第42話 東京レイド①
パンデミック発生から18日目。
かつてオフィスとホテルが入っていた新宿駅ビルの高層階では、現在、仮設の探索者拠点が運用されている。
この場所が前線拠点として選ばれた理由は、いくつかある。
まず、最新型ビルであるため屋上や窓面に設置された太陽光発電が機能しており、一定の電力供給が確保できること。
また、高層階構造によってゾンビの侵入リスクが極めて低いこと。
なにより、先日起きた何者かによる掃討事件により、新宿駅周辺からゾンビの姿が消えたことで、拠点の確保だけでなく、ダンジョンまでの出入の安全性も担保されていた。
政府の本部機能はいまだ立川に置かれているが、ダンジョン出入口に最も近い新宿駅には、探索者たちの前線活動拠点として最低限の滞在設備が整えられ、一部の政府関係者も常駐して探索者の支援にあたっていた。
ビルの拠点化と並行して、中央線沿線での掃討作戦も進行中であり、最近では立川との連絡経路として、最新型のディーゼル車両を使った中央線の限定的な運用計画も進んでいる。
その新宿駅ビルの上層――探索者に割り当てられたホテルの一室で、篠原 拓馬は、無言のまま黒いコンバットシャツを頭からかぶった。手早く袖を通し、重みのあるベストを胸元で締める。
警視庁本部で拝借してきたSATの標準戦闘装備――
17年前まで愛用していた装備を、こうして再び身にまとう日が来るとは思わなかった。
カチャリ。
ホルスターのベルトを締め、膝のニーパッドを調整する。
小型マグライト、パッチキット、携行用の止血パック――
片っ端からポーチに詰め、最後に拳銃とナイフの位置を確認する。
「……やっぱり、これが一番しっくりくるな」
呟きながら、タブレットを操作して今日の任務を表示する。
内容は、ダンジョン第一層。昨晩から再び始まったとされる「ダンジョン拡大現象」の調査だ。
立川からの報告によれば――
かつて新宿大学病院で発生した防衛ミッションの“報酬”として一時停止していた拡大が、停止期限の昨夜0時を過ぎた後、再開したらしい。
今朝一番で飛び立った航空自衛隊機が、上空からレーザー測量を実施。
その結果、地上には目立った変化は見られないものの、地下の空洞は山手線の外縁から1〜3キロ圏にかけて広がり始めているという。
これを受けて、探索者として登録されている自衛隊および警察チームによる実地調査が本日行われることとなっていた。
画面を指で弾きながら、ふと短い吐息が漏れる。
篠原は思い返していた。
あの日、パンデミックが始まったまさにその時――東京駅で捜査中に、“異常”、ダンジョンの発生に巻き込まれた。
地割れ、うめき声、現実とは思えない光景。
現場にいた仲間とともに、力を蓄えてどうにか地上へ逃れ、警視庁本部――桜田門に滑り込む。
だが、その時点で警視庁はおろかこの国まで壊滅しかけていた。
かろうじて立川の防災拠点と連絡を取り、ダンジョンから脱出した仲間と共に、政府と合流することとなる。
高架上や地下鉄など、比較的ゾンビの少ないルートを選び、交戦と回避を繰り返しながら、ようやくこの新宿駅の探索拠点にたどり着いた。
SATの現場指揮官として、そして捜査一課の一員として、幾度となく死線を越えてきた。パンデミックが襲来するまでは、これまでの経験と知識がすべて通用すると信じていた。
しかし、「この世界」では何もかもが違った。
一度でも噛まれれば、その瞬間が終わりを意味する。そして、少しでも躊躇すれば、容赦なく仲間を失う。
それが、この新しい世界の絶対的なルールだった。
――“おやっさん”が、ダンジョン内で命を落としたのも、まだ俺たちがこの異常な構造を理解していなかった頃だった。
不器用で、まっすぐで、いつも市民を優先していた背中。
今でも、夢に出る。
「……生きれる命を優先する。それしかねぇだろうよ」
静かに呟きながら、ベルトとともに気を引き締める。
部屋の外では、今日の任務に向けて装備を整える自衛官たちの声が響いている。
民間の探索者も加わり始めたこの拠点は、いまや政府の“心臓部”と呼ぶにふさわしい場所となっていた。
――そんな時だった。
「篠原さん、いますか?」
ドアがノックされ、警視庁組の一人、今泉の声が聞こえた。
「ああ、いるぞ。なんだ?」
「神谷さん――内閣副長官の秘書から、お呼びです。“あなたの知人が来ているので、話を聞いてほしい”とのことです」
「……知人?」
篠原は思わず眉をひそめた。
誰だ? こんな時に呼び出す奴なんて、ろくなもんじゃねぇ。
だが――直感がざわついていた。
ドアの向こうの空気が、少しだけ、緊張していたのだ。
「了解した。……今行く」
そう言って立ち上がると、篠原は腰のホルスターを確かめてから、ドアを開けた。
廊下の向こうには、副官と、淡々とした表情の神谷が立っていた。
「ご足労いただき恐縮です。会議室でお待ちしております。あなたのお仲間……杉谷さんが来ています」
その名を聞いた瞬間、篠原の顔がわずかに歪む。
かつての相棒。数々の伝説を残す刑事――杉谷 悟。
「……あの、頑固野郎か」
「仲が悪いと聞いておりますが」
「悪くねぇよ。犬猿の仲ってのは、言葉通りじゃなく、噛み合ってる証拠だ」
肩をすくめながら歩き出す。
会議室のドアを開けた瞬間、空気が一変した。
篠原は無言のまま室内を見回す。
窓もない、仮設の応接スペース。
会議用のテーブルに椅子が四脚。
正面の椅子に腰かけたのは、内閣官房副長官の秘書――神谷。
トップという立場上、立川を動けない早乙女に変わり、新宿拠点での陣頭指揮をとっている。
その隣、制服のまま腕を組んでいるのは、陸自・特戦群の現場責任者、大島。
そして最後に、テーブルの端に、背筋を伸ばして立つ男がいた。
黒いジャケット。乱れのない姿勢。
その佇まいを見た瞬間、篠原の目が細くなる。
「……辞表残して消えたと思ったら10日も経たずにまた現れるとか、変わらねぇな。杉谷」
「その節はどうも。お久しぶりです、篠原さん」
まるで大したことでもないかのように微笑を浮かべて、杉谷が一礼した。
(……異様に少ねぇな)
篠原は、無言で室内を一巡する。
このメンツだけで話される内容が「ただの再会」なわけがない。
政府高官クラスが複数いるこの施設で、傍聴どころか記録係すらいない。
情報を絞っている。何か――極端に機密度の高い話が来る。
篠原は知っている。
この男が、ふらりと顔を出すときは、決まってろくでもない話を持ってくる時だ。
神谷が頷き、扉の閉まる音が響く。
杉谷が一歩進み、会議室の中心に立つ。
姿勢は端正なままだが、声には微かな熱があった。
「皆さま、お揃いのようですので――始めさせていただきます」
低く、だがよく通る声だった。
「本日は、《レイド》――いわゆる複数パーティによる大規模作戦計画について、ご提案にまいりました」
その一言に、空気が変わる。
篠原が眉をわずかに動かす。
大島が目を細め、神谷は表情を崩さないまま手元のタブレットを操作した。
「具体的には、“パーティによる経験値切り上げ処理”と“ダンジョンの仕組み”を利用した、《広域掃討レイド》の実行を提案いたします」
その場にいた全員が、即座に反応できなかった。
沈黙を切り裂くように、杉谷は淡々と話を続ける。
「作戦の骨子は明快です。対象は山手線エリア全域。桐畑丈一郎――彼が単独でゾンビを誘導しつつ、目標地点でまとめて討伐。我々がその恩恵に預かります」
その名が発せられた瞬間、会議室の空気が微かに揺れた。
ぴくり、と大島の眉が動く。
無表情だったその顔に、ほんの一瞬、驚きの色がにじむ。
神谷は――反応しなかった。
いや、正確には、既にその名が出ることを知っていたかのように、まるで予定通りとばかりに微動だにしない。
篠原は、思わず心の中で舌打ちした。
(……桐畑丈一郎?)
その名は、立川から共有された報告書で目にした覚えがある。
かつておきた病院ミッションに現れた異常個体に自衛隊の特戦群が苦戦する中、突如現れて軽々と討伐したという――“民間人”の存在。
(……杉谷は、あれと“組んでる”?)
思わず杉谷の顔を見やる。
相変わらず背筋は伸び、涼しい顔をして話を続けているが――
その口から、あっさりと“あの民間人”の名前が出てきたことで、確信した。
(やっぱこいつ、おかしいだろ)
篠原にとっては、かつての“相棒”。
だがその「異常な嗅覚」と「結果を出す手腕」だけは、今も昔も、侮れない。
そして今、その杉谷が動き、その背後にいるのが“桐畑丈一郎”――
会議室の視線が、一斉に杉谷へと集まっていた。
「続けます。東京駅をスタートし、霞ヶ関近くなど都心を経由しながら、新宿まで山手線に沿って地上のゾンビを引き連れて移動。
レイド参加者は、新宿駅で待機。最終目標は代々木駅を過ぎたところとし、そこで線路上に穴を開け、全てのゾンビをダンジョンに落とすことで討伐。
ゾンビはダンジョン内で処理されることで、すべての経験値がシステム上有効になりることを検証済みです。すなわち、戦闘参加者全員に経験値が分配される形となる見込みです」
「……切り上げの仕様を利用するのか」と、大島が低く声を漏らす。
杉谷は頷く。
「ええ。システム上、経験値3の敵はパーティにより割られますが、小数点以下は切り上げされる仕様。5名が参加すれば、それぞれに1の経験値、つまり1体で5の経験値が発生することになります。仮に数百万体を処理すれば、参加者全員をレベル100以上に押し上げることも可能でしょう」
篠原は無言で額を押さえた。
とんでもない話だ。
だが、現実味がないわけでもない。
(あいつなら……やりかねねぇ)
だが、杉谷の口から次に出てきた言葉は、それ以上だった。
「ただし――実行にあたり、以下の3点を政府に要望いたします」
空気が、再び引き締まる。
杉谷は指を3本立てた。
「一、桐畑丈一郎およびそのパーティメンバーを《正式な探索者》として認可すること」
「二、その活動に対する政府・自衛隊・警察などからの《干渉・制限を行わない》こと」
「三、彼らの《ステータスおよび能力の詳細を問わない》こと――詮索を、一切、しないと約束していただきたい」
会議室が、静まり返る。
「……ああ、そうでした。ひとつ補足です。今回の作戦、多少の物的損壊は避けられません。建物や備品の破損については、“戦術上の必要経費”として、あらかじめご容赦いただけると助かります――請求などは、どうかお控え願いたい」
思考が停止したような沈黙。
だがその直後、会議室の沈黙を打ち破ったのは――
「……ふざけるな」
低く、押し殺した声。
だがその一言には、明確な怒気が込められていた。
大島だった。
「彼の強さは理解している。だがたった一人の民間人に、首都をかけた作戦を背負わせる? 彼の命を危険に晒すだけじゃない、失敗すれば我々だけでなくここにいる民間探索者、力を持たない人々にまで被害が及ぶ」
大島は身を乗り出すようにして、杉谷を睨む。
「それだけじゃない。お前らは“探らないでくれ、口も出すな”とまで言うのか。この国が総力を挙げて戦っているこの状況で、一個人の都合を――」
「大島さん」
遮ったのは、神谷だった。
声は穏やかだが、背筋を通すような圧があった。
「この件、早乙女官房副長官はすでに内容を把握しています。最終判断は――彼からの通達として、すでに秘書官である私に委ねられています」
その言葉に、大島が目を見開いた。
神谷は静かに一枚の紙を取り出し、机の上に置く。
政府決裁印が押された文書だった。
「――受理、承認済です」
「……なっ」
大島が押し黙り、篠原は驚きもせず、ただ目を細める。
(たぬきめ。あの男……話が通ってやがったな)
神谷が続ける。
「本件は、特殊な事例として扱います。桐畑丈一郎に関しては“非公開協力者”としての取り扱いとし、政府は必要以上の関与を行いません」
その言葉は、つまり――
“政府公認で、放し飼いにする”という意味だった。
会議室の空気が、凍る。
そんな中、杉谷は一礼し、再び口を開いた。
「ありがとうございます。では、正式に作戦準備へ移行させていただきます。
そうそう、これだけ大規模で複数の方が関わる以上、作戦名が必要ですね。
――“東京環状戦域掃討作戦《とうきょうかんじょうせんいきそうとうさくせん》”、東京レイドとでも仮に呼びましょうか」
のちに日本政府が大きく前進する一手と記録される“東京環状戦域掃討作戦”は、こうして始まった。
建物のモデルについて。新宿駅に高層ビルはないのですが、再開発で作られるグランドターミナル計画の高層ビルがこの世界ではすでに建っているというイメージをしています。絵面としては高さも含めて新宿パークタワー(52階建て)をイメージしています。




