第44話 東京レイド③
作戦決行前日、午前五時。
まだ陽の差し込まない新宿駅ビルの仮設訓練区画に、乾いた音が響く。
「……左の間合いの詰め方が甘い。二拍で捌いて懐に入れ。中谷、もう一度だ」
真壁翔一は、汗を拭ったタオルを肩にかけ、先日から臨時補助隊員として加わったメンバーの指導を行っていた。訓練に使っているのは、もともとホテルの宴会場だった場所。いまは仮設の防音マットと木製の素振り武器が並ぶ、即席の訓練場だ。
その中央で、中谷 海翔が無言で構えを取っていた。型にはまらない動き。だが、初日に比べれば格段に動きに無駄がない。レベルアップにより、力も速度もついてきている。
何よりも――“迷い”がなくなってきている。
(……誰よりも成長に対して貪欲だな)
心の中でそう呟きながらも、真壁の表情に変化はなかった。
「終了。水分とれ」
「はい」
中谷は一礼すると、口元だけで短く答え、訓練室の端に向かう。汗に濡れた前髪をかきあげ、ペットボトルの水を飲む。その背中は、無口で、まだ幼さが残る。それでも、今では“後ろ姿”が少しだけ大きくなって見える。
(戦わせたくて育てたわけじゃないが、この姿を見るとな)
それが、真壁の本音だった。
「中谷」
呼び止めると、少年は振り返る。
「レイドの件は聞いているな。昨晩、我々も参加することが通達された。……何か、確認しておくことは?」
少しの沈黙ののち、中谷は静かに言った。
「チャンスがいただけるならば、やるべきことをやるだけです」
真壁はその言葉に、短く息を吐く。
「……ああ。わかってるなら、それで十分だ」
少年の背は、もう振り返らなかった。ただまっすぐに、水を手に取り、再び構えの位置へと戻っていった。
(……こいつはまだまだ伸びるだろうな。力を間違った方に使わなければいいが)
真壁は、訓練再開のタイマーを見つめながら、淡々と声を張った。
「再開。間合いの確認の続きから」
その声に、中谷の足が微かに前に出た。仮設訓練場の空気が、静かに張り詰めていく。
* * *
午前六時過ぎ、新宿駅ビル五階のカフェ跡を利用した休憩スペース。簡易なテーブルとスチール椅子を囲んで、警視庁の東京ダンジョン生き残り組である六人が集まっていた。
レイド作戦の正式通知が、つい先ほど届いた。
「やっぱ全員か」
機動捜査隊上がりで、若手からの信頼も厚い兄貴肌の藤田 宏がタブレットをひと目見て呟いた。
「レイドの話を聞いた時に思いましたが、やはりレベルと経験を考慮すれば、我々に声がかかるのは必然でしょう」
鑑識課でデジタル鑑識班に所属する今泉 玲が、常に冷静な彼女らしく涼しい顔でこたえる。
「この作戦、決行が明日というのが随分と唐突です。裏がないと考える方が不自然かと」
薬学部出身で、第四課として裏社会の事情にも詳しい平野 航が、皮肉を込めてコーヒーを啜る。
「僕たちが選ばれるのは光栄ですけど…。平野くんの言ってることもわかるよ」
少し猫背気味に座っていた吉野 直哉が、ぽっちゃりとした指で自分の顎をさすりながら、不安げに天井を見上げた 。
学生時代には柔道でオリンピック候補にまでなった彼だが、その温厚な表情の裏には、ダンジョンに巻き込まれた事件以降、影を落とすようになった苦悩が滲む 。
「何が引っ掛かるんですか?」
顰めっ面でその問いを発したのは二階堂 瑞希だった。
すらりとした長身に整った顔立ちではあるが、その鋭い眼光は常に強い意志を宿し、負けん気の強さと根っからの正義感からか眉間に力が入って険しい表情になりがちだ。
吉野が、天井から視線を戻し、指でこめかみを掻きながら困ったように眉を寄せた。
「いやね、この作戦、一見するとかなり無茶に見えるじゃないか。なのに、どうも政府側には妙な自信が感じられるんだ。そういう時って、昔から決まって……」
そこまで言って、吉野はちらりと隣の藤田に同意を求めるように目をやった。
その視線を受け、藤田 宏が腕を組み、ニヤリと口角を上げる。
「ああ、ああいう“不可能を可能にする”みたいな大掛かりな作戦の裏には、大抵“あの人”の得意なやり口が見え隠れするんだ。おまけに、今日のリーダーのあの押し黙った雰囲気だ。篠原さんとは長い付き合いの俺たちにはそれだけで分かるさ」
藤田はそう言うと、意味ありげに篠原の方へ顎をしゃくった。
全員の視線が、自然とテーブルの端――黙って缶コーヒーを啜り、窓の外の朝焼けに目を向けていた篠原 拓馬へと向かう。
元SATで、幾多の修羅場を潜り抜けてきた現場叩き上げのリーダー。その背中からは、仲間を想い、何よりも命を優先する彼の信念が静かに伝わってくるようだった。
今泉が、小さくため息をついた。篠原に聞こえないように声を顰める。
「……あの二人、いろいろあるように見えて。結局、似てるんですよ」
察した二階堂は、むっとしたように眉を寄せた。
「ていうか、あの人が関わってるってことは、十中八九、勝手に出て行ったアイツもいるってことじゃないですか!」
言葉とは裏腹に、同期である新海への複雑な感情が声に宿る。吉野が苦笑しながら返す。
「瑞希ちゃんは、相変わらず新海くんにだけは手厳しいねぇ。同期なんだから、もっと素直になればいいのに」
「私を差し置いてSATに選抜されたかと思えば、あっさり刑事部に戻ってくるような奴ですよ、アイツは! 今回だって、一言もなしにいなくなって……!」
悔しそうに唇を噛む二階堂の肩を、藤田が軽く叩いた。
「まぁまぁ。なんだかんだお前らも、いざとなれば息ぴったりじゃねぇか。とにかくだ。今は与えられた作戦をきっちりこなす。それしかねぇだろ、リーダー?」
それまで微動だにしなかった篠原が、ゆっくりと顔をこちらに向けた。彼の目は、ただ一点、作戦の成功とその先にある仲間たちの無事だけを見据えているようだった。
「……ああ。全員で生きて帰る。それだけだ」
その声には、気負いも飾りもない。だが、そこには仲間たちの命を背負う覚悟と、揺るぎない意志が込められていた。
* * *
仮設の宿舎の一室。
六畳ほどのスペースに、簡易ベッドとコンテナが並ぶだけの簡素な部屋。
七瀬舞は、まだ薄暗い天井をぼんやりと見つめていた。
――昨日、夏芽から聞かされたLaLaモールでの出来事。
それは想像を絶する地獄だった。それでも現在の彼女は、あえて明るく振る舞っていた。けれど――感じてしまった。あの笑顔の奥に、どれほど深い傷があるかを。
どんな言葉も、彼女の痛みに対してあまりに軽く、無責任に思えて――結局、舞にできたのは、そっと隣に座り、黙って一緒にいることだけだった。
それが正しかったのかは、わからない。でも、たったひとつだけ確かなのは、彼女はまだ、前を向こうとしているということ。舞は、ゆっくりと目を閉じた。
今、自分にできるのは――その背中を、静かに支えることだけかもしれない。そう考えていると、ベッド脇の支給端末の通知音が聞こえた。
『探索者制度管理局/大規模作戦について重要なお知らせ』
支給端末に表示されたメッセージは、そんな一文から始まっていた。開いた通知は、思いがけず自分の名前を含んでいた。
(……私?)
自分の力が、人を助けるほどのものだと、今でも信じきれてはいない。たしかにスキルはある。《ヒール》と《ライト》という、シンプルな回復と光の魔法。でも、それだけだ。
(本当に、役に立てるの?)
手のひらを見つめたとき――コンコン、と控えめなノックがあった。
「失礼します。探索者制度管理局の連絡官です。数分、お時間よろしいでしょうか?」
スーツ姿の若い男性が、一枚の紙を手にして立っていた。書類の形式は通知と同じ。だが、そこに挟まれていたのは――一枚の、手書きのメモ。
《桐畑 丈一郎/有村 恵理――双方共に生存確認済》
舞は言葉を失った。
「神谷さんから“心配してるだろうから伝えてあげといて”とだけ言われまして」
声も、涙も、何も出なかった。ただ、胸の奥に温かいものが灯るような――そんな感覚だけが残った。
(……生きてる)
その事実が、通知のどんな文言よりも、舞の心に力をくれた。
「……わかりました。参加させてください」
静かに返す声は、迷いのない音だった。
* * *
夏芽は、机に置かれた端末の通知を見た瞬間、思わず「よしっ」と、かすかに震える声を絞り出した。それは単なる喜びではない。奥歯を噛みしめるような、悲痛なまでの覚悟に近い感情だった。
部屋の隅、工具と古びた裁縫道具、解体された装備の残骸で埋もれた作業机。その中央に置かれた端末の画面には、無機質な文字が並んでいた。
《東京レイド作戦 参加通知:廣瀬 夏芽 服飾士〈テーラー〉》
ダンジョンに巻き込まれてから今日まで、夏芽はずっと過去から逃げるように走り続けてきた。あのLaLaモールでの地獄の日々―――閉鎖された空間でゾンビの脅威に怯え、数少ない生存者たちが疑心暗鬼に陥り、ついには人が人を殺す惨劇。目の前で親友が命を奪われたあの瞬間から。
『……私の分も……どうか…生きて……』
耳の奥にこびりついて離れない親友の最後の言葉。それだけを頼りに、ただ必死に前だけを見てきた。人を守るために力をつけること、それすらも、親友の言葉に応えるための言い訳だったのかもしれない。
夜ごと悪夢にうなされ、浅い眠りで目覚めては目の下に刻まれたクマを必死に化粧で誤魔化す日々。まだ17歳の彼女には、抱えきれないほどの重荷だった。それでも、明るく振る舞い続けることで、かろうじて自分を保ってきた。
(私にしかできないこと。私が“生きる”意味。“人を守る装備”を作れる。仲間を守る道具を仕立てられる)
そう信じて、この数日、寝る間も惜しんで手を動かし続けた。指先は擦り切れ、思考は朦朧とすることもあったが、それでも止めることはなかった。
魔縫針。
ダンジョン産の素材であれば、どんなものであれ糸にすることができ、どんな素材にも糸を通すことができる服飾士専用スキル。自身の魔力を込めた糸は、時に武器よりも強靭な盾となり、あるいは鋭い刃ともなる。
政府によって他にない特異職と判断され、装備生産の依頼が舞い込んだ。昼夜を問わず依頼をこなしながら、その合間に余った素材を文字通り“コツコツ”と貯め込み、自分のための戦闘服を一針、また一針と魂を込めて縫い上げてきた。
(前線で戦うような高いレベルも、特別な戦闘スキルもない私にできるのはこれしかない)
この一着が、今の私の実力であり、自信そのものになるようにと願いながら。
レイドが始まれば、もうスライムのような弱い魔物では済まない。トラウマの元凶であるゾンビ、そのおびただしい群れと、今度こそ対峙しなければならない。
ふと、机の脇に立てかけてあった姿見に、自分の顔が映った。
ひどい顔だった。目の下のクマは隠しきれていないし、頬もこけている。けれど、その瞳の奥には、以前のような怯えだけではない、確かな光が灯っていた。
「やっと……ちゃんと、向き合える……」
親友の無念にも。自分の弱さにも。そして、未来にも。
誰に向けるでもなく、夏芽はそう呟いた。
もう逃げない。誰かを守るために。そして、親友との約束を果たす、自分のために。
針を持つ手に、もう一切の迷いはなかった。
* * *
午前九時。
新宿駅ビル地下の仮設ブリーフィングルームには、まだ誰もいなかった。
杉谷悟は、静まり返った室内の中央に立ち、壁面のホワイトボードに視線を向けていた。
そこにはすでに、東京レイド作戦に参加する5つのパーティ構成と、役割分担が書き込まれている。
メインパーティ――桐畑丈一郎を中心とした四名。
サブパーティ四組――自衛隊や警察メインの戦闘職パーティ三組と、護衛とレベリングを兼ねた警察と支援職を組み合わせたパーティ一組。
■レイドのパーティ構成
メインパーティ
桐畑丈一郎★リーダー
有村 恵理
杉谷 悟
新海 練
サブパーティ1(自衛隊・特戦群)
大島 諒/自衛隊・特戦群隊長・特異職★
南雲 陽太/自衛隊・特戦群
岸本 優/自衛隊・特戦群
坂口 修平/自衛隊・特戦群
中谷 海翔/民間・臨時補助隊員・特異職
サブパーティ2(自衛隊・特戦群)
真壁 翔一/自衛隊・特戦群副官★
山田 隆次/自衛隊
村上 哲/自衛隊
マーティン・バウアー/米軍選抜
エリック・リード/米軍選抜・特異職
サブパーティ3(警視庁)
篠原 拓馬/警視庁・刑事部捜査第一課(元SAT)★
二階堂 瑞希/警視庁・刑事部捜査第一課
吉野 直哉/警視庁・刑事部捜査第一課
平野 航/警視庁・刑事部捜査第四課
今泉 玲/警視庁・刑事部鑑識課・デジタル鑑識班
サブパーティ4(警視庁・民間)
藤田 宏/警視庁・刑事部機動捜査隊★
村上 晋/警視庁・警視庁第四機動隊
田辺 裕之/警視庁・警視庁第四機動隊
七瀬 舞/民間・特異職
広瀬 夏芽/民間・特異職
一歩、ホワイトボードの前から下がる。
全体の配置に無駄はない。
経験者と若手、火力と支援――全てを“綻ばせずに編む”ための構成だ。
「……あとは、並べるだけですね」
目標となる最終地点、代々木駅を中心に地図を見つめる。
安全を考慮し、高層ビルの屋上を中心に、駅を囲うように各隊を配置していく。
合わせて、人数分の資料を重ねて各席へと並べる。
作戦の目的、動線、予備案、想定されるゾンビの行動パターン。
誰よりも前に動き出す者たちが、ここで全体を把握するために。
気配を感じ、扉の方へ目をやる。
予定より少し早く、スタッフが顔をのぞかせた。
「杉谷さん、準備完了とのことで報告が入っています。全員、まもなく集合開始です」
「……そうですか」
ゆっくりと頷き、杉谷は背筋を伸ばす。
ホワイトボードに目を戻し、静かに言葉を落とした。
「――みなさん、揃いましたね。それでは早速作戦の共有をいたしましょう」
誰に向けたでもないその声が、空間を静かに締めた。
* * *
会議を終えた後、仮設のブリーフィングルームには、神谷と杉谷の二人だけが残っていた。
資料を片付ける杉谷の前で、神谷は黙って一枚の書類を差し出す。
「――あなたたちのパーティーの空き枠について、ご提案があります」
杉谷が手を止め、その紙面に視線を落とす。
記載されていたのは、探索者ステータス証明の写し。
氏名:神谷 智久
職業:賢者
レベル:1
そして――下部には、自筆の署名と、公的な印鑑が捺されている。
杉谷は手を止めると、わずかに目を細めた。
「……あなたが、その枠に入ると?」
「はい。私は現在の政府トップの秘書官という立場です。
しかし、私には個人的に成し遂げたい夢があります。そのためにも、彼――桐畑丈一郎に“同行する資格”を、自ら得たい」
一瞬だけ、杉谷の表情に影が差す。
それは戸惑いか、あるいは、深い理解からくるためらいだった。
だがすぐに、彼の眼差しは研ぎ澄まされた。
「……その覚悟が、どこまでのものかは伺っても?」
神谷は頷き、鞄から一枚の封筒を取り出して机の上に置いた。
「こちらは、《死に至る契約》の誓約書です。
内容は、“桐畑丈一郎の能力や本質に関わる情報を、本人の許可なく口外した場合”――私の心臓が、契約によって停止する仕組みです」
その言葉は、まるでゲームの規約を読み上げるかのように淡々としていた。
杉谷は息を吸うと一歩近づき、封筒の上に視線を落とした。
無造作な見た目の紙には、神谷の読み上げた誓約文を囲うように、難解な記号の羅列がびっしりと記されていた。
「……自衛隊所属の特異職、契約士に秘密裏に依頼したものです。契約は明日、正式に発動されます」
神谷の声に揺らぎはなかった。
むしろ、その完璧なまでに抑制された静けさこそが、狂気に近かった。彼の目は、自らの命すら「システムの一部」として組み込む覚悟を宿していた。
杉谷は数秒間、何も言わなかった。
(……実現したい夢のため、自らに首輪を課した男――)
感情を抑えたその表情の下にあるのは、冷徹な政治判断でも、単なる秘書官の役割でもない。
それは、何かを“信じて狂気へと踏み込む者”の目だった。
「……承知しました。桐畑さんには、私から伝えておきます」
神谷はゆっくりと一礼した。
「ありがとうございます。……レベルは全く上げられていませんので、無茶はしないよう努力しますね。もっとも、“無茶に踏み込まないと動かない現実”も、誰より知っているつもりですので、その際はご期待に添えるよう頑張ります」
その言葉に、杉谷はふっと息を吐いた。
「……お互い、変な宿命を背負ったもんですね」
それは、エリート官僚と元警察官という立場を超え、この異常な世界で“システム”と“現実”の狭間を行き来する二人にしか理解できない、ある種の連帯感を示すものだった。
小さな、しかし確かな苦笑いが、二人の間に落ちた。
そして、それ以上は何も言わず――杉谷は部屋を後にした。
残された神谷は、再び封筒を手に取り、タブレットのロックを解除する。
その目は、冷静で、そして確かに熱を帯びていた。彼の夢――この現実を、彼が望む「最高の舞台」へと変革させるため、神谷智久は自らも「プレイヤー」として、その最前線へと身を投じたのだ。




