギ…と骨の軋む音が響き渡り、獣はこれまで見せなかった苦悶の表情を浮かべて全身を震わせる。その姿は、まるで内側から魂を無理やり書き換えられているかのようだ。
「あの人、一体何をしているの…!?」
悶えるキメラの姿に、舞が心を痛めて悲痛な声を漏らす。
これ以上、あの男の好きにはさせない。
様子を見るべきかという一瞬の迷いを振り払い、丈一郎は舞にだけ聞こえるように「行くぞ」と短く告げると、青年の前に躍り出た。
その気配を察してか、あるいは儀式が終わったのか。キメラの苦悶が嘘のようにぴたりと止み、その巨体が静かに起き上がる。先ほどまでの荒々しい生命力は鳴りを潜め、今はただ、魂のない人形のように冷たい光を目に宿していた。
青年は、ようやく舞台の準備が整ったとでも言うように、満足げな笑みを浮かべて丈一郎たちを見た。
「クックックッ……。こんなに早くダンジョン探索を進めてくる者がいるとはネ。いやはや、日本人の勤勉さも、ここまで来ると少々気味が悪いですネ」
芝居がかった口調で、青年は肩をすくめる。
「ですが、ちょうどいい。この搾りカスの最終調整も、今しがた終わったところです。コレの試運転にちょうどよいですネ」
男が「ポン」と軽くキメラの前足を叩く。
その瞬間、キメラの瞳に再び光が灯った。しかしそれは生命の輝きではなく、ただ丈一郎を排除するためだけの、純粋で凶悪な殺意の光だった。
獣の咆哮が洞窟に響き渡る。
「やるしかない!」
丈一郎は覚悟を決め、収納から両手剣を呼び出した。
獣の咆哮が、死闘の開始を告げた。
五メートルを超える巨体が地を蹴り、洞窟そのものを揺るがす。オオカミの脚力を宿したキメラは、瞬きの間に丈一郎との距離をゼロにした。眼前で開かれたヒヒの顎から、腐臭を帯びた殺意が叩きつけられる。
「――ッ!」
丈一郎は収納から瞬時に両手剣を呼び出すと、振り下ろされるクマの剛腕を迎え撃った。
ガギィィィンッ!
凄まじい衝撃が腕を痺れさせ、足元の岩が蜘蛛の巣状に砕け散る。ただ重いだけではない。神性すら感じる異質な質量が、剣を通して全身を圧迫する。刃を滑らせ、前足へと斬りかかるが、分厚い獣皮と筋肉に阻まれ、深く切り裂くには至らない。動きを止め、押し返すので精一杯だった。
その一瞬の拮抗を見逃さず、舞の凛とした詠唱が響く。
「聖なる光輪よ、彼の者の四肢を戒めよ――光縛の環!」
キメラの足元に、眩い魔法陣が瞬時に展開される。そこから放たれた四つの光の輪が、獣の四肢へと吸い寄せられるように絡みついた。
ジュッ、と瘴気を焼く音を立てながら、光の戒めはその巨体の動きを確かに鈍らせる。
だがキメラは、四肢の皮膚が裂け、骨が軋むのも構わず、拘束を無理やり引きちぎろうとしていた。
その顔には、痛みも恐れも浮かんでいない。ただひたすら、目の前の敵を見据え、命を狩るという本能だけが、怪物の思考を支配していた。
「……もう、意思を感じられる状態じゃない。
それに、あの渋谷の鬼と同じか、それ以上の強さを持ってる。手加減して無力化することは、無理だ」
渋谷の鬼。あれは雷神をその身に宿した、神性を持つ強敵だった。あの戦いの経験が、目の前のキメラもまた同質の力を持つと丈一郎に告げていた。
「……うん、楽にしてあげよう」
舞は一度、悲しげに瞳を伏せる。再び顔を上げたとき――その眼差しには迷いのない覚悟が宿っていた。
第五層のボスであり、ミッションの討伐対象とはいえ――その様子、そして青年の言葉からしても、ただの魔物ではないことは明らかだった。
できることなら無力化し、救いたい。
だが、それはもう叶わないと悟った二人は、静かに決意を固める。
「天より降り注ぎ、邪を滅せよ――浄化光雨!」
舞が高らかに詠唱すると、洞窟の高い天井に無数の光の点が生まれ、それらが一斉に神聖な槍となってキメラへと降り注いだ。
同時に、丈一郎も追撃のスキルを発動する。
「巨雷鉄鎚陣!」
剣でキメラの動きを縫い止めたまま、その背後から雷を纏った巨大な魔力の腕が二本出現し、キメラの胴体を掴み潰さんと迫る。
天からは光の豪雨、横からは巨人の腕。
しかしキメラは、背中のカラスの翼を盾のように広げて光の槍を弾き返し、長い蛇の尻尾を鞭のようにしならせて魔力の腕を絡め取る。二つの強力なスキルを同時に捌ききるその様に、丈一郎たちは敵の格の高さを改めて思い知らされた。
ダメージはない。だが、怒涛の攻撃は確実にその動きを鈍らせていた。
「なるほど鬼と同じで、神気をまとえば通るってことか」
丈一郎の全身から、バチバチと金色のオーラが迸る。渋谷の戦いで鬼に宿っていた雷神から手に入れた、神性を帯びた力が解放される。その瞳は金色に輝き、握る両手剣へと力が宿った。
「二連斬!」
光の戒めが解けるより早く、神気を纏った一閃がキメラの胴を切り裂き、返す刃が翼の付け根を浅く断つ。
「戦王轟断!」
怯んだ隙を逃さず、渾身の力を込めた縦一閃を叩き込む。キメラは防戦一方となり、その巨体に次々と金色の斬撃が刻まれていく。攻め続けられることで、キメラはもはや反撃の隙すら与えられない。
そして、丈一郎は連続攻撃の勢いを殺すことなく、とどめの一撃を放つべく剣を大きく振りかぶった。その切っ先には、紫の雷光と、全てを焼き尽くす黒い炎が渦を巻き始める。
「雷獄焔葬!」
丈一郎が放った必殺の一撃――「雷獄焔葬」がキメラに叩き込まれる。
神気を帯びた両手剣が、キメラの巨体を真っ二つにする。
ゴオオオオオッ!
耳をつんざく轟音と共に、光と闇が洞窟の底で荒れ狂う。神の怒りにも似た破壊の奔流が、獣の肉体を内側から焼き、浄化していく。
やがて、まばゆい光が収まったとき、そこにキメラの姿はなかった。
禍々しい異形の獣がいた場所には、透き通るような光を放つ5体の獣――白狼、羆、狒々《ひひ》、烏、海蛇――が、静かに佇んでいた。
熊、狒々、烏、海蛇の四体は、どこか安らかな表情で丈一郎を一瞥すると、満足げに頷き、光の粒子となってそれぞれどこかへと消えていった。まるで、長い苦しみから解放された魂が、それぞれの居るべき場所へと還るかのように。
最後に、一体だけ残った白狼が、力なくその場に横たわる。その体は半ば透け、存在そのものが今にも掻き消えてしまいそうだった。
そのとき、丈一郎の脳内に直接、穏やかで古い声が響いた。
『――感謝する、人の子よ。汝のおかげで、我らは呪縛から解放された』
声の主は、目の前の白狼だった。
『だが、我は核として力を消耗しすぎた。我の愛したこの武蔵野の地を、人々を、もう見守ることができぬのは心残りだが……他の者たちのように、自然に還り、復活することは難しいだろう』
悔しさと、深い慈愛に満ちた声だった。
『我らを討つほどの力を持つ汝に、願うのも酷やもしれぬが……どうか、我が愛したこの地を、時折、気にかけてはくれまいか』
懇願する声に、丈一郎は黙って白狼へと近づく。そして、力なく横たわるその首筋を覗き込み、ぶっきらぼうに言い放った。
「そんなに気になるなら、自分で見守れ」
丈一郎はそう言うと、白狼の首筋に、ためらうことなくその牙を立てた。
渋谷の戦いの後、職業が捕食者から補職者へと進化したことで、彼の眷属化スキルは、一方的に支配するものではなく、力を共有し、分け与えるものへと昇華していた。自らの生命力と魔力の一部を、力を失った神獣へと注ぎ込んでいく。
その瞬間、丈一郎の脳内に凄まじい情報の奔流が流れ込んできた。分け与える力と共に、神獣、亜神である白狼の記憶と力が、一部逆流してきたのだ。
――かつて、友とともに見下ろした、緑豊かな武蔵野の大地。
――山の頂で交わした約束。友に代わって、この地を永遠に護ると誓った日。
――変わりゆく時代。人々の営みが豊かに、賑やかになっていくさま。
――戦火に包まれ、焼け野原となった景色に、胸を締めつけられた記憶。
――公害で濁った空。それでも力強く復興していく人々の姿。
――そして再び訪れた、美しい星空の夜。煌めく灯が街に点り、人の営みが地上を照らしていた。
――そんなある日、目の前に現れた懐かしい“友”の姿。
だが、そこで記憶は途切れる。残されたのは、力を奪われる激痛と、奈落に落ちていくような絶望の感覚――それだけだった。
最後に流れ込んできたのは、キメラとなった自分たちに最後の一撃を放った、丈一郎の悲しそうな顔。
もう誰も傷つけなくてすむという安堵と、心からの感謝の念が、白狼自身の感情となってあふれ出した。
すべてを受け止めた丈一郎が顔を上げると、そこに白狼の姿はなかった。
ただ、白狼が横たわっていた地面に、一本の日本刀が、鞘に収められたまま静かに突き刺さっていた。
《第5層ボス討伐を確認。おめでとうございます》
《ミッション【第五層の主を討伐せよ】をクリアしました》
《達成者報酬:獅子王》
《クリア報酬:探索者全員にダンジョンの階層間転移を開放します》
脳内に響く、場違いなほど無邪気なシステムメッセージ。
丈一郎はそれを無視し、無言で目の前の刀、獅子王に触れる。そして、まるで大切な形見を受け取るかのように、そっと持ち上げて自らの収納へとしまった。




