第3話 ホーム・スイート・ホーム︰拠点
街は沈黙していた。まるで、すべての喧騒が一晩でかき消されたように。
ゾンビの姿はあちこちにあった。道端に立ち尽くす者、座り込んでいる者、ふらふらと彷徨っている者。
1箇所に大量に集まってなにかを貪っている者たち。だが、不思議なことに――誰も、こちらに反応を示さない。
(……おいおい。なんで、俺スルーされてんだ……?)
目の前をゾンビが通りすぎていく。明らかに“人間の形”をしている自分を見ていながら、襲ってこない。緊張して息をひそめたが、必要なかった。近距離でも、ゾンビたちは一切“敵意”を見せなかった。
丈一郎はすぐに気づいた。
(俺……ゾンビに、狙われてない。そういえばさっき地下にいた奴も…ただ彷徨っている感じだった)
さっきまでは“逃げる側”だった。だが今の自分は――“認識されない”。
おそらく、一度ゾンビになりかけて、ギリギリで回避したことで、何かしら“奴らのセンサー”から外れるようになったのだろう。もしくは、職業のせいか。
「これは……チートなんじゃね?」
誰にも襲われず、好きなルートで行動できる。しかも、ダンジョンでスキルまで得て、身体能力まで強化された状態で。あまりに出来すぎた展開に、苦笑すら漏れる。
「まぁ、あのクソプロジェクト完了のご褒美だと思っておこう。……それにしても腹減ったな。」
ダンジョンから戻った丈一郎は、静まり返った街を眺めながらそう呟いた。コンビニもスーパーも、すでに荒らされている場所が多いだろう。人気がある分、避難や略奪も早かったとおもう。あと、生存者がいるところに行ったとして、ゾンビに襲われない自分がどのような扱いを受けるか、判断が難しかった。
その時――思い出したのは、ある記事だった。
“ホテルには、災害や停電に備えて非常食が数日分備蓄されている”
目的地は、新宿駅近く、都心のど真ん中にある外資系の五つ星ホテル。一度、クライアントとの打ち合わせでロビーに入ったきりで泊まったことはない。やたらとゾンビが多いこのエリアであれば、食料を持ち出す余裕もなかったかもしれない。
そう考えて新宿駅から出て5分ほど歩くと、目的のホテルに着いた。ホテルの自動ドアの電源は落ちていたが、ガラスが一部割れていたため隙間から中に入ることができた。
ロビーには観葉植物の鉢が倒れ、スーツケースが転がり、誰かが途中で投げ捨てたようなキャリーバッグが壁にもたれかかっていた。カーペットには赤黒いシミがそこらじゅうにあるが、ゾンビの姿は見えない。
「……よし。地下だな」
スタッフ用の通用口から、エレベーターの横にある非常階段を下りる。懐中電灯代わりのスマホのライトを頼りに、コンクリの階段を進むと――地下倉庫のドアが、半開きになっていた。
「……ありがたくつかわせていただきます」
その先にあったのは、まさに“理想的な備蓄庫”だった。段ボールにぎっしり詰まったミネラルウォーター。アルファ米、レトルトカレー、缶詰、栄養バー。災害対応マニュアルと共に、きっちり分類されて棚に並んでいる。いくつか持ち出されていたものはあるが、ほとんど残っているようだった。
ひとまず倉庫にあったリュックに詰め、さらに業務用の折りたたみコンテナも見つけて両手に抱える。
「……これだけあれば、当面はどうにかなるな」
食料、水、消毒用アルコール、ビニール袋、調理不要の保存食――さらには非常灯やカセットコンロなど、予想以上の備蓄量に、丈一郎は内心ほっとしていた。
(やっぱ、こういうとこは想定してんだな……災害とか停電とか)
災害の多い日本において危機に備えるという思想の蓄積が、今の自分を救ってくれていることに感謝した。
「ついでに……ちょっと中も見て回るか」
そのまま、備蓄倉庫を出て館内を散策することにした。廊下、客室フロア、厨房、従業員用通路――ライト片手に一通り歩き回るうちに、ある傾向に気づく。
「……これ、上の階のほうがゾンビ少ないな」
ホテルの低層階、特にロビー階や厨房周辺には、徘徊するゾンビや倒れたままのゾンビが数体いた。だがそれ以上の階、10階を越えたあたりからは、ほとんどゾンビの気配がない。
上階の客室は平日だったこともあり、宿泊者が少なかったのかもしれない。そしてなにより、ゾンビたちは“理由がなければ移動しない”。俺は職業ゾンビなせいか、スルーされていることから、わざわざ登ってくることも考えられない。
「……てことは、上のほう、ガチで安全地帯ってことか」
エレベーターは案の定、沈黙していた。気だるい気持ちで非常階段へ向かった丈一郎だったが、その感覚はすぐに裏切られることになる。
「……お、軽い。なんだこれ」
荷物をぎっしり詰めたコンテナとリュックを背負っているはずなのに、階段を上り始めた足取りは驚くほど軽やかだった。数日間寝て過ごしたとは思えない体のキレ。筋肉の張り、持久力、心肺機能――すべてが、自分史上“最強”と感じられるほどに冴え渡っている。
(……ステータスのせいか。やっぱ、強化されてんだな、俺)
疲れない。息が上がらない。階段を2つどころか3つ飛ばして登るのも余裕だ。そうして色々試しているうちに、気がつけばもう20階を越えていた。
「よし……行くなら、いっそ一番上まで行ってやろうじゃん」
どうせなら、特別な場所を使いたい。あの、テレビや雑誌でしか見たことのない――最上階のスイートルームを。
2801号室。当然、電子キーはダウンして使えない。だが、フロントにもどってカウンターを探っていたところ、物理キーが丁寧に保管されているのを見つけた。
「やっぱちゃんとしてんなー、こういうとこ」
最上階の鍵を拝借し、再度非常階段から上を目指す。
そして――重厚な木製のドアに物理キーを差し込み、静かに回す。開けた先には、期待を裏切らない光景があった。
「……やべぇ……これはスイートだわ……」
厚いカーペット。広すぎるベッド。ガラス張りの浴室。夜景が一望できるL字の窓。電気こそ落ちているが、光の残滓だけでも“ここは別世界”と告げていた。
リュックとコンテナを置き、荷物をほどく。外の世界は、今もゾンビが徘徊している。だがこの部屋には、その気配すら届かない。
「……まさか、こんなところに泊まる日が来るとはな」
丈一郎は、少し汗ばんだシャツを脱ぎながらつぶやいた。
水は出ない。ガスも止まっていた。ライフラインはすでに死んでいる。
だが備蓄倉庫から持ってきた非常灯を部屋の隅に設置し、天井灯代わりにテーブルの上へ置いた。白いライトがじんわりと部屋を照らす。
「……案外、なんとかなるな」
思っていたより明るいし、暖かみのある光で目も疲れない。なにより、“灯りがある”という事実が、精神的にでかい。
冷蔵庫は使えないが、缶詰もレトルトも常温で食えるものばかりだ。ビニール袋を敷き、即席の食事スペースをソファ前に作る。
腹を満たしたところで、ようやく落ち着いた。
(さて――)
丈一郎はソファに深く腰掛け、心の中で声を出す。
《ステータス》
意識に浮かんだスクリーンは、見慣れてきた“自分の情報”だった。
【ステータス】
名前:桐畑 丈一郎
職業:捕食者
レベル:1
経験値:9/10
HP:40/40
MP:20/20
STR:15
VIT:10
AGI:15
INT:10
LUK:15
スキル:捕食、噛みつき Lv1、腐食耐性 Lv1
残AP:90
「……職業、ちゃんと“ゾンビ”って書かれてんのな……」
初めて見たときは混乱していたが、こうして落ち着いて見ると、だいぶ突き刺さる。
“捕食者”
職業名からして、もう人間ではないと言っているようなものだ。だが、ゾンビにはなっている感覚はない。少なくとも、意識はあるし、理性もある。体も健康そのもの……どころか、普通より動ける。
「まあ……今さら“人間”に戻るつもりもないけどな」
次に目が止まったのは、スキル欄。捕食。噛みつき。腐食耐性。
「“噛みつき”はまあ、あれだ。ゾンビっぽいスキルってことで納得しとこう」
攻撃スキルとしては微妙だが、ゾンビから得たと考えれば妥当。近接特化スタイルにすれば、使い道も出てくるかもしれない。
そして――
「腐食耐性、Lv1……?」
これには、しばらく沈黙した。
いや、意味は分かる。“腐りにくくなる”。死体が徘徊し続けているのだ、ゾンビは持っていてしかるべきだろう。しかし。
「……人間が腐りにくくなったところで、だからなんだって話だよな……」
スキル説明を読んでも、腐食に強くなるだけとあるのみ。戦闘に役立つわけでも、ステータスが上がるわけでもない。
「ハズレスキルもあるってことか?」
苦笑しつつ、スキル一覧をじっと見つめる。そして、ふと思う。
「……ってか、スキルって、何個でも持てるのか?」
今のところ、制限らしい制限はない。そもそも、自身の状況が特殊すぎて、普通の職業やスキルについてすらわからない。簡単にスキルが増えるなんて、ゲームで考えればバランスが壊れている気がするけど…なんとなく、このままどんどん追加されていくように思える。
「……いや、もしかしたら、後から上限来るかもだけど……」
それでも現時点では、明確なスキル制限は見えない。つまり、倒した敵からスキルを得るたびに、自分の“手札”が増えていく。それがどんなにしょうもないスキルでも、いつか組み合わせや状況次第で生きる可能性がある。
「……集める価値、あるな」
ふと、脳裏にダンジョンの風景がよみがえる。
あの異常な空間。ステータスを得たのも、あの空間でゾンビを倒したからだろう。部屋の周りを歩かれても困るので、ホテルのゾンビをある程度処理したけど、ダンジョンから経験値が増えていない。
(明日また潜る)
今度は偶然じゃなく、意図してスキルを狩る。手応えを掴み、経験値を稼ぎ、レベルを上げる。
(そして……この職業の、正体をもっと知る)
――この“捕食者”が、どこまで行けるのか。丈一郎は、ベッドに寝転び、静かに天井を見上げた。
どこか遠くで、サイレンや高級車のアラート音が響いていた。だがここは静かだった。厚いガラスと分厚い壁が、終末の世界と彼とを隔てていた。