幕間 京都にて
──それは、“タイタン”が討たれる五日前、丈一郎たちが第四層に入った日の夜。
京の都には、異界の気配を孕んだ静けさが降りていた。
一条通に面する旧土御門邸。
文化財の警備・搬送を手がけ、特定の人物や団体を護衛する民間護衛会社として、明治3年に創業された組織を母体とする株式会社京護舎の本社事務所が大半を占めている。伝統的な京町家様式に近代的な改装が施されたその建物は、古都の中に静かに溶け込んでいる。
その西側に位置するのが、旧邸を改築した一般社団法人京都文化資源研究機構(Kyoto Institute for the Research of Cultural Sources)――通称KIRCSの一室。
KIRCSは、文化庁や大学と連携し、古文書・史跡・祭祀・民間伝承をはじめとした日本古来の文化資源の保護と研究を表向きの使命として担っている。
だがその裏では――千年以上前より朝廷の密命を受け、常世と現世の境界を守り続けてきた、由緒ある朝廷直属の守護組織でもあった。
畳の上に鎮座する御影石に掘られた京地図――“結界盤”が、静かに淡い光を放っている。そこに浮かぶ光点は、京都市内の霊脈の流れを視覚化したものだ。
その盤の前に、土御門家の当主・土御門 典信が正座していた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、老いの兆しを感じさせぬ眼差しで、静かに地図を見つめている。
「……結局、守れたのはこの地だけか」
呟きは誰に向けたものでもない。だが、言葉に込められた静かな怒りが座敷の空気に響く。
その時、襖がすっと開いた。
入ってきたのは、土御門 静佳。長い黒髪を背に流し、着物姿のまま、滑るように進み出る。
「賀茂隊から報告です。九条通および裏鬼門の結界、今朝五時に更新完了。現在は洛内を回り結界状況を確認しています」
静佳が畳の端に膝をつき、静かに報告する。
典信は軽く頷くと、地図から目を離さぬまま答えた。
「よくやっているな。……あの子も、祈祷に入っているのか」
「はい。綾は第二礼拝室にて、ツクヨミとの共鳴状態のまま、現在も霊波の調整を継続中です」
「そうか……」
そのとき、別の襖が開き、土御門家 長男、照真と三名の隊長たち、一条 道成、菅原 崇雅、西園寺 琴乃の面々が入室する。
「失礼いたします。当主殿、京護舎の任務状況について、菅原隊より報告を」
「先週に御所へ対象の移送をしたのち、一条隊と菅原隊でローテーションをし護衛を継続中」
「続き、大阪府および兵庫県の一時組織と、関西圏の自衛隊を京都で受け入れることについて、西園寺より報告」
淡々とした作戦報告が続いていく。
「――そして最後に。静佳殿、大津 直人殿の所在について、何か進展は?」
「……いえ。先日各地の霊脈確認から戻られた後、昼時に“ちょっと中華料理を食ってくるわ”と仰ったきり、未だ連絡は途絶えたままです」
「まったく……。あいつに何かあれば、結界が崩れるという時に」
照真はため息をつき、疲れ切った顔をしている。
「直人は、ああ見えて狡猾だ。何か考えがあるのだろう」
典信の声は、どこか確信めいていた。
それぞれの報告を終えると、再び会議室には静寂が満ちた。
だがその静けさは、もはや先程までの“無音”ではなかった。何かが、地下で蠢いている――そう直感させる、張り詰めた沈黙だった。
「……静佳」
典信の声が、再び空間を支配する。
「そろそろ、報告してもらおうか。君が大津と調べていたことを」
静佳は一拍おき、静かにうなずいた。
「はい。当主殿」
彼女は正座の姿勢を崩さず、畳の縁をなぞるようにして語り始める。
「まず、これまでの流れを振り返らせていただきます。
3月22日18時ごろ、京都各地の結界への干渉を確認。結界に歪みが見られたため再起動。その後賀茂隊とともに初期対応に当たりました。
同日22時5分。日本各地でパンデミックが発生。同時刻に各地の霊脈にある神域結界の反応が消失。京都においては、護衛任務のサポートとして滞在中であった大津殿により、事前に阻止に成功。その後は、感染者の京滋方面への侵入を防ぐため、綾がツクヨミと同調し対応。本日4月3日に至ります」
自らの役目を果たすことができなかった悔しさを抑え、言葉を絞り出す。
「“門”という霊的構造体の発生は、本来なら予兆のあとに出現するものです。ましてや結界の張り巡らされた都市部での発生は、一部が開いた1000年前、神代の時代を除き例がないものです。
また門の規模においても、これまでのものはKIRCSの一部隊で対応できるレベルでした。
むしろ上層から下層に向かって妖怪や悪霊の強さが上がる構造を生かし、レベリングや新人訓練の機会にすらしていました」
「……」
典信は静かに促す。
「今回の門、正確には“霊的構造体の出現”と呼ぶべき事象は、これまでの異界からの漂着といった偶発的な発生とは大きく異なります。つまり、ただの自然現象ではありません」
「……断言するんだな」
「はい。各地の霊脈、特に東京・大阪・名古屋・福岡の主霊系において、同時多発的に“抉り取り”のような痕跡が確認されています。通常、神域は重なり合う結界層によって守られており、物理的・霊的侵入共に即座に察知されるはず。しかし……今回は、その“警告”すら、発動していませんでした」
隊長たちが息を呑む。
「まさか、内側から……」
西園寺琴乃の呟きに、静佳は小さくうなずいた。
「ええ。実際、大津殿からの調査報告には、結界構造の“外部破壊”ではなく、“霊的回廊の変質”と記録されていました。むしろ結界の構造を生かし、地脈そのものに楔を打ち込まれたような異常さでした。そこには、外部の“手”が入っていたとしか思えません」
「つまり……“誰かが”、開けたということか」
一条道成の声が低く響く。
「目的が、“侵略”ではないと?」
菅原崇雅が眉をひそめる。
「わかりません。ただ現在、門は拡大を続ける一方で、“ミッション”と呼ばれる行動指針のような仕組みが作動しています。
これは、本来門を開いた者の意図とは相反する動きにも見えるでしょう。
……つまり、門の背後には複数の“意思”が介在している可能性があります」
「厄介だな」
典信が短く言った。
「ええ。そして、各地の門内の構造の変質。特に一層に現れた動く屍。1000年に続く我々の戦いを振り返っても、死者の復活事例や、生者への呪いの伝播といった記録はありません。……当家に伝わる秘伝を除いて」
室内の温度が、わずかに下がった気がした。
「つまり、今起きていることには、間違いなく我々と同質の力を持ったものが動いています。さらに世界で同時多発的に起きていることを見ても、その力は巨大な組織…なかでも金色が関わっている可能性が高いと大津殿は推察しています」
誰もが息を呑み、沈黙が流れる。
金色。
正式には、金色の黄昏。
ロンドンを拠点にする秘密結社でKIRCSと同様、門の漂着を監視し対処している巨大な組織。もし、そのような力を持つ者たちが、あえて門を開いているとすれば、現状ですら最悪ではないのかもしれない。
そして――
典信が、結界盤から目を離し、ゆっくりと立ち上がる。
その背筋は、古の血に連なる“守人”としての威厳を纏っていた。
「……“黄泉比良坂”が、再び開くような事態だけは、避けねばならぬ」
声は静かに、だが確かに床を震わせた。
それは警鐘であり、命令であり――そして、土御門家の意思そのものだった。




