第52話 東京レイド⑪
「お主が御方の使徒か。仮初の肉体ではあるが、しばしの間、楽しませてもらおうぞ」
そう言い放つと、鬼は黒紫の巨躯を揺らし、丈一郎に向かって一歩飛び出した。それはただの一歩ではない。アスファルトを深く抉り取るほどのひと蹴りで、3メートルもの巨体が、瞬く間に10メートル近い距離を詰め、丈一郎の眼前へと迫る。
「獄焔」
鬼が腕を振り抜いた瞬間、その拳から禍々しい黒い炎が噴き出し、空間を歪ませながら丈一郎を襲った。丈一郎は間一髪、両手剣を構えて防御するが、その炎の衝撃は想像を絶するものだった。全身を灼くような熱と、骨の髄まで響く衝撃に、丈一郎は「ぐっ!」と呻き声を上げ、吹き飛ばされる。アスファルトを数メートル滑走し、コンクリートの柱に激しく叩きつけられた。
衝撃で立ち上がる砂塵の中、間髪入れずに丈一郎が飛び出した。体勢を立て直すや否や、両手剣を構え、鬼へと斬りかかる。
「二連斬!」
切り上げと切り下げの二連撃が、風を裂いて鬼に迫る。しかし、鬼はまるで予測していたかのように、一撃目をわずかに体を傾けて避け、二撃目の斬撃は、その左腕でいとも容易く受け止めた。金属が擦れるような甲高い音が響き、剣と腕の間で火花が散る。
鬼の意識が剣に向いていると判断すると丈一郎は不意に剣を離した。そのまま鬼の懐へと滑り込み、背後に回る。鬼が剣を掴んだまま、丈一郎の姿を見失った一瞬の隙を突いて、丈一郎は片腕を伸ばした。
「盗技!」
そのスキルが発動した瞬間、鬼が掴んでいた両手剣が、まるで意思を持ったかのように丈一郎の手元へと戻る。そして、体勢を崩した鬼の背後から、丈一郎は渾身の一撃を叩き込んだ。
「背撃!」
両手剣が、鬼の背中へと深く突き刺さる。
「なるほど。レベルだけでなく戦闘センスもなかなかのようであるな」
腹に両手剣が刺さったまま、鬼はまるで痛みを感じていないかのように冷静な声で語った。その瞳には、侮蔑の色はなく、むしろ興味を覚えたかのような光が宿っている。
「どれ、この肉体でもある程度は持つであろう。黒雷」
鬼がそう呟くと、突き刺さった剣を握りしめ、その体から漆黒の雷が迸った。雷は剣を伝い、丈一郎の全身へと容赦なく襲いかかる。
「ぐああああああっ!」
丈一郎は絶叫した。全身を貫く激痛と、痺れるような感覚に襲われる。雷は彼の肉体を内側から焼き焦がすかのように暴れ、そのHPが急速に削られていく。意に介することなく、鬼は黒雷を放ちながら、丈一郎の顔面に容赦ない打撃を繰り出した。
トドメの一撃とばかりに、鬼が巨大な拳を振り上げた瞬間、丈一郎の顔に不敵な笑みが浮かんだ。
「――《巨雷鉄鎚陣》」
その言葉が響くや否や、丈一郎の左右から、巨人の腕が現れた。その腕は、鬼の巨体をその場でガシリと掴み、持ち上げる。
ドゴォォォンッ!
そのまま、有無を言わせぬ勢いで地面に叩きつけ、巨大な拳で連撃を放ち始めた。ドシュ!ドシュ!と、アスファルトを砕く凄まじい音が響き渡る。スクランブル交差点は、その衝撃に耐えきれず大きく陥没し、その下の地下通路の床もさらに貫通。鬼は砕け散る瓦礫と共に、地下3階の東急線ホームへと叩きつけられた。
「条件は満たしているが、理解ができていないようだな。本来想定していたタイミングと異なるからか」
地下深くに響く鬼の声が、丈一郎の耳に届いた。腹には巨大な穴が空き、黒紫色の皮膚は自らの雷で焼けただれ、あちこちの骨が折れているように見える。だが、鬼はまるで何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がった。その再生能力、そして精神力は、丈一郎の想像をはるかに超えていた。
「うそだろ……」
丈一郎の顔から、一瞬にして血の気が引いた。これほどのダメージを与えても、まだ立ち上がってくるのか。この敵は、一体どれほどの耐久力を持っているというのか。あるいは、肉体的なダメージが関係ないのか。
「次は我の番だな。お主が触れるべき神威というものを見せてやろう。しっかりと体で覚えることだ」
鬼がそう言って、地下3階のホームのアスファルトを蹴った。驚異的な跳躍力で、巨体が真っ直ぐに丈一郎へと迫ってくる。
ドオオォォンッ!
直上へと蹴り上げられた丈一郎は、渋谷スクランブルスクエアの高層ビル群を背景に、夜空へと吸い込まれていく。その勢いは、まるで巨大なロケットのようだった。
丈一郎を蹴り上げた勢いのまま、鬼もまた地上へと飛び出した。そして、中空に蹴り上げられ、為す術もなく落下する丈一郎に向けて両腕をかざす。その掌から、地獄の雷と炎が組み合わされた、おぞましい光が放たれた。
「これがお主に必要な力である。雷獄焔葬」
雷と炎をまとった力の奔流が、抵抗する間も与えずに丈一郎の体を直撃した。
丈一郎は絶叫する間もなく、まともにその一撃を食らい、その意識は闇へと沈んでいく。
そして現在。渋谷スクランブル交差点の中央。
そこには、傷一つない黒紫の巨躯が、静かに立っていた。身長約3メートルのその鬼は、先ほどの丈一郎との激戦がまるでなかったかのように、上空から降り注ぐ光によってその肉体はすでに瘉えており、微塵の損傷も見当たらない。
「ふむ。レベル任せの強さでは、我には届かんぞ。文字通り格が違うからな」
鬼は、まるで論理を説くかのように理知的な言葉を紡ぐ。その声には、圧倒的な力への揺るぎない自信と、わずかな嘲りが含まれていた。
その時、公園通りから駆け抜けてきた4人が交差点前に足を踏み入れた。彼らの視界に飛び込んできたのは、スクランブル交差点に君臨する鬼と、その奥、渋谷駅の壁面に血まみれで倒れ伏す、桐畑丈一郎の姿だった。
「うそ……丈一郎くん?」
舞の口から、か細い声が漏れた。信じられない光景に、彼女は言葉を失い、その場に立ち尽くす。恵理もあまりの惨状に声が出ず、ただ唇を噛み締めていた。
「杉谷さん、あいつ……喋ってます」
新海練が、固い声で呟いた。普段の軽薄な口調は消え失せ、その表情は極度の緊張と真剣さに満ちている。
杉谷悟は、鬼から決して目を離すことなく、静かに頷いた。この敵は、これまでのどのような“ダンジョン由来の存在”とも異なる。知性を持ち、そして、丈一郎をここまで追い詰めるほどの、規格外の強さを持っている。
「やれやれ、条件は満たしたというのにいつまで寝ているのだ。お主の仲間が来たようだぞ。どれ、せっかくだ、力を見てやろう」
鬼は、倒れた丈一郎を見下ろしながら、挑発するように語りかけると、不意に、その視線を4人へと向けた。金色の瞳が、杉谷たちを射抜く。
「二人は退け! 杉谷さん!」
新海が叫ぶや否や、恵理と舞を庇うように前に飛び出した。その手には、既に愛用のナイフが握られている。杉谷もまた、鬼の視線から咄嗟に身を翻し、銃を構えてサポートの体制に入った。
新海は、研ぎ澄まされた格闘術とナイフ捌きで鬼の周囲を翻弄する。素早い動きで鬼の攻撃をかわし、致命傷は与えられないと知りながらも、その関節や急所めがけてナイフを突き立てる。杉谷も、正確な射撃で新海を援護し、鬼の膝や腕の関節を狙って的確に弾丸を叩き込む。その一連の動きは、確かに練度が高い。
「なかなかの練度だな。レベルもしっかり上げているようだ」
鬼は、まるで手合わせを楽しむかのように、余裕の笑みを浮かべたまま、その言葉を吐き出した。杉谷たちの攻撃は、その強靭な肉体には届かない。
「――《黒雷》」
鬼が腕を振るうと、漆黒の雷が地を這うように新海へと迫った。新海は回避を試みるが、その速度は尋常ではなく、雷の奔流が彼を直撃する。
「ぐっ!」
新海が呻き声を上げ、吹き飛ばされる。その身体からは焦げ付くような匂いが立ち上った。
「――《獄焔》!」
続けざまに、鬼のもう片方の腕から黒い炎が噴き出し、杉谷を囲い込む。杉谷は咄嗟に身を捻り、炎から逃れようとするが、その灼熱の渦に捕らえられ、衣服が焦げ、皮膚が焼かれていく。
「聖環癒域!!」
恵理の放った魔法は途端に杉谷を包み込んだ。杉谷は浅くないダメージを受けていたが、回復と防御を兼ね備えた聖環癒域の光に助けられ、なんとか体勢を立て直して立ち上がる。
舞は、吹き飛ばされ呻く新海へと駆け寄り、その頭に手をかざす。「ヒール!」舞のスキルが発動し、新海の身体を光が包み込む。
「逃げろって言ったんすけどねぇ。…おかげで助かったよ。ありがとう」
新海は、痛みに顔を歪ませながらも、舞に礼を言った。
満身創痍の4人は、息を切らしながら鬼を見据える。最初の攻防で、いや、渋谷駅の壁面で血まみれになって倒れる丈一郎の姿を見た時点で、彼らはこの鬼が、自分たちの敵う相手ではないことを理解していた。それでも、目の前の仲間を救うため、そして、倒れた丈一郎を救うため、彼らは一歩も引かなかった。
「ふむ……こんなものか。さて、まだ起きぬとは、どうしたものか。
なにせ、本来の予定より随分と早い邂逅であるからな。――仲間の“死”を目の当たりにすれば、あるいは……覚醒するかもしれんな」
そう呟いた鬼は、まるで試すように、ゆっくりと四人の方へ歩を進めはじめた。
その時。
血に染まり、瓦礫の中で倒れていた丈一郎の指先が――わずかに、ぴくりと動いた。




