第59話 キル・ゼム:暗躍する存在④
抹殺の刻印――そのスキルの本質は、“強制契約”にある。
本来は、“重大な秘密”を知られてしまった相手を逃さないための、いわば暗殺者の“保険”として設計された最後の手段だ。そのため、発動条件はきわめて特殊である。対象が秘密を知った者であること、そして発動者自身が“命”をチップとして賭けること――このふたつを満たしたとき、契約は成立する。
契約が成立すれば、刻印を受けた者は、発動者――すなわちイザベル――から数百メートル以上離れることができなくなる。どちらか一方が死ぬまで、この呪印は解除されない。
さらに、刻印された者は全ステータスを大幅に削がれ、反対に発動者は、明かされた“情報の重要度”に応じて、全能力値が限界を超えて強化される。
これは、もはや単なる戦闘ではない。情報と命を賭けて成立する、一度きりの“決闘”だ。
だが当然、このスキルは暗殺任務には不向きである。“決闘”という正面衝突の構図は、奇襲と一撃必殺を旨とする暗殺者の本質と真っ向から対立している。加えて、直接戦闘での暗殺者のスキル構成とも噛み合わず、通常なら窮地に追い込まれない限り、このスキルを選ぶことはない。
――しかし、イザベルは違った。
このスキルを初めて手にしたとき、彼女は歓喜した。
そしてそれ以降、強敵を見つけるたびに、わざと秘密を明かし、進んでこの“決闘”を挑むようになったのだ。
なぜなら、この極限の緊張感こそが、イザベルにとって最大の悦びだったからだ。
死がすぐ隣にあるからこそ、世界は鮮烈に色づく。その刹那だけ、自分が確かに“生きている”と実感できる。
だが、そんな決闘に値する強敵と巡り会えることなど、ステータスを得る以前も含め、彼女の人生においては極めて稀だった。
マニラのスラムで日々を這うように生きていた頃。拾われた養父のファミリーを乗っ取り、マフィアの一団を束ねていた頃。──そして、金色の黄昏にそのファミリーを壊滅させられた日。
あのとき、彼女は生き残り、スカウトされた。職業を得て、ジンの部下としてダンジョンを渡り歩くようになった。
以降、数々の修羅場をくぐり抜けてきたが――マフィアを葬った金色の幹部連中を除けば、誰一人として心を震わせる敵はいなかった。
さらにマニラやジャカルタで行ったゾンビレイドによって、彼女のレベルは急速に跳ね上がってしまった。もはや剣を交えるに足る敵すら、存在しなくなってしまったと思えた。
であれば──もしこの刃を、あのジンや組織の“九席”たちに向けたとしたら──どうなるのだろうか。
そんな破滅的な想像が、頭から離れなくなっていった。
そんなある日、ジンから告げられた。
「日本のダンジョンの要が、未だに抵抗をしている。一番近い我々が調査に向かう事になった」と。
イザベルの胸がざわめいた。
もしかすると、噂に聞くKIRCSの連中と出会えるかもしれない。古き日本の呪術を受け継ぐ、金色ですら警戒する異端者たち。彼らとなら、命を賭ける価値があるかもしれない――
しかし、期待に反してダンジョンで出会ったのは、別の者たちであった。
最初の一人を刺したとき、イザベルはつまらなそうに口角を歪めた。
やっぱり期待外れ。どうせまた経験値の山だろう――と。
ところが、その後に現れた男――ナイフを持った篠原 拓馬は違った。
戦いを交わした瞬間、肌が粟立つ。
技術がある。経験がある。冷静に状況を読む目も、なまじの兵士とは違う。斬り結ぶたびに、生きているという実感が心を満たしていった。
(何こいつ!? この強さ……楽しいじゃん!)
歓喜がこみ上げる。思わず、情報を明かしすぎてしまったのも仕方がない。自分の正体。職業名。そして組織の目的まで。
あらゆる情報を漏らした分、抹殺の刻印の効果が上昇していた。リスクは増す。けれどそのぶん、力も増していく。
イザベルの心は、完全に戦いに酔っていた。
――そして、さらに同レベルの敵が追加で三人現れたのだ。
篠原の左右を固めるように布陣を取った、大島、中谷、そしてその背後で眼鏡を光らせる杉谷。
その動き。その構え。その視線。どれもがただ者ではないオーラを放っていた。
一人は刀を構え、一人は黒い剣を持ち、一人は銃を構えながら分析の目で彼女を見据える。
修羅場を抜け、磨かれた魂たち――それは、彼女が渇望し待ち望んでいた、“本物”だった。
ゾクリ、と背筋を走る戦慄に、イザベルは舌なめずりをした。
(なんだ、他にもいるじゃない。最高じゃん、日本人)
四対一。普通なら絶望するはずの状況。
だがイザベルは、今、間違いなくこの上なく“生”を感じていた。
「キャハハッ! どうしたの、オジサンたち! さっきまでの威勢はどこいったの?」
嘲笑を浮かべながら、イザベルは左右へと軽やかに跳び、まるで影のように4人を翻弄する。
「また来るぞ!」
篠原が叫んだ。だが、その場にいた全員が理解していた。杉谷の首元の傷は深く、この戦闘に復帰するのは不可能に近い。実質、残された戦力は三人だ。
三人は息を合わせて構える。張り詰める空気のなか、神経を研ぎ澄ませたその瞬間。
――ひゅっ。
風が揺れた。
イザベルの姿が一瞬で篠原の正面に現れ、次の瞬間にはナイフの切っ先が目にも留まらぬ速さで篠原の喉元を狙っていた。
篠原は即座に腰のナイフを抜き、迫る一撃を受け流す。鋼と鋼がぶつかり合い、甲高い金属音が洞窟に響いた――だが、その刃はただ速いだけではない。まるで鉄槌のような重みを伴っていた。
「……っ、一撃が、重くなっている……」
手応えに圧され、篠原の足元がぐらつく。その僅かな隙を見逃すはずもなく、イザベルが体を翻し、背後を取ろうと動いた――
「そこだっ!」
その瞬間、横合いから大島が割って入る。右腕一本で構えた日本刀・歌仙兼定を、風を裂くように振り抜いた。
「瞬雷閃!」
イザベルは身をしならせ、間一髪で刃をかわす――が、斬撃の軌道に宿った雷撃が空気を裂き、彼女の身体を一瞬、痙攣させた。
「……ぅぐっ!」
雷撃によるわずかな硬直――その一瞬を、逃さない者がいた。
イザベルの影から、暗黒騎士・中谷 海翔が、漆黒の長剣を構えて躍り出る。
「はあああああッ!」
雷の余韻に揺らぐイザベルの腹部めがけて、その剣が迷いなく振り下ろされた。
ザクリ――生々しい音が肉を裂く。
イザベルの動きが止まる。切り裂かれた服の下から、紅の鮮血が滴り落ちる。
「うそ……っ!」
驚愕に目を見開き、イザベルは自らの血を見る。彼女にとって、それはあまりにも久しく、あり得ない光景だった。
中谷がすかさず追撃を繰り出し、さらに反対側からは篠原が挟撃を仕掛ける。
「終わりだ」
イザベルの背に迫るナイフ。刃が、その喉元を捉えようとした――。
「……なんちゃってぇ」
イザベルが、振り返りもせずに言った。
次の瞬間、白い歯を見せて笑った彼女の表情が一変し、腰を捻る。体の回転を利用して、右手に持つナイフで篠原のナイフをいなす。
反対側、左手では中谷の大剣の動きを読んだかのように、刃の隙間へと逆手のナイフを滑り込ませ――
カシンッ。
「……!」
中谷の剣が止まった。わずかにバランスを崩したその瞬間。
「バァーカ! 動きが分かりやす過ぎなんだよ!」
イザベルが嘲るように叫び、低い体勢から一気に跳ね上がった脚が、中谷の膝裏を蹴り上げる。同時に、中谷の懐へと踏み込むと、逆手のナイフが肋骨の隙間を狙い、鋭く突き込まれる。
「が、あっ……!」
苦悶の声を上げ、中谷が片膝をついた。鮮血が岩を濡らす。彼の身体から、確かな命の音が削ぎ落とされていく。
そして――
「キャハハ! ほら、またひとり仲間が減ったよ?」
篠原へと向けて、肘を折りたたんだ姿勢から、短く鋭くナイフを突き出す。直撃は回避したが、篠原の肩口へと刃が深々と食い込んだ。
「く……!」
杉谷に続いて、中谷、篠原が同時に崩れ落ちる。
「キャハハ! 焦って決めに来すぎなんだよ、オ・ジ・サ・ン! そんなんじゃ何一つ守れないよ?
もしかして、レベルが高いからって調子に乗っちゃった? だとしたら馬鹿すぎ。ちゃんと職業とスキルを理解して活かさないとさぁ、意味ないよ?」
イザベルの全身に、戦慄と歓喜が混ざったような興奮が満ちていた。
「さてさて……残るは、そこのオジサンだけだね。
仲間を気にして本気出せないなら、先に転がってる三人にトドメ刺しちゃおっかなぁ?」
イザベルはナイフをくるりと回しながら、獲物を選ぶ猫のようにゆっくりと歩を進める。
中谷海翔は、黒い剣を杖のように支えながらも、決してイザベルから目を逸らさなかった。
篠原拓馬も、肩口から血を流しながら、痛みに耐えつつ呼吸を整えていた。
「くっ……!」
その前に、大島が立ちはだかる。倒れた仲間を守るように刀を構え、前に出る。
だが、上段から振り下ろされた斬撃を、イザベルは軽く身をかわして挑発する。
「キャハハ! アタシ相手にその程度じゃ、幹部連中には手も足も出ないよ〜」
ナイフを指先でくるくると弄びながら、まるで遊んでいるかのように攻撃をかわし続ける。
焦りから大島の動きが大ぶりになる。ナイフの切っ先が、その隙を突いてその心臓めがけて走る――そのときだった。
「……理解、できました」
大島の背後、地面に膝をついていた杉谷が、首元を押さえながらゆっくりと立ち上がった。その声にイザベルが思わず攻撃の手を止めた。
「あなたは――“今の組織”、金色の黄昏を、本音ではよく思っていない。おそらく、かつて守るべきだった者たちを奪われたから。
しかし、あなたには《復讐する力も勇気もない》。だからこそ、こうして自らを追い込むような破滅的な行動を取っている。……違いますか?」
イザベルの表情が、一瞬で怒気を帯びる。
「はァ!? キモッ! なに勝手に妄想語ってんだよ!」
「妄想ではありません」
杉谷は静かに眼鏡を押し上げた。
「私のスキル、観察眼と真理眼。
あなたが発した言葉、取った行動、特定の単語における声のゆらぎ、眼球の動き、呼吸のリズム――
……それらすべての情報を統合し、解析した“事実”です。あなたは、おしゃべりでしたからね。情報に困ることはありませんでした」
淡々とした声。だが、確信に満ちていた。
イザベルは言葉を失ったまま、一歩後ずさった。表情は明らかに動揺していた。
「真理拘束」
杉谷が小型の銃を構え、一発を撃ち込む。
「は? ショボ! 当たるわけ――っ!?」
軽く身を逸らし、弾丸はイザベルを外れた。だが次の瞬間、弾が地を穿つと同時に淡く光る鎖が地面から現れ、彼女の足元を絡め取り、そのまま全身へと巻き付いていく。
それは、杉谷がレベルアップで新たに取得したスキル――対象の“心理的な弱点”を看破したときにのみ発動可能な探偵専用の拘束術。
「私の出した答えが間違っているのなら、この拘束は容易に解けるはずです。
ですが、もし推理が正しいのであれば……この戦いは、あなたの“心”によって決着します」
身動きが取れず、言葉を失ったまま、イザベルの瞳に浮かんでいたのは――怒りか、それとも、哀しみか。
「職業とスキルを活かす、とおっしゃいましたね。短期間でレベルアップした弊害として、おっしゃるとおり我々はスキルの練度が足りていないことを、身に沁みて感じました。アドバイス、感謝します」
本音から杉谷は言っているものの、覚えたての探偵のスキルを実戦で的確に使いこなした後では、周りへの皮肉にしか聞こえない。
「さて。皆さんも、どうやら重症のようですし……有村さんを呼んで回復をお願いしましょうか」
自らも首元に深い傷を負いながら、どこか飄々とした調子で言い放つ杉谷。その軽さに、篠原が呆れたように毒づく。
「オマエが言うのかよ。『新スキルを試すから、時間を稼げ』……言われた通りやったおかげで、このとおりだ。……ったく、相変わらずだな。オマエは」
杉谷は肩をすくめ、小さく微笑んだ。それが、返答だった。
血と静寂に包まれた空間の中で――決闘の幕は、静かに、終わろうとしていた。
決着が拘束で終わる場合、刻まれた刻印はどうなるのか?
続きます。




