第62話 遠き日の神楽
巨大な洞窟の底、灯りのない静寂のなかで、色とりどりの鉱石がほのかに輝きを放っている。その中心、瓦礫と岩が乱立する荒れ地の奥――禍々しい異形の獣が、ぴくりとも動かず横たわっていた。
杉谷たちが去った後、桐畑丈一郎と七瀬舞は、その獣、キメラの様子を見張り続けていた。
「ほとんど動きがないな」
丈一郎はじっとキメラを見据えたまま呟く。
「……みんな、そろそろ篠原さん達の所に着いたかな」
舞は目の前の脅威を捉えつつも、杉谷たちのことを心配していた。
「……気になるか?」
「うん。想定外のことが起きてて、きっと戦いにもなってるだろうし」
「まあ、そうだろうな。……でも大丈夫だ。あの人達は負けない」
舞はその言葉に、少し驚いたように丈一郎を見た。
「……信頼してるんだね。そういうの、ちょっと、羨ましいかも」
そう口にした舞の声音には、少しだけ拗ねたような響きがあった。
それが自分でも分かったのか、ふっと笑って、話題を変える。
「ねぇ、屋上での約束、覚えてる? 無事帰ってきたら、聞かせてもらうって話」
いきなりの言葉に、丈一郎は思わず視線を舞に向ける。
屋上での約束。舞の同僚である恵理を助けるため、行きがかり上仕方なかったとは言え、眷属にしていた。
そんな恵理から、“丈”と親しげに呼ばれている件を舞から突っ込まれていた。
『……帰ってきたら、ちゃんと聞かせてもらうからね。……だから、必ず帰ってきて』
……あのときは、ただ無事を祈るための方便かと思っていた。しかし、目の前の舞の視線は真剣そのものだ。
「おい。今この状況で、それ答えないといけないのかよ」
丈一郎が観念したようにそう返すと、舞はいたずらっぽく笑ってみせた。
きっと緊張の連続だった彼を少しでもほぐすために、あえてこの話題を持ち出したのだろう――丈一郎には、そう感じられた。
「……パーティ組む上で、呼びやすくしただけ。大した意味はない」
「へぇ。じゃあ、わたしも呼びやすい方法に変えようかな」
舞の声は、どこか懐かしさを含んでいた。丈一郎が居心地悪そうに視線をキメラへと戻すと、彼女はその横顔に向けて口を開く。
「例えば子供の頃みたいに。丈くん」
その呼び声が、丈一郎の記憶の中の呼び名と重なった。
* * *
湖と山に囲まれた、陸の孤島。
数件の古い民家と、小さな神社しかない、まるで時間から取り残されたような漁村。断崖に沿って無理やり通された細い舗装路ができるまでは、村への出入りは船に頼るしかなかった。
そんな村で、子供は二人だけだった。毎日、片道一時間の山道を歩き、小学校に通っていた。
「丈くーん! おいていくよー!」
坂の上から、舞が元気に声を掛ける。
小学六年、夏休み前の一学期最後の日。
舞とのじゃんけんに負け、すべての荷物を押しつけられた丈一郎は、前後に二つのランドセル、両肩に絵の具セット、両腕に朝顔の鉢植えという重装備で、急な登り坂を黙々と歩いていた。
けたたましく鳴く蝉の声が鼓膜を焼き、容赦ない七月の陽射しが肌をじりじりと焦がす。
「ハァ……ハァ……。くっそ、今日は絶対負けたくなかったのに……。
てか、そもそもなんでご先祖様は、こんなとこに村作ったんだよ……」
片道およそ一時間。小学校から自宅へ帰るには、山沿いに続く国道を東へと登り、断崖に沿って造られた細い舗装路を下って、村の裏手へと降りるしかない。
矛先のない苛立ちを、先祖代々に向けてぶつけるしかなかった。
「今日はお祭りの準備があるんだから、早く帰らないとー!」
舞がまた、坂の上から声を張る。小さな村のくせに、妙に歴史だけはあるらしいこの集落では、毎年七月の終わり頃に、地元の名無神社で“御例祭”と呼ばれる神事が行われていた。
舞はその神社の一人娘であり、小学校に上がった頃から白装束に赤い袴を着て、巫女として祭事に参加している。
舞台に上がり神楽鈴を鳴らす姿は大人顔負けの凛々しさで、村の年寄りたちから“将来はべっぴんさんになるでぇ”とか“神さんが嫁に迎えに来るかもしれんなぁ”と身勝手に褒められていた。
一方、丈一郎の家もまた、村に点在する桐畑姓のなかでも“本家筋”にあたる家であり、その長男として、今年から父と並んで神事に参加することになっていた。
厳かな空気の中で玉串を捧げる自身の姿を想像するだけで、丈一郎はなんとも言えないむず痒さと重責を感じていた。
「なあ、舞。今年も巫女舞、踊るの?」
ようやく坂の上にたどり着き、丈一郎が息を切らせながら尋ねる。すると、舞は振り返ってにっこりと笑った。
「うん。京都からお母さんも見に来てくれるって!」
太陽を背に、嬉しそうに話す舞の笑顔に、丈一郎は思わずドキリとした。手に持った朝顔の鉢がこぼれないよう、そっと歩を進める。
同い年ということに加え、立場上祭事で関わることも多く、二人はまるで姉弟のように過ごしてきた。活発な舞のペースに巻き込まれることも多かったが、不思議とそれが心地よかった。
――けれど、最近は、なんだか少し違う。
さっきみたいに、どうにもペースを乱されることが増えている気がする。
夕暮れの空に、ぽつぽつと提灯の明かりが灯り始める頃。村の神社は、御例祭を前にして活気に満ちていた。
屋台の並ぶ参道、太鼓の練習をする音、ざわめく人の声。その喧騒から少し外れた社務所の裏で、七瀬 舞は一人、泣いていた。
肩にかかる白装束、赤い袴。もうすぐ巫女舞の出番だというのに、彼女の胸元にあるはずの“勾玉”は、そこにはなかった。
「なんで……どうして……」
単身赴任中の母が仕事を切り上げて京都から来てくれた。だからこそ、早めに衣装に袖を通し、まっさきに母に見せようと張り切っていた。だが、母のもとに向かう途中、境内の藪に足を取られて転んだ拍子に、首から提げていた神具――翡翠の勾玉が、どこかへ転がり落ちてしまったのだ。
「ごめんなさい……お母さん……ごめんなさい……ご先祖様……」
古くから神社に伝わる、大切な神具。代々の巫女が舞に使ってきた勾玉。それを失くした。
「……泣くなよ」
ふいに背後からぶっきらぼうな声がして、舞が顔を上げる。そこには着物姿の丈一郎が立っていた。
「必ず俺がなんとかしてやるから。だから約束しろ。……泣くな」
そう言い残して、丈一郎は社務所の裏手、藪の奥へと消えていった。
日が落ち、御例祭が始まる。
篝火の灯る境内に、白装束の神職たちが並び、玉串奉奠の儀が執り行われようとしていた。
「……あのバカ息子が。あれほど言い聞かせたというのに、なぜ来ていないんだ」
桐畑家の長である丈一郎の父は、眉間に深い皺を寄せていた。
結局、丈一郎は玉串奉奠に姿を見せることなく、父が平身低頭で詫びるばかりだった。列席していた村の古老たちは「子供のすることだから」と笑ってはいたが、空気に残る気まずさは消えず、ただ時間だけが淡々と過ぎていった。
そして、祭の山場。舞の巫女舞の時間が近づく。丈一郎はいまだ現れていなかった。
(大丈夫……泣かないって、約束したんだから)
舞はそっと自分に言い聞かせる。大切な神具である勾玉はない。しかし、神楽を捧げる心は変わらない。そう信じて、一歩を踏み出した。
笛の音が鳴る。太鼓が鳴る。
舞が鈴を手に、湖面へと突き出した舞台に上がろうとしたその瞬間だった。
「舞!」
誰かの声が響いた。
ざわめく観衆を掻き分けるように、一人の少年が走り込んでくる。
ボロボロの和装。顔や腕には無数の擦り傷。泥と草で全身が真っ黒に汚れていた。
「……丈、くん……?」
舞の前に差し出されたのは、傷だらけの手。
その掌には、翡翠の勾玉が月光を浴びて静かに青く輝いていた。
「お母さんたちに見せるんだろ? ほら、早く準備しろよ」
それまで我慢していた涙が、舞の目から溢れる。
「……ありがとう」
舞は勾玉を受け取り、そっと胸元に結び直した。袖をさばき、正面を向く。
再び神楽鈴が振られる。舞は音に合わせて、静かに、そして美しく舞いはじめた。
松明の火が舞を照らし、その姿を凪いだ湖面へと映す。
丈一郎はボロボロの姿で立ち尽くしながら、誰よりもその光景に見入っていた。
* * *
――今でも、あの日の神楽の光景は、丈一郎の脳裏に焼き付いている。
闇を照らす篝火の揺らめき。白装束が風にそよぎ、鈴の音が静かに夜の空気に溶けていく。
涙を拭うことなく、それでも凛としたまなざしで舞い続けたその姿は、どこかこの世のものとは思えないほどに美しかった。
丈一郎はあの日、自分のなかに芽生えた“何か”に戸惑い、それ以降、舞と少しずつ距離を取るようになっていた。
「……丈くん? 嫌だったかな?」
現実に引き戻されたのは、ほんの少し戸惑ったような、優しい呼び声だった。
舞の言葉に、丈一郎はキメラを見据えたまま小さく息を吐き、照れ隠しのように頭をかく。
「まぁ、好きに呼べばいいさ」
舞はそんな変わらない丈一郎の姿に、少しだけ目を細めて笑った。
だが――二人の雪解けの時間は、すぐに終わりを告げる。
丈一郎の気配察知スキルが微かに反応し、彼の表情が変わる。
「……反対側から、なにかが来てる」
遠く、洞窟の奥から岩が軋むような鈍い音が響く。二人は一瞬にして表情を引き締め、そちらに意識を集中させる。
しばらくすると、静かに横たわっていたはずのキメラが、わずかに身じろぎした――その影の向こうから、別の“何か”が現れる。
一人の男が、闇の奥から姿を見せた。
つかの間の余韻は断ち切られ、再び現実の戦場へと引き戻される。




