第56話 キル・ゼム:暗躍する存在①
戦闘を繰り返しながら慎重に進み、丈一郎たちは一時間ほどで第五層の最深部――底へと辿り着いた。これまで乱立していた石柱は姿を消し、代わって大小の岩が点在する荒れ地が広がっている。
その空間の中心で、“それ”は静かに眠っていた。
体長は優に五メートルを超える。見る者を圧倒する異形。逞しいオオカミの四肢に、巨大なクマの胴体。頭部には、ヒヒのような野性と知性を併せ持つ顔が据えられ、背中からはカラスのような漆黒の翼が生え、洞窟内を流れる空気に反応し妖しく揺れていた。尻尾は、ぬらりと地面を這うヘビそのもの。
まさに複数の獣が無理やり組み合わされた、忌まわしき融合体だった。
眠っているにも関わらず、この空間の主であることを主張するかのように、空気が歪むような異様な存在感を放っている。
「あいつだな。眠っているようだが……あの姿、キメラか?」
丈一郎が、岩陰に身を潜めながら息を呑むように呟く。その隣で身を伏せていた杉谷悟が、眼鏡の奥の目を細めながら答えた。
「どうやらそのようですね。観察眼スキルで確認しましたが、キメラと表示されています。しかしあの見た目は――“鵺”に近い」
「鵺っすか。……平家物語に出てくる妖怪っすね」
新海練が感心したように呟く。その言葉に恵理が目を丸くした。
「前から思ってましたけど、新海さんって、意外と頭いいですよね」
「…最近、遠慮なくなってきてないっすか?」
新海が肩をすくめながらため息を付く。
「“頭は猿、骸は狸、尾は蛇、手足は虎の姿にて、鳴く声、鵺にぞ似たりける”。
地域の伝承では、手足が犬とされる場合もあります。熊やカラスを除けば、あの魔獣とはかなり近い構成と言ってもいいでしょう。この階層に現れた魔物たちとの関係性も、無視できません」
眠る獣は、時折うめき声を漏らしながら、身をよじって体勢を変えていた。
「なんだか、苦しそう……」
七瀬舞がぽつりと呟く。その顔には、どこか痛ましげな色が浮かんでいた。その言葉に、杉谷は考え込む。
「杉谷さん、どうしたんだ?」
丈一郎の問いかけに、杉谷が答える。
「ダンジョンを進んでいれば必ず出会うボスが、ミッションの対象となっていることに違和感を覚えていました。
昨日、桐畑さんから聞かされた鬼戦の前後に起きた出来事。ミッションの発生も含めて、まるで桐畑さんを強化することが目的のようでした」
「あのあと丈に発生した黄泉津大神の加護。つまり、ミッションを起こしているのは、黄泉津大神ってことですか?」
恵理が疑問をあげると丈一郎が答える。
「鬼戦の前に脳内に聞こえた声。たぶんあれが黄泉津大神だと思うんだけど。そいつが試練とかなんとか言った後にミッションがきたからな」
「えぇ。桐畑さんのおっしゃるように、ミッションを作成している存在は、ダンジョンを作成した存在と目的が異なり、別物である可能性が高いでしょう。
ですから、あの悶えるキメラの状態は、なにかそれらと関連があるのではないか、そう考えていた所です」
そう言うと杉谷は傍らをホバリングしていた通信ドローンに手信号を送り、機体を手元に呼び寄せる。ドローンは静かに高度を下げ、杉谷の前にぴたりと停止した。
「何にしても、まずは他のメンバーに連絡を入れましょう。皆さんが到着するまで、我々はここで監視と観察を続け、戦闘準備を整えます」
そう言って杉谷が通信操作に移ろうとした、その瞬間。
ドローンのインジケーターランプが、赤と黄色の交互点滅を始めた。通常は青または緑で安定しているそれが、警報信号特有のリズムで明滅する。
杉谷の手が止まり、表情が一変する。
「これは……! 篠原隊から、緊急救援信号が発信されています」
* * *
篠原隊は、丈一郎たちが向かったすり鉢状の中心部とは逆方向――広大な洞窟の壁面沿いを探索していた。
道中では、カラス、オオカミ、ヒヒ、ヘビ、クマ型の魔獣が姿を現したが、レベル180を超える彼らにとって、それらはもはや脅威ではなかった。圧倒的な実力で出現する魔物を次々と蹴散らし、順調に進行を続けていた。
それでも、警視庁の精鋭で構成された彼らは警戒を怠らない。慎重すぎるほど周囲に目を配りつつ、着実に前進を続けていた。
――やはりこちらにはボスはいない、そう判断しようとしたその時だった。彼らの視界の先、壁面に沿うようにひっそりとたたずむ「家」が現れた。
石を積み上げて作られた簡素な建物。その隙間からは、明かりが漏れている。まるで、この深層に“誰か”が住んでいるとでも言いたげに。
その異様な光景に、隊の指揮を取る篠原拓馬は即座に命じた。
「全員、ここで止まれ。罠の可能性もある」
「……第5層まで潜って拠点を築いた探索者がいるって可能性は、ないですか?」
吉野直哉が慎重に可能性を探る。すぐに今泉玲が、冷静に返した。
「ないとは言い切れません。しかし、裏技のようなやり方で高レベルに到達している我々ですら、ここに来るまでにパンデミックから22日経っています。つまり、正攻法で望んでいる探索者が、それよりも前にこの階層まで到達するのは、非常に困難と言えます。
ましてや、そんなダンジョンの中に家を立てて住むなんて。仮にあの家の主がここまでスムーズに降りてきて、ここで住んでいる探索者とするなら……桐畑さんと並ぶ、いえ、もしかするとそれ以上の実力者ということになります」
二階堂瑞希も頷き、警戒を強めるように続ける。
「もう一つ引っかかるのは、この階層に家を構えているという点ね。順当な進行ルートであれば第3層、あるいは我々のように4層から5層に降りる階段の手前に、拠点を置くほうが快適だと思いませんか」
「たしかに、そうだよね」
吉野が頷く。その横で、平野航が冗談めかしつつも、不気味に呟いた。
「……順当に、じゃなくてさ。逆に、下から上がってきた――なんてな」
ダンジョンの下から、上がってきた。その可能性は、全員が冗談に思えなかった。
「いずれにせよ、しっかりとした拠点を置いている以上、家の主は“この階層で行動すること”を目的としている」
篠原がそう締めくくると、全員の視線が静かに石の家に注がれた。
そのときだった――
「おじさんたち、日本人? ここで、何してるのかなぁ?」
背後から、不意に聞こえた少女の声。
驚きに全員が振り返ると、そこには10代半ばほどの少女が、セーラー服にブーツ、黒い手袋という異様な格好で首を傾げて立っていた。まるで、近所を散歩中だと言わんばかりの落ち着いた表情で。
「……こんなところに、子ども?」
最後尾にいた守衛者の吉野直哉が、思わず小さく呟いた。違和感を覚えつつも、あどけない姿に一瞬緊張が緩む。
「君はいったい――」
手を伸ばそうとした、その瞬間。
――とすっ。
音すら立てぬほど静かに、少女が吉野の懐に滑り込む。そして、一切無駄のない動作で、その胸元へナイフを深々と突き立てた。
呻き声も、抵抗も、一切ない。血すら飛び散ることすらなく、吉野はその場で崩れ落ちた。
「吉野……!? くそっ」
信じられないという表情を浮かべつつも、その外見に惑わされることなく、薬学者の平野航は即座に敵と判断した。
彼は一瞬の躊躇もなくスキルで毒性の溶解液を込めた小瓶を生成すると同時に、渾身の力でそれを投擲した――。
その瞬間、視界が弾けた。
少女の姿が、まるで残像のように消えたかと思うと、次の瞬間には平野の目の前に回り込んでいた。
「遅いよ。おじさん」
少女はにやりと笑ったかと思うと、ナイフを握る黒い手袋が一閃。平野の右腕が肘から先ごと、空中に舞った。
「ぅがぁああッ!!」
絶叫が洞窟内に木霊する。薬剤はそのまま逸れ、石の壁で無力に砕け散った。
鼻を衝く、生々しい血の臭い。あまりにも鮮烈な、まさに“二人抜き”の惨劇。
その一瞬が、戦場に立つ者たちに“死”がすぐ隣にあることを、嫌というほど突きつけた。
「二人を守りつつ、防御姿勢に入れぇえ!」
篠原の怒声が響き渡る。吉野と平野のもとへ駆け寄りながら、二階堂瑞希、今泉玲、そして篠原自身が、互いに背中を預けあい、即座に武器を構えて防御陣を形成する。
「べつに、アタシに近づこうとしなきゃ、なにもしないのに。……今はね。キャハハハハ!」
少女の無邪気な笑い声が、不気味に洞窟内へと響き渡る。
その声は、まるで獲物を前にして興奮を隠せない狩人のものだった。
* * *
杉谷悟、新海練、有村恵理の三人は、キメラを監視する丈一郎と舞を残し、ドローンの先導に従って篠原隊の救援に向かっていた。
「篠原隊は壁面方面を調査していたはずです。ステータスを活かして全力で駆けても、こちらから合流までに最低でもあと10分はかかるでしょう」
杉谷が冷静に呟くと、新海が即座に反応した。
「俺が、先行します…!」
「落ち着いてください。篠原さんたちを含め、我々は正規の攻略ルートとは異なる方法で、短期間にレベルを引き上げてきました。そんな彼らが窮地に立たされる相手がいる状況です。あなた一人が飛び出すことを、許可することはできません」
杉谷の冷静な言葉に、新海は「……っす」と歯を食いしばりながら、感情を押し殺すように頷いた。表情には、仲間を案じる焦燥が色濃く滲んでいた。
4層から降りてきた階段のあたりまで来ると、視界の中に大島隊の姿が現れた。彼らもまた、篠原隊からの緊急通信を受けて駆けつけている最中だった。
杉谷は階段まで来ると大島隊と合流し、スキルを発動し状況の把握を開始する。杉谷は探偵スキルの一つ追跡術を再発動し、篠原隊メンバーの気配を読み取る。
「……! 篠原隊の気配が1つ足りません」
その言葉に、全員の顔が強ばる。
「すぐに向かいましょう」
恵理の言葉に全員が頷き、再び駆け出した。
「杉谷さん。敵がこのダンジョンのモンスターである可能性は?」
自衛隊の特戦群で構成された大島隊のリーダー、大島 諒が駆けたまま問いかける。杉谷は前方から飛び出してきたシャドーウルフを撃ち抜きながら、その質問に答える。
「極めて低いですね。ボス級ならともかく、ご覧のように、この層のモンスターは我々のレベルでは相手になりません」
「それってつまり……杉谷さんたちが戦った、あの“鬼”みたいなのがまた?」
会話を聞いていた南雲が、不安そうな声で割って入ってくる。
「分かりません。ただ、鬼のときに感じた“圧”のようなものは、今のところ感じていません。それ以外に可能性があるとすれば……」
「ダンジョンに関わる“何者か”、か」
カラスの魔物を撃ち落とした真壁翔一が、杉谷の言葉を継ぐように口を開く。
「はい。最悪のケースとして、ダンジョンそのものを作った存在、あるいはそれに近しい存在が関与している可能性があります」
その言葉に、大島がハッとして続ける。
「つまりこのダンジョンの構造を熟知している者。その意味は、我々が行った“ゾンビをダンジョンに落としてレベルを上げる”方法もすでに実践していて、我々と同等、あるいはそれ以上の力を手にしている可能性がある者、ということか」
杉谷は静かに頷く。その言葉に、場の空気が一気に張り詰め、かけるスピードが落ちそうになる。得体の知れぬ“何者か”の存在と、今自分たちが踏み入れている状況に、全員が戦慄を覚えた。
「とにかく、戦闘を最低限に保ちつつ、最速で現場に向かいましょう」
杉谷の一言が、重苦しい空気の中で、再び皆の背中を押した。




