第45話 東京レイド④
同日、ダンジョン第四層――その一角。杉谷と新海の仮拠点から少し離れた岩場で、2つの足音が響いていた。
「そこ、踏み込みが甘いっす。軸が浮いてると、腹狙われますよ」
新海の指摘が飛ぶ。丈一郎は軽く汗を拭うと、構えを取り直した。
ステータスはもう、とっくに常人の域を超えている。筋力も、反射も、人間離れした反応速度もある上に強力なスキルもある。けれど、それだけでは“戦い”は成り立たない。
「悪い、もう一回頼む」
そう言って踏み込んだ一歩。今度は意識的に低く、腰を落とした状態での拳突き――
バンッ!
新海の手のひらが、パッドごと丈一郎の拳を受け止めた。
「お?今のは良かったっすよ。重心移動もスムーズで前に出すぎず、ちゃんと腰の回転で打ててたっす」
「お前、マジで教えるのうまいな」
「元々格闘教官だった人に散々いじめられたんで、自然と“人に伝えるコツ”だけは覚えたんすよ」
「そんなもんなのか?」
「攻撃は、スキルやステータス頼みで“振る”だけじゃダメっす。ちゃんと“打つ”感覚を掴まないと、重みが死ぬっす。剣戟も同じっすよ」
「なんで剣戟もわかんだよ、お前本当にただの元警察官か?」
「杉谷さんの横に立つために、警察に入る前からいろいろ頑張ったっすからね〜。ありとあらゆる状況を想定してこその警察官っす」
冗談めかした口ぶりに苦笑しながらも、丈一郎は拳を見つめて深く息を吐いた。
確かに、レベルアップで強くなっている実感はある。だが、もし同等のステータスを持つ敵とぶつかれば、勝敗を分けるのは“技術”の差だ。
そして何より――鍛錬を積み、自分の中に“戦える”という実感を積み重ねること。それは、揺るがぬ自信へとつながっていく。
元々格闘とは無縁だった丈一郎にとって、この訓練は新鮮な学びばかりだった。とはいえ、基礎体力はすでにステータスで賄われており、スキルによる最適化もあるため、技術を載せる土台は整っている。だからこそ、吸収が早かった。
「……明日か」
ふと呟いた声に、新海も空を見上げるような仕草をして応じた。
「ええ。いよいよ、“東京レイド”っすね。最初聞いた時は、いくら杉谷さんでも正気じゃないだろって思ったっすけど」
「普通ならな。でも、まぁなんとかなるだろ」
「たしかに。丈ちゃんの背中についていけば、なんでもいけそうな気がするっす。そこがズルいところっすよね〜」
軽口を叩く新海に、丈一郎もわずかに笑った。
そうして二人が休んでいると、岩場の向こうから足音が近づいてきた。
「おつかれ。はい、水と……タオル」
恵理だった。手に現れたのは携帯用の水筒と、丈一郎用の大判タオル。
「ありがと。……杉谷さんについて行かなくてよかったのか?」
「そりゃそうでしょ。私だけ地上でのんびりしてられるわけないじゃない」
言いながら、自然な手つきで汗を拭ってやろうとする恵理に、丈一郎は苦笑しながらタオルを受け取る。
そのやりとりを見た新海が、口を挟んできた。
「いや〜……マジでうらやましいっすね、そのスキル。荷物持たなくていいなんて、チート級じゃないっすか、ほんと」
「そういや、杉谷さんも持ってたんだよな」
丈一郎が思い出したように言うと、新海が「そうっすよ〜」と頷いた。
杉谷は、丈一郎たちと同様に自身のステータスの一部を《隠蔽》スキルで伏せていた。
杉谷の職業は――探偵。
隠蔽していなかった気配遮断、気配感知、追跡術に加えて、タイタン戦で見せた唯一の攻撃スキル解析弾丸。
さらに、観察眼、隠蔽、収納Lv.5も保持していることが、タイタン戦後に明かされていた。
中でも観察眼は、ダンジョン内の物を鑑定することや、人のステータスを看破することができる強力なスキルで、それにより当初から丈一郎たちの《隠蔽》も見破られていたということがわかった。
(戦闘特化ではない分、情報と追跡、そして調査と支援に秀でた職業ってことだよな。それであの戦闘能力なんだから、杉谷さんも大概バケモンだな)
丈一郎がそう思い返していると、新海が話を続ける。
「ほんとそうっすよ、俺だけ持ってないとか仲間はずれみたいで……。俺も眷属にしてもらえば、収納スキル分けてもらえたりとか……いや、冗談っすよ!」
「目が本気に見えるんだが」
丈一郎が半ば呆れたように返すと、新海は両手を挙げて笑った。
「いやいや、ちょ〜っとだけっすよ!?杉谷さんからも聞いて理解してるっすよ。貴重な枠を潰すわけには行かないっす。あと、丈ちゃんにエッチな命令とかされそうだし…」
「誰がするか!」
そんなやりとりに、恵理も肩を揺らして笑う。――気づけば三人とも、声を上げて笑っていた。静かなダンジョンの奥深く、笑い声だけが一時の安らぎのように響いた。そして、明日に向けて、いつもよりも早めに鍛錬は切り上げられた。
* * *
丈一郎たち三人がダンジョンから地上へと戻ったのは、日が落ちる少し前だった。ダンジョンから出て新海は杉谷に合流すると別れ、丈一郎と恵理は拠点である新宿の高級ホテルへ向かうため、新宿駅を出ようとしていた。
駅出口では、《《偶然》》探索から戻ったところなのか、政府関係者や自衛隊をはじめとした探索者たちが並んで控えていた。
丈一郎たちの姿を見ると、軽く会釈を交わす者もいる。しかし、彼らも必要以上の接触はしてこないようだった。事前に接触していた杉谷がうまくやってくれたのだろう。
そう思いかけたその時――
「……恵理さん?丈一郎くん?」
聞き覚えのある、しかし想像もしていなかった声が響いた。驚いて顔を向けた先、そこに立っていたのは、七瀬 舞だった。
「……舞?」
数秒遅れて、恵理も声を漏らす。舞は一歩、二歩と近づき、目を潤ませながら笑った。そのまま恵理に駆け寄ると、躊躇なく抱きしめた。
「……飛び降りるなんて……無茶しすぎ。聞きたいことはいっぱいあるけど……恵理さんが無事でよかった……!」
「うん、いつも勝手で、ごめんね…。でも……会えてよかった」
ふたりが涙を浮かべて言葉を交わすその横で、丈一郎はまだ“なぜ舞がここにいるのか”を咀嚼しきれずにいた。
「……どうして、ここに?」
彼の問いに、舞は少し照れたように微笑んだ。
「神谷さんや政府の方から色々聞いて、私も探索者になることにしたの。職業は光導巫女。簡単な回復と、光魔法が使えるんだけど……この職業、他に例がなくて、まだよくわからないみたい」
「……マジかよ……」
丈一郎の反応は、素直に驚きだった。
恵理も目を見開き、戸惑ったように舞を見つめていた。
「……ごめん、舞。探索者になったのって、私のせいじゃない……?」
その声に、舞はきっぱりと首を振った。
「ちがうよ! ……むしろ、あの時のことがあったから決心できたの。私ね――守られるだけとか、逃げるだけとか、もう嫌だったの。恵理にも、わかるでしょ?」
恵理は何も言えずに、ただ舞の顔を見つめ返していた。その瞳の奥にある光が、優しさと同時に、確かな“意志”を湛えていることに気づいたからだ。丈一郎は静かに頷く。
「……思ったより、強かったんだな」
「まだまだだよ。でも、私なりに歩き始めてる。――それだけは、言えるかな」
やわらかく笑う舞の横顔を、丈一郎は見つめた。その背後。駅ビルの入口で、スーツ姿の男が小さく手を振っていた。
(……やっぱり、この状況は“用意されてた”か)
丈一郎は目を細めたが、特に怒ってはいなかった。舞が使われることも、ある程度は想定していた。それに――再会した二人の表情を見ていれば、文句を言う気にもならなかった。
その後、手を振っていた男、神谷という政府関係者の計らいで、明日の朝の決行まで一晩、政府の拠点の駅ビルに泊まることになった。
丈一郎は最初は警戒していたものの、「募る話もあるでしょうから」とだけ言って部屋に案内され、ステータスや職業について問われることもなく、なにより“なぜ感染したはずの恵理が助かったのか”という最大の疑問について触れる気配すらなさそうだった。
(……たぶん、その辺も杉谷さんがうまく握ってくれてるんだろうな)
丈一郎は、杉谷への静かな感謝を胸に抱きながら――久しぶりのベッドの感触に、ゆっくりと身を委ねた。
* * *
4月11日、午前4時前。新宿駅ビルの屋上。空はまだ暗く、都市の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。この街に、かつて暮らしていた人間は1000万人以上。そのほとんどが今やゾンビと化し、点ではなく“面”として、都市全体に広がっている。
(……改めて見ると、すげぇな。これを今日、全部狩るってわけか)
丈一郎は、不安を押し流すように静かに息を吐いた。そして、心の奥で、もう一度、固く決意する。
――やり遂げてやる、と。
そのとき、背後から足音がした。
「朝、早いね」
振り返れば、七瀬 舞がいた。ラフな上着に身を包み、寒さに肩をすくめながらも、笑顔を浮かべている。
「……そっちこそな」
思わずそう返しながら、丈一郎は少しばかりぎこちなくなる。思えば、こうしてちゃんと話すのは、ずいぶん久しぶりだった。
「ちゃんと話すの、高校ぶりかな? なんだか、久しぶりだね」
「そうだっけな」
そう言いながらも、丈一郎の表情が少し和らぐ。
「……まだ、ちゃんと言えてなかったよね。――助けてくれてありがとう」
「……おう」
「ふふ。丈一郎くんは、昔から変わらないね」
その言葉に、丈一郎は眉をひそめる。
(変わらない……か。そうなのかな)
社畜のような生活に心を削られ、パンデミックでゾンビに噛まれて職業を経て、何もかもが変わったと思っていた。
「いや、俺……けっこう変わったと思うぞ? 社会に出て、こってりすり減らされたし。極め付けはゾンビハンター。何回死にかけたかわからん」
舞は「ううん」と言い、ゆっくりと首を横に振った。
「変わらないよ。丈一郎くんは、いつだってまっすぐ前を見てる。それに、いつも誰かのために動いてる」
その言葉と微笑みに、丈一郎は思わず視線を逸らした。照れくさくて、顔を見られたくなかった。
「……お前のそういうところも、昔から変わんねぇな」
舞は、ふわりと笑って続けた。
「私、頑張るから。私にしかできないことがあるって、信じてる」
「……あぁ」
丈一郎は小さく言って、笑った。そして――次の一言が、完全に不意を突いてきた。
「そういえば……恵理さんから聞いちゃった。“丈”って呼ばれてるんだって?」
「っ……」
一瞬で固まる丈一郎。その様子を見て、舞は吹き出すように笑った。
「ふふっ、やっぱり動揺した。……あー、なんか、安心した」
「……お前なぁ……」
呆れたように言いながらも、どこか懐かしさを覚える感情が胸に灯る。舞は最後に、真っ直ぐに丈一郎を見つめて言った。
「……帰ってきたら、ちゃんと聞かせてもらうからね。……だから、必ず帰ってきて」
そして、そっと付け加えるように、舞は優しい声で言った。
「いってらっしゃい」
舞の微笑みを背に受けながら、丈一郎は駅ビルの縁に立つ。ほんの一瞬だけ振り返り、視線を交わす。
「……約束するよ。いってきます」
そう言って――そのまま、地上へ向かって飛び降りた。
風を切り裂く感覚が全身を駆け抜ける。ビルの壁面を蹴り、跳躍。ビルの屋上から屋上へ、闇を滑るように駆け抜けていく。視界に映る東京の街は、まだ夜明け前の暗さを残しながら、かすかに霧が立ち込めていた。しかし、丈一郎の足取りはぶれることなく――まっすぐに、東へ。
“決戦のスタートライン”――東京駅を目指して。もう、不安はなかった。あるのはただ一つ、狩り尽くすという決意だけ。
こうして、作戦の幕が上がった。




