第41話 デッドモール⑥
パンデミック7日目の朝。
映画館のシアター4では、非常灯のかすかな光に照らされながら、4人が身を寄せ合っていた。
缶詰も水も、昨日の朝に底をついた。腹の音がなる体力もなくなり、誰も口を開こうとはしない。
その中で、夏芽はぼんやりと天井を見つめていた。
(……なんで、あんなのを見てしまったんだろう)
脳裏に浮かぶのは、昨夜トイレに出ようとして見てしまった光景。非常灯に照らされた通路の奥。そこにあったのは、伊藤にすがりつく梓の姿だった。
『……おねがい…もう限界なの…何でもするから…』
怯えではなかった。甘えのこもった声音。それに応じる伊藤の顔。
二人の目つきは、どこか狂気を孕んでいた。
(あれが、梓さん……?)
憧れが、音を立てて崩れていく感覚。なにより、少しずつみんながおかしくなっていくようで…怖かった。
「……食料と水が必要だな」
伊藤が呟く。
「このまま、というわけにはいかないですもんね…」
中谷が答えた。
「きっと警備室は…もう…」
美緒の声は、ひどくかすれていた。
「とりあえずこの階、3階を探索しましょう。まずはここの反対、西側にあるカフェに行って水を探しましょう」
梓がきっぱりと言う。誰も異論を挟まなかった。
* * *
カフェ跡に辿り着いた5人は、奥の棚からペットボトル数本と粉末スープを回収する。
「私と伊藤さんで周辺を警戒してくる。三人は休んておいて。10分で戻るわ」
梓がそう言い、2人で店の外へと出て行く。
残された夏芽、美緒、中谷。
「……大丈夫? 美緒ちゃん」
夏芽がそっと声をかけると、美緒はかすかに首を横に振った。
「……寒気がする……ちょっと、頭が……ぼーっとしてて」
座ったまま肩を震わせる美緒の背を、中谷が静かに支える。
「食事もろくに摂れてないし、ずっと気を張りっぱなしだったもんね……大丈夫。少し休もう」
言葉に安心したのか、美緒は中谷の肩にもたれかかった。夏芽は、その様子を見つめながら、ほんのわずかに微笑んだ。
――しばらくして、梓と伊藤が巡回から戻ってきた。
「梓さん、美緒が体調を崩してて……あたしと中谷くんで、1階の薬局まで薬を取りに行ってきます」
夏芽が告げると、梓はすぐに頷いた。
「わかったわ。無理だけはしないでね」
「はい」
中谷が立ち上がり、夏芽もそれに続いた。二人の背中が遠ざかっていく。
その後ろ姿を、伊藤は冷えた目で見送っていた。
「風邪……ね……」
ぽつりとこぼしたその呟きは、誰の耳にも届いていなかった。
* * *
3階のフロアを抜け、夏芽と中谷は静かに非常階段を下りていった。
館内の照明は落ちていたが、外から差し込む朝の光が、ガラス越しにわずかな明るさをもたらしている。
「……ほんとに、静かですね」
夏芽がぽつりとつぶやく。
「うん。でも、ゾンビはまだいる。気を抜かないで」
中谷はバールを手に、周囲を警戒しながら答えた。
2人が目指すのは、2階にある薬局『ドラッグサワイ』。客のいない売り場では、棚が音もなく並び、静寂が支配していた。
正面のシャッターは降りていたものの、幸いにもバックヤードと通路が繋がっており、裏手から侵入することができた。
「行こう」
暗い店内に入り、スマートフォンのライトを頼りにレジ裏の保管棚へ向かう。棚を探っていた夏芽が、ビニールパックに入った風邪薬を見つけ、声を漏らす。
「……あった…!」
中谷も、冷却シートや経口補水液、栄養ドリンクを袋に詰め込んでいく。さらに、プロテインバーや栄養調整食品など、補助になる食料も手早く確保した。
「食料も見つけたし……これで美緒ちゃん、少しは楽になるよね」
「うん、絶対に」
必要な物を抱え、2人は慎重にバックヤードへ戻る。そして足音を殺しながら、非常階段を駆け上がった。
(薬だけじゃない。食料も確保できた。これで少しは希望が持てる――)
大きなトラブルもなく、3階まで戻ってくる。夏芽の胸に、かすかだが確かな安堵の灯がともった。
――そのときだった。
ゴッ。
腹の底に響く、鈍く重い音。
「……っ」
「今の……なに?」
夏芽が顔を上げた次の瞬間、反射的に駆け出していた。
「夏芽ちゃん! 待って!」
中谷の声が背中から飛んできたが、もう耳に入っていなかった。
夏芽はそのままカフェへと駆け込む。目に飛び込んできた光景。
崩れ落ち、膝をつく梓。
――血に濡れた金属バットを握りしめる、伊藤 涼介。
そして、その足元に――
倒れている、美緒の姿。床に広がる鮮血が、カーペットにじわじわと滲んでいく。
「……え?」
現実とは思えない光景に、喉が詰まり、声が出なかった。
「……美緒!? 美緒っ!!!!!!」
夏芽が駆け寄り、膝をつく。美緒の目が、微かに開いていた。震える唇が、かすかに動く。
「なつ……め……ちゃ……」
その目は、夏芽を見て――泣きながら、笑っていた。
「……ごめ…ね……せっ…かく…」
「そんなことはいいの! …だめっ…やだよ……!」
「誤魔化さなくていい。本当は……感染してたんだろ。もう薬なんて意味がない。それに、ここから逃げる場所もない。誰かが非情な決断をしなきゃいけなかったんだ。だから、俺は――」
「っ! ふざけんなよ!!!!」
中谷が駆け込み、伊藤の胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
「誰がそんなこと頼んだ! 勝手に決めんなよ!!」
夏芽の腕の中で、美緒の呼吸はどんどん浅くなっていく。
中谷も、美緒のもとへ膝をつき、顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。
「美緒ちゃん……美緒!!」
その声に応えるように、美緒が微かにまぶたを開く。
かすかな笑みを浮かべながら、二人の顔を見上げる。
「……わた…ぶんも……どうか……きて……」
かすれた声が、かろうじて届いた。
そして、そのまま――静かに、美緒の息が止まった。
あたりには、誰のものともつかない、息を呑む音だけが残っていた。
中谷が震える声で言った。
「伊藤さん……どうして、こんなこと……」
伊藤は血まみれのバットを手に、今にも崩れ落ちそうな声で叫ぶ。
「……だからわかんないのか!? 感染してたんだよ……! 守らなきゃいけなかったんだ……だから、俺は……!」
「っ! ……ちゃんと見たの!? どこを噛まれてたっていうの!? 確認したの!?」
夏芽が怒鳴るように叫ぶ。
「ねぇ、言ってよ! “どこ”に傷があったの!? “本当に”感染してたって証拠はどこなのよ!!!!」
沈黙が落ちた。誰も、答えられなかった。
伊藤の肩が震える。
「違う、違う、違う!」
頭を抱えた伊藤は、そのまま膝をついて崩れ落ちた。
「俺は……間違ってなんかない……みんなを、守ったん――」
「――人殺し!!!!」
夏芽の絶叫が、モール中に響き渡った。
伊藤の体が小さく震える。
「……どうしてわからないんだ……俺は……ただ、梓を守ろうとしただけなのに……」
その呟きを受けて、沈黙を続けていた梓が、ようやく口を開いた。
「……ごめんなさい……私……」
声は涙にかすれ、続きの言葉は喉の奥で途切れた。
伊藤は、ふらりと立ち上がる。足元はおぼつかず、その視線は定まっていない。まるで何かから逃げるように、カフェの出口へと向かう。そのまま、通路に出ようとした瞬間だった。
「……ここにいたのか。聞こえたよ、“人殺し”がいるんだって?」
静かな声。影が、カフェの入り口に立っていた。血に染まった料理服。鋭い目。そして、手には包丁。
真田だった。
「……っ真田……お前! 生きて……っ!」
伊藤が言いかけた、その刹那。
――グサッ。
鋭い音が響いた。真田の包丁が、伊藤の腹に深々と突き刺さる。
「……ぐあっ……っ……!」
「上の連中も、もう終わったよ。お前も俺と同じだ。戻る場所なんて、どこにもねぇ。だったら――俺が、さばいてやる」
低く呟きながら、真田は刃をさらに押し込んだ。伊藤は呻きながら、その手首を掴み返す。
「この……まま……終われるかよ……っ! 俺は……守るんだ……!」
もつれるように組み合ったまま、二人はカフェの外へ――吹き抜けのある踊り場へとよろめき出る。
「伊藤ぉぉぉ!!」「真田……!」
夏芽と中谷の叫びが響いた、次の瞬間。
ドサッ。
重い音を立てて、二つの影が階下へと落ちていった。
その先に広がるのは、うごめくゾンビが這いずる、モール1階の地獄。人の形を保ったまま崩れ果てた二つの影は、音もなくその渦に飲み込まれていく。
結末は――語るまでもなかった。
カフェに取り残された3人、夏芽、中谷、梓。
崩れ落ちそうな膝をかろうじて支えながら、誰も動けずにいた。
夏芽は、美緒の血が染みついた手を握ったまま、ただ立ち尽くす。声を出そうとしても、喉が張りついたように、何も出てこない。
中谷は、吹き抜けの縁に視線を投げたまま動かない。蒼白な顔、震える手。あの場面を止められなかった自分を、責めていた。
梓は……座り込んだまま、顔を伏せていた。何も言わず、何も見せず。ただ、震える指先が、その心の揺らぎを物語っていた。
無言。沈黙。呼吸の音すら、遠く感じる。
モールという名の巨大な密室に、ただ“終わり”だけが満ちていく。
その光景を、吹き抜けの天井近く――静かに浮かぶ一機のドローンが、無音で見下ろしていた。
レンズ越しに映るのは、カメラ越しには救いようがない現実と、絶望に飲まれて崩れ落ちていく心の断面。
助けはまだ届かない。ただ、誰もが限界を越えていた。
* * *
立川広域防災基地、地下指令区画。
中央の大型スクリーンには、ドローンが撮影したLaLaモール立川立飛の映像が映し出されていた。
真上から切り取られた、無機質な俯瞰映像。
倒れた少女。血に染まった金属バットを握る男。駆け寄る少女と青年。震える女性。混乱の中、男を刺したもう一人の青年が、そのまま吹き抜けから落ちていく。
その下――這い寄る無数のゾンビ。群れに飲まれていく二人。
壮絶な光景に、誰も声を上げられなかった。ただ、ドローンのレンズ越しに映る「現実」に、息を呑んでいた。
映像は音を持たない。だからこそ、そこにある“静寂”が重く、鋭く胸を突いた。
「……これが、救難信号を確認した二日後、現地建物内に派遣した調査ドローンが記録した映像です」
報告官の声が、映像の余韻を切り裂くように響いた。
「改めて整理します。」
報告官が一歩前に出る。
「本日より10日前――3月29日午前10時、LaLaモール立川立飛上空へ偵察ドローンを投入。映像にて生存者を確認後、同日午後に上空からの救助を実施。結果、生存者3名を保護しました。」
そう語ると、隣の端末に表示された資料へ視線を移す。
「そのうちの一人が――」
表示された名前に、会議室内がざわつく。
「中谷 海翔、20歳。現在は民間枠でダンジョン攻略に参加中。
職業は“暗黒騎士”。これは他に見ない職業、つまり特異職であると我々は考えています。職業取得後、第三層への突入を志願。第三層にてさらに急成長を見せています。」
一拍置いて、報告官は続けた。
「独断専行が目立つものの、戦闘力と現場適応能力は高く、特戦群の補佐候補として適性があると判断しています」
会議室にざわめきが走る。
「まだ大学生だろ?」「素人を、自衛隊のトップチームに入れるなんて正気か?」
反対の声が次々と飛ぶ。
その中で、大島が静かに口を開いた。
「素人? それを言うなら――桐畑 丈一郎はどうなる?」
一瞬、場の空気が止まる。
「彼も、元はただの民間人だった。だが、あの病院ミッションは彼がいなければ成立しなかった。
それどころか――俺たちも、生きてはいなかったはずだ」
静かながらも重みのある言葉だった。
続いて、真壁が口を開く。
「あのモールで何が起きていたかは、三人の聞き取りで明らかになっている。中谷は、ただ生き延びただけじゃない。彼は、あの経験を経た上で、前へと出たんだ。俺は、それを見逃すべきじゃないと思ってる」
早乙女仁は何も言わず、じっとスクリーンに映る中谷の姿を見つめていた。
血に染まった少女を抱きしめ、声を失いながらも立ち上がる少年の姿。
しばしの沈黙の後、早乙女が口を開いた。
「中谷 海翔を、特戦群の臨時補助隊員として登録する。立場的には真壁の下につける形にする」
その一言で、議論は終わった。




