表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/83

第62話 遠き日の神楽

 巨大な洞窟の底、灯りのない静寂のなかで、色とりどりの鉱石がほのかに輝きを放っている。その中心、瓦礫と岩が乱立する荒れ地の奥――禍々しい異形の獣が、ぴくりとも動かず横たわっていた。


 杉谷たちが去った後、桐畑丈一郎と七瀬舞は、その獣、キメラの様子を見張り続けていた。


「ほとんど動きがないな」


 丈一郎はじっとキメラを見据えたまま呟く。


「……みんな、そろそろ篠原さん達の所に着いたかな」


 舞は目の前の脅威を捉えつつも、杉谷たちのことを心配していた。


「……気になるか?」


「うん。想定外のことが起きてて、きっと戦いにもなってるだろうし」


「まあ、そうだろうな。……でも大丈夫だ。あの人達は負けない」


 舞はその言葉に、少し驚いたように丈一郎を見た。


「……信頼してるんだね。そういうの、ちょっと、羨ましいかも」


 そう口にした舞の声音には、少しだけ拗ねたような響きがあった。

 それが自分でも分かったのか、ふっと笑って、話題を変える。


「ねぇ、屋上での約束、覚えてる? 無事帰ってきたら、聞かせてもらうって話」


 いきなりの言葉に、丈一郎は思わず視線を舞に向ける。


 屋上での約束。舞の同僚である恵理を助けるため、行きがかり上仕方なかったとは言え、眷属にしていた。

 そんな恵理から、“丈”と親しげに呼ばれている件を舞から突っ込まれていた。


『……帰ってきたら、ちゃんと聞かせてもらうからね。……だから、必ず帰ってきて』


 ……あのときは、ただ無事を祈るための方便かと思っていた。しかし、目の前の舞の視線は真剣そのものだ。


「おい。今この状況で、それ答えないといけないのかよ」


 丈一郎が観念したようにそう返すと、舞はいたずらっぽく笑ってみせた。

 きっと緊張の連続だった彼を少しでもほぐすために、あえてこの話題を持ち出したのだろう――丈一郎には、そう感じられた。


「……パーティ組む上で、呼びやすくしただけ。大した意味はない」


「へぇ。じゃあ、わたしも呼びやすい方法に変えようかな」


 舞の声は、どこか懐かしさを含んでいた。丈一郎が居心地悪そうに視線をキメラへと戻すと、彼女はその横顔に向けて口を開く。


「例えば子供の頃みたいに。丈くん」


 その呼び声が、丈一郎の記憶の中の呼び名と重なった。



 *  *  *



 湖と山に囲まれた、陸の孤島。

 数件の古い民家と、小さな神社しかない、まるで時間から取り残されたような漁村。断崖に沿って無理やり通された細い舗装路ができるまでは、村への出入りは船に頼るしかなかった。


 そんな村で、子供は二人だけだった。毎日、片道一時間の山道を歩き、小学校に通っていた。


「丈くーん! おいていくよー!」


 坂の上から、舞が元気に声を掛ける。

 小学六年、夏休み前の一学期最後の日。


 舞とのじゃんけんに負け、すべての荷物を押しつけられた丈一郎は、前後に二つのランドセル、両肩に絵の具セット、両腕に朝顔の鉢植えという重装備で、急な登り坂を黙々と歩いていた。

 けたたましく鳴く蝉の声が鼓膜を焼き、容赦ない七月の陽射しが肌をじりじりと焦がす。


「ハァ……ハァ……。くっそ、今日は絶対負けたくなかったのに……。

 てか、そもそもなんでご先祖様は、こんなとこに村作ったんだよ……」


 片道およそ一時間。小学校から自宅へ帰るには、山沿いに続く国道を東へと登り、断崖に沿って造られた細い舗装路を下って、村の裏手へと降りるしかない。

 矛先のない苛立ちを、先祖代々に向けてぶつけるしかなかった。


「今日はお祭りの準備があるんだから、早く帰らないとー!」


 舞がまた、坂の上から声を張る。小さな村のくせに、妙に歴史だけはあるらしいこの集落では、毎年七月の終わり頃に、地元の名無神社で“御例祭”と呼ばれる神事が行われていた。

 舞はその神社の一人娘であり、小学校に上がった頃から白装束に赤い袴を着て、巫女として祭事に参加している。

 舞台に上がり神楽鈴を鳴らす姿は大人顔負けの凛々しさで、村の年寄りたちから“将来はべっぴんさんになるでぇ”とか“神さんが嫁に迎えに来るかもしれんなぁ”と身勝手に褒められていた。


 一方、丈一郎の家もまた、村に点在する桐畑姓のなかでも“本家筋”にあたる家であり、その長男として、今年から父と並んで神事に参加することになっていた。

 厳かな空気の中で玉串を捧げる自身の姿を想像するだけで、丈一郎はなんとも言えないむず痒さと重責を感じていた。


「なあ、舞。今年も巫女舞、踊るの?」


 ようやく坂の上にたどり着き、丈一郎が息を切らせながら尋ねる。すると、舞は振り返ってにっこりと笑った。


「うん。京都からお母さんも見に来てくれるって!」


 太陽を背に、嬉しそうに話す舞の笑顔に、丈一郎は思わずドキリとした。手に持った朝顔の鉢がこぼれないよう、そっと歩を進める。


 同い年ということに加え、立場上祭事で関わることも多く、二人はまるで姉弟のように過ごしてきた。活発な舞のペースに巻き込まれることも多かったが、不思議とそれが心地よかった。


 ――けれど、最近は、なんだか少し違う。


 さっきみたいに、どうにもペースを乱されることが増えている気がする。



 夕暮れの空に、ぽつぽつと提灯の明かりが灯り始める頃。村の神社は、御例祭を前にして活気に満ちていた。


 屋台の並ぶ参道、太鼓の練習をする音、ざわめく人の声。その喧騒から少し外れた社務所の裏で、七瀬 舞は一人、泣いていた。


 肩にかかる白装束、赤い袴。もうすぐ巫女舞の出番だというのに、彼女の胸元にあるはずの“勾玉”は、そこにはなかった。


「なんで……どうして……」


 単身赴任中の母が仕事を切り上げて京都から来てくれた。だからこそ、早めに衣装に袖を通し、まっさきに母に見せようと張り切っていた。だが、母のもとに向かう途中、境内の藪に足を取られて転んだ拍子に、首から提げていた神具――翡翠の勾玉が、どこかへ転がり落ちてしまったのだ。


「ごめんなさい……お母さん……ごめんなさい……ご先祖様……」


 古くから神社に伝わる、大切な神具。代々の巫女が舞に使ってきた勾玉。それを失くした。


「……泣くなよ」


 ふいに背後からぶっきらぼうな声がして、舞が顔を上げる。そこには着物姿の丈一郎が立っていた。


「必ず俺がなんとかしてやるから。だから約束しろ。……泣くな」


 そう言い残して、丈一郎は社務所の裏手、藪の奥へと消えていった。


 日が落ち、御例祭が始まる。

 篝火の灯る境内に、白装束の神職たちが並び、玉串奉奠の儀が執り行われようとしていた。


「……あのバカ息子が。あれほど言い聞かせたというのに、なぜ来ていないんだ」


 桐畑家の長である丈一郎の父は、眉間に深い皺を寄せていた。

 結局、丈一郎は玉串奉奠に姿を見せることなく、父が平身低頭で詫びるばかりだった。列席していた村の古老たちは「子供のすることだから」と笑ってはいたが、空気に残る気まずさは消えず、ただ時間だけが淡々と過ぎていった。


 そして、祭の山場。舞の巫女舞の時間が近づく。丈一郎はいまだ現れていなかった。


(大丈夫……泣かないって、約束したんだから)


 舞はそっと自分に言い聞かせる。大切な神具である勾玉はない。しかし、神楽を捧げる心は変わらない。そう信じて、一歩を踏み出した。


 笛の音が鳴る。太鼓が鳴る。


 舞が鈴を手に、湖面へと突き出した舞台に上がろうとしたその瞬間だった。


「舞!」


 誰かの声が響いた。

 ざわめく観衆を掻き分けるように、一人の少年が走り込んでくる。


 ボロボロの和装。顔や腕には無数の擦り傷。泥と草で全身が真っ黒に汚れていた。


「……丈、くん……?」


 舞の前に差し出されたのは、傷だらけの手。

 その掌には、翡翠の勾玉が月光を浴びて静かに青く輝いていた。


「お母さんたちに見せるんだろ? ほら、早く準備しろよ」


 それまで我慢していた涙が、舞の目から溢れる。


「……ありがとう」


 舞は勾玉を受け取り、そっと胸元に結び直した。袖をさばき、正面を向く。

 再び神楽鈴が振られる。舞は音に合わせて、静かに、そして美しく舞いはじめた。

 松明の火が舞を照らし、その姿を凪いだ湖面へと映す。


 丈一郎はボロボロの姿で立ち尽くしながら、誰よりもその光景に見入っていた。



 *  *  *



 ――今でも、あの日の神楽の光景は、丈一郎の脳裏に焼き付いている。


 闇を照らす篝火の揺らめき。白装束が風にそよぎ、鈴の音が静かに夜の空気に溶けていく。


 涙を拭うことなく、それでも凛としたまなざしで舞い続けたその姿は、どこかこの世のものとは思えないほどに美しかった。


 丈一郎はあの日、自分のなかに芽生えた“何か”に戸惑い、それ以降、舞と少しずつ距離を取るようになっていた。


 「……丈くん? 嫌だったかな?」


 現実に引き戻されたのは、ほんの少し戸惑ったような、優しい呼び声だった。

 舞の言葉に、丈一郎はキメラを見据えたまま小さく息を吐き、照れ隠しのように頭をかく。


「まぁ、好きに呼べばいいさ」


 舞はそんな変わらない丈一郎の姿に、少しだけ目を細めて笑った。


 だが――二人の雪解けの時間は、すぐに終わりを告げる。

 丈一郎の気配察知スキルが微かに反応し、彼の表情が変わる。


「……反対側から、なにかが来てる」


 遠く、洞窟の奥から岩が軋むような鈍い音が響く。二人は一瞬にして表情を引き締め、そちらに意識を集中させる。

 しばらくすると、静かに横たわっていたはずのキメラが、わずかに身じろぎした――その影の向こうから、別の“何か”が現れる。


 一人の男が、闇の奥から姿を見せた。


 つかの間の余韻は断ち切られ、再び現実の戦場へと引き戻される。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ