第50話 東京レイド⑨
代々木公園に穿たれた大穴の底は、まさに地獄だった。
動くものも、既に動きを止めたものも――数百万に及ぶゾンビの群れが折り重なり、そこはまるで肉の絨毯と化していた。ダンジョンへの吸収は到底追いついておらず、腐臭と呻き声が空間を満たす。視界は悪く、足元には血と泥にまみれた肉片と骨の残骸が広がり、踏みしめるたびにぬかるみが音を立てる。
この異常な戦場で、突入部隊はすでに三十分以上の死闘を繰り広げていた。最初に降りた地点の壁面を背に、時折隊列を組み換え互いの負担を軽減しながら、戦線を維持している。
最前線に立ち続けるのは、守衛者・吉野直哉だった。彼は、警察の対テロ特殊部隊でも使用されるバリスティック・シールドを改造したタワーシールドを構え、迫りくるゾンビの猛攻を文字通り全身で受け止めていた。
止むことのない攻撃により、盾はすでにところどころが歪み、耐久限界が近いことは明らかだった。このわずか数分のあいだに、ゾンビの一撃が二度も盾や装備を貫通しかけ、そのたびに神谷が展開した《クイックバリア》が淡い光を放ち、衝撃を無効化していた。つまり――そのバリアも、残すはあと一枚。
吉野の隣では、暗黒騎士・中谷海翔が影を纏い、漆黒の剣を振るっていた。剣を地に突き立てるたび、影宴が発動し、地面から伸びた無数の闇の腕がゾンビを次々と影の中へと引きずり込んでいく。
この薄暗い地底において、中谷の力は最大限に引き出されていた。彼の存在は前線の維持に欠かせない要となっていたが、どれほど職業やスキルに恵まれていようと、戦闘経験の浅さはごまかせなかった。完全に隙をなくすことは難しく、そして――中谷の《クイックバリア》もまた、吉野と同じく残り一枚となっていた。
そのすぐ背後では、大島と篠原がゾンビの波を正面から断ち切っていた。大島の日本刀が風を裂き、次々とゾンビの首を刎ねていく。篠原は冷静にハンドガンとコンバットナイフを使い分け、急所を撃ち抜き、突き刺し、寸分の狂いなく敵を排除していた。
二人の《クイックバリア》も、すでに残り二枚。動きにはわずかに疲労の色が見えはじめ、神経を張り詰めた戦場の空気が、着実に彼らの体力と集中力を削っていた。そんな中、大島が前線の様子を一瞥し、鋭い声を飛ばす。
「吉野、中谷! そろそろ下がれ! あとは俺たちが前に出る!」
呼びかけに応じるように、吉野が荒い息を吐きながら振り返る。
「……すみません、あと少し粘れると思ったんですが」
「無理すんな。盾が砕けたら、前線崩れるぞ」
中谷も剣を引きながら頷く。
「了解です……! 後方に退きます」
吉野と中谷が後方へと下がり始めると同時に、大島と篠原が一歩前に出る。日本刀とハンドガンが再び火を噴き、ゾンビの波を切り裂くように押し返す。
本来の作戦では、神谷によるバリアの再展開を途切れなく行うことで安全を確保する手筈だった。しかし地下に降りてしばらくしてから無線は途絶え、地上にいる神谷たちとの連携は断たれていた。
援護の手は届かない。バリアの再展開を依頼するには、一度地上まで戻らねばならない――それはつまり、戦場から一時的に撤退するだけでなく、この大穴の岸壁を登ることを意味する。
極限の状況が、彼らの体力と集中を蝕んでいく。
「駄目です。まだ無線が繋がりません。“ダンジョンの内部”は地上とは原理が異なるのかもしれません」
探知士・今泉玲が、焦りに満ちた声をあげた。見上げれば地上の空が見え、穴の深さも30メートルほどのこの場所で、無線が通じないのは想定外だった。地上の部隊が気が付き対応したとしても、まだ時間がかかる可能性がある。
現時点で、最も危険に晒されているのは、吉野と中谷。今泉は、打開の一手として、魔導操作を発動。
腰のポケットから小型の魔導ドローンを展開し、上空へと飛ばす準備を整える。ダンジョン由来の能力で動かすドローンであれば、ダンジョン内外関係なく動かせると判断したためだ。
「ドローンを連絡用に飛ばします! これなら先程も地上から内部を見れたので、おそらく問題……」
――しかし、その時だった。
「しまっ…今泉さん、左側ッ!」
平野航の叫びが、鋭く響く。
吉野と平野の間、左翼の隙間をすり抜けるように、一体のゾンビが後方へと飛び出した。その狙いは、味方の支援と魔導操作に意識が傾き、完全に隙を見せていた今泉だった。
吉野直哉が、身体を張って間に入った。
「今泉さんっ!」
吉野が即座に反応し、すぐ後方に控えていた今泉のもとへ盾と体を割り込ませるようにして飛び込んだ。その瞬間、ゾンビの爪が吉野に届いた。ついに最後の《クイックバリア》が消滅する。
一度崩れた戦線は一気に後手に回り始める。強まる波のように左右からゾンビが雪崩れ込み、彼らは吉野を乗り越え、なおも今泉や後衛部隊を狙う。今泉の《クイックバリア》も、一枚、二枚と次々に剥がれていく。
「くそっ、ここにきて数が多すぎる!」
南雲陽太が吠え、盾を構えて突撃する。続く二階堂瑞希は、両手に握ったトンファーで次々とゾンビの頭部を砕いていく。そのすぐ隣では、中谷海翔が影を纏いながら剣を振るい、迫りくるゾンビを影の渦に沈めていた。
だが――敵の数は尽きる気配を見せず、前線を押し上げることすらままならない。彼ら三人は右翼を死守していたが、波状攻撃にわずかな後退すら許されない状況が続いていた。
一方、後方では真壁と岸本が奮闘していた。自分たちに迫るゾンビの群れだけでなく、ダンジョンの影に隠れていた大型個体までが姿を現し始め、彼らはその対応に追われていた。援護に回る余裕は、もはやどこにもない。
「吉野! 今泉! くそっ!」
篠原が眼の前のゾンビを屠りながら叫ぶ。だがその声が届く頃には、吉野と今泉はすでに、群れに呑まれかけていた――。
――その時だった。空間が、凍りついたように静かになった。呻き声も、骨の砕ける音も、すべてが止まる。そして、次の瞬間。
ゾンビの肉体が、音もなく光の粒子となって崩れ落ちていく。数十、数百……否、百万体を超えるゾンビが、煙のように宙を舞い、一つの方向へ吸い寄せられていく。
「……え?」
吉野が呆然と呟いた。突入部隊の全員が、その異様な光景に言葉を失う。光の粒子は、一本の通路の奥へ――その中心に、何かが待っていることを誰もが悟っていた。
光がすべて吸い込まれたあと。死体の山で埋め尽くされていた通路は、まるで誰かが掃き清めたように道を開いていた。
そして全員の脳内に黄色いウィンドウが表示される。
《エリアTOKYO:緊急ミッション発生》
《対象:鬼》
《場所:15分後、渋谷駅前》
《参加資格:桐畑丈一郎およびパーティメンバー》
《クリア報酬:なし》
「……何が起きたかは後だ。まずは上のチームと合流する」
静かに、大島が言った。
* * *
代々木体育館上部では混乱が起きていた。本来桐畑丈一郎の挑発スキルによって大穴へと引き寄せられるはずのゾンビの一部が、その誘導の流れを外れ、代々木体育館の屋根へと這い上がってきていたためだ。そのため、本来は大穴に潜った部隊への支援と退路確保を行う予定の地上部隊は、四方から迫るゾンビたちの対処に追われ、満足な支援ができない状況に陥っていた。
その時、突如として変化がおきる。
大穴へと向かって蠢いていたゾンビも、体育館の屋根に到達しようとしていたゾンビたちも、一瞬、動きを止めたかと思うと、音もなく、弾けるように光の粒となり、渋谷方面へと導かれるように消え去った。
「……何が起こった?」
神谷の呟きが、乾いた空気の中に溶けていく。困惑が広がる部隊の隊員たち。その混乱の最中、神谷の脳内に、そしてその場にいる全ての“職業保持者”たちの視界に、突如として黄色いウィンドウが浮かび上がった。
神谷と杉谷は、互いの顔を見合わせた。言葉を交わさずとも、その瞳には同じ疑問と、そして危機感が宿っていた。緊急ミッション、鬼、15分後、何より桐畑丈一郎およびパーティメンバーという情報は、ただならぬ事態の発生を告げていた。
「渋谷駅前、ですか。ここからなら今すぐ動けば十分間に合いますが……」
神谷が呟く。
「潜入部隊との連絡が途絶えたままです。まずは彼らと合流し、情報共有と安全確保を最優先すべきでしょう。この事態が、彼らの安否に影響している可能性も十分にあります」
杉谷が冷静な声で言った。その声には、僅かながらも緊迫感が滲んでいる。
藤田もその言葉に頷き、即座に部隊へと指示を飛ばした。
「承知しました。直ちに大穴付近へ向かい、潜入部隊と合流する! 今一度装備を整えろ」
藤田の指示を耳にしながら、隣に立つ坂口と新海が小声で会話を交わす。彼らもまた、脳内に表示されたウィンドウに困惑していた。
「15分後、渋谷駅前、っすか。なんか、急なデートのお誘いみたいっすね、ハハッ」
新海が、緊張を誤魔化すようにからかう口調で言った。
「おいおい、相手は鬼だぞ。そんなデート、ごめんだね」
坂口が即座にツッコミを入れる。
「いやー、しかし丈ちゃん、ゾンビに鬼と、モテモテっすね。羨ましくないっすけど」
新海の口調は軽いながらも、その瞳には決意が宿っていた。
「まったく、お前は呑気なもんだ。だが、その方が気が楽でいいか」
坂口はそう言って、腰の武器を握り直す。二人は引き締まった表情で、大穴へと続く部隊の列に加わった。
代々木体育館上部に合流していた米軍からの参加者、マーティン・バウアーとエリック・リードも、同様にゾンビの消滅と《緊急ミッション》のウィンドウ表示に遭遇し、困惑の色を隠せないでいた。彼らは神谷たちの部隊が大穴へ向かうのを見て、その後に続いていた。
「おい、マジかよ……」
マーティン・バウアーは、顔をしかめながら天を仰いだ。筋骨隆々とした体躯に、見るからに頑丈そうなタクティカルギアを身につけているが、顔には汗がびっしりとこびりつき、疲労の色が濃い。彼は駐日アメリカ軍の代表であり、二階堂と同じ武術兵の職業を得ている。
「あっという間にレベルが100を超えたと思ったら、たった今、視界に見えるゾンビがすべて消え去った。かと思えば、今度は『鬼が渋谷駅前で15分後に湧くから戦え』だと? 地上戦なら経験値もないんだろう? しかも報酬なし? 何かのジョークか? 俺は大学の頃からレポートが嫌いなんだぞ、こんな展開、本国にどう説明しろってんだ!」
ハリウッド映画さながらの大仰なリアクションに、隣を歩くエリック・リードは静かに、しかし冷静な目で周囲を見回しながら応じる。
「マーティン。君のレポートはいつも通り難航するだろうが、少なくとも今回は具体的な『事象』があるだけマシだ。報酬がないというのは、ただの経験値稼ぎではない、なにか裏があると受け取るべきだろう」
エリックはアフリカ系アメリカ人とアメリカ先住民の血を受け継ぐ、精悍な顔つきの男だ。ダンジョンにて祈祷師という珍しい職業を得ており、腰には部族的な意匠の施された杖を携えている。木製のその杖は祖母から譲り受けたもので、日本に来る際もお守り代わりに持っていたものであった。
「はっ、シャーマン様のありがたいお言葉だな!」
マーティンはエリックの冷静さに苛立ち半分で言う。
「俺はケイコと愛娘がいるから日本に残ったんだ。本国の都合でクレイジーな任務に参加させられた上、これから未知のモンスターと戦えって言われてんだぞ! 冗談じゃねえ」
エリックは肩をすくめる。
「だが、これが現実だ。本国のことは関係なく、我々は既にゾンビとダンジョンが存在するという『新世界』のルールに組み込まれている。それにトモダチの困難だ。我々も積極的に前に出ることを申し出よう」
マーティンは不満げに頷き、周囲の日本人部隊に目をやった。
「……ったく。わかったよ。この異常事態に、日本人はやけに冷静に見えるのは気のせいか? 俺たちはもっとパニくるべきだろ、普通」
エリックは僅かに口元を緩める。
「彼らはこのシステムを、我々よりも早くから受け入れてきた。適応力、という点では学ぶべきことが多いのかもしれないな」
二人はそう会話しながら、大穴へと続く日本部隊の後を追った。




