第36話 デッドモール①
――丈一郎たちが第四層にて巨躯の魔物に挑んでいたその頃。
同じ時間、東京ダンジョン第二層では、立川の暫定政府が主導するダンジョン攻略作戦が着々と進行していた。
構成員は、自衛隊・警察、そして民間の探索志願者たち。いずれも初日に第一層でゾンビを倒し、職業を得た者のみ。本来ならば、ゾンビの密集する都心部での大規模なダンジョン攻略は困難を極めるはずだった。
しかし、先日起きた新宿駅周辺の“ゾンビ空白”現象により、新宿駅側入り口の拠点化がスムーズに進行。その影響で、こうして第二層への本格的な探索活動が実現している。
想定外はそれだけではない。
第一層――そこには、本来ならゾンビが大量に潜んでいるはずだった。だが実際には、想定よりもはるかに“数が少なすぎた”。
第三層はというと、凶暴なゴブリンの群れが待ち構える高難度地帯。警察や自衛隊の職業保持者たちは、主にこの第三層の攻略を担当しており、実戦経験を積んだ彼らが主力として前線を担っていた。
一方、民間の探索志願者にとって、戦闘や連携にまだ慣れていない状態での深入りは危険すぎると判断され、スライムの湧く第二層を拠点に、第一層・第二層を巡回しながらのレベル上げに専念することとなった。
なお、パーティを組んでの戦闘では獲得経験値が分配されるものの、端数は切り上げられる仕様のため、経験値3のゾンビでも、1のスライムでも、実際の獲得量は1で変わらない。そうした事情も、低リスクな層での安定した狩りを選ぶ理由の一つとなっていた。
湿度が高く、薄暗いダンジョンの、少しひらけた石造りの空間。
無機質な迷路のような構造の中、探索者たちは5人1組のパーティ制で動いていた。
約60分ごとに、「攻略班(2回)」「警戒班」「休憩班」の三交代ローテーションを組んでいる。攻略班は事前に指定されたルートを進行してレベルを上げ、所定時間後に拠点へ戻ってくる。警戒班はその間、拠点周辺を監視し、異常やスライムの接近に備える。
このサイクルは1日2回を基本とし、第三層に進出している自衛隊・警察チームの帰還時間に合わせてスケジュールを調整している。これにより、拠点の戦力分散を防ぎつつ、合流や情報共有のタイミングを確保している。
その休憩スペース。
砕けた石柱と、薄く苔光る床の間に置かれたテントの中で、一人の女性が小さくあくびをした。
「……ふわぁ。全然、眠気とれない……」
元・東京医大病院所属、看護師の七瀬 舞。
現在は志願者としてダンジョン探索に参加していた。
その隣に座っていたのは、同じパーティに所属する高校生の少女だった。
ショートカットに整えられた髪と、切れ長の目が印象的だ。ダンジョンという非日常の中では異質な学生服姿で、腰に巻いたベルトには支給されたアーミーナイフが挿されている。
一見すると穏やかな表情を浮かべているが、その瞳には高校生とは思えない覚悟と強さが宿っていた。
「……舞さん、昨日も寝てないんですか?それってやっぱり…」
舞とおなじく志願者として探索に参加した、広瀬 夏芽が心配そうに見つめる。
「……うん。横になるとどうしても考えちゃって。…情けないよね、信じてるって思ってるはずなのに」
ふっと笑って舞が肩をすくめると、夏目が身を起こして体を伸ばす。
「まだ一時間ほど休憩時間ありますね。うーーん、筋トレでもするかなー」
「夏芽ちゃんは帰ったら依頼されてる装備作りもするんだよね?しっかり休まないと」
「大丈夫です。だってスライムですよ?木の棒でも余裕です」
そう言って腕をブンブン振り回す夏芽の姿に、舞は思わず吹き出した。夏芽もそれにつられて、照れくさそうに頬を緩める。
(……随分と、明るくなったな)
初めて避難所で出会ったときの夏芽は、どこか塞ぎ込んでいた。言葉数も少なく、心を閉ざしているように見えた。
けれど、その目だけは強く前を見据えていた。何かを決意しているような、そんな光をたたえていた。
だからこそ、探索志願者としてパーティを組むと決まった時、真っ先に「彼女と一緒がいい」と希望したのは舞だった。
少しずつ声をかけ、時間をかけて距離を縮めて――今、こうして笑い合えるようになった。
(きっと、彼女は大丈夫)
舞は、そっと目を細めた。
数秒の静寂。
遠くから、別パーティの戦闘音がこだまする。
そんな中、夏芽がぽつりとつぶやいた。
「……舞さんと話していると、なんだか梓さんのことを思い出します」
舞が目を瞬かせる。
「……聞いても、いいかな?」
真剣な眼差し。舞はゆっくりと頷いた。
「……以前、服飾業界を目指してたって話、覚えてますか?」
「うん。ファッション好きだっていってたもんね」
「……だから、LaLaモール立川立飛にある『ル・ルージュ』っていうお店でバイトしてたんです」
そう語る夏芽の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「そこの店長が梓さんで。おしゃれで、美人で、すっごくカッコよくて……
怖い社員の男の人にも物怖じせずに言い返すような人で……私と美緒は、そんな梓さんに憧れてました」
「美緒ちゃん?」
「はい、私の親友。……いつも3人で、営業終了後に残っておしゃべりしてて。梓さんが、遅くまで私たちの相談に乗ってくれて。あの時も……」
夏芽は、言葉を切る。
その視線は、ダンジョンの苔の光が揺らめく奥の闇へと向けられていた。
「……そう。あの日。あの夜も……同じように、私たちの相談に乗ってくれてました」
しん、と空気が沈黙する。
そして――彼女の瞳の奥に、モールの記憶が立ち上がっていく。
あの、終わりの始まりの夜。
* * *
LaLaモール立川立飛──
営業時間はすでに終了し、館内の照明も半分が落とされていた。
テナントのひとつ、女性向けファストファッションショップ『ル・ルージュ』。
その店舗裏のバックヤードの一角、スタッフルームにはまだ明かりが灯っていた。
「いやほんと、あのお客さん、すっごい盛り上がったのにさ、タグ見せたら“もっと安くなんない?”って……は? ってなりましたからね」
カシャン、とタイムカードを打刻する音に続き、笑い声が上がる。
「接客あるあるだね、それ。でも、ちゃんと笑顔で対応してたでしょ?」
「もちろんです。でも心の中では全力で眉間に皺寄ってましたけど」
そう言って眉間に指を当てて皺を寄せているのは、広瀬 夏芽。
高校二年の春、ファッション業界を夢見てこの店でバイトを始めた。はっきり物を言うタイプで、口は少し悪いが、センスと行動力は抜群。
客にも同僚にも遠慮なくツッコミを入れるが、不思議と嫌われない――そんなちょっと生意気だけど憎めない後輩ポジションだった。
隣で笑っていたのは、もう一人のバイト仲間――佐倉 美緒。
少し控えめで、言葉少なだが、夏芽とは同じ夢を持つ親友同士だった。
2人が腰掛けたのは簡素な丸椅子。
その前で壁に寄りかかりながら腕を組み微笑んでいたのが、店長の宮下 梓だった。
「でもちゃんと売れてたじゃん。あの白のノーカラー、あれディスプレイしたの夏芽ちゃんでしょ」
「えっ、見てました? さすが店長」
「何言ってんの。全部見てるよ、うちの売上は誰のおかげかって」
背筋が伸びて、声がキリッと締まる。その“かっこよさ”が、夏芽と美緒の憧れだった。
明るくて、おしゃれで、強くて、美人で。困った客にも物怖じせず、言うべきことは言う。「こんな大人になりたい」って、思わせてくれる人。
だからこそ、閉店後に少し残って、こうして三人で話す時間が好きだった。学校や家庭じゃ得られない、大人の世界の匂いがした。
「……で、美緒ちゃんは? 今日なにか面白いことあった?」
「んー……あの、子供に“店員さんかわいいね”って言われたのが、一番嬉しかったです」
夏芽が口を挟む。
「ふふ〜、さっすがあたしの美緒。その魅力は老若男女全てに通じるんだぜ〜」
「や、やめてよぉ……」
顔を赤くしながら俯く美緒。夏芽と梓が小さく吹き出す。
その空気を、足音が乱した。
「おい」
安全靴の音とともに、後方から声が響く。振り返ると、不機嫌そうな中年の警備員がスタッフルームの入り口で仁王立ちしていた。
「まだぺちゃくちゃしゃべってんのかよ。閉店後は1時間以内に出ろっつってんだろ!こっちは警備で残ってんだぞ。ったく、これだから女はよ……」
そう吐き捨てて、植田 尚也は吐き捨てるように立ち去った。
――こっそりと、ポケットに何かを突っ込みながら。
「……あいかわらずですね、あのカエルオヤジ」
「夏芽ちゃん、きこえちゃうよ…」
美緒が植田に聞こえないかとあたふたする。
「気にしない気にしない。言わせとけばいいんだよ、ああいうのは自分の中で何か拗らせてるんだから」
梓が軽く肩をすくめたが、その言葉に夏芽は少しだけムッとした表情を浮かべていた。
(……あいつ絶対わざといつも巡回ルートこっちから始めるようにしてるし。なんだか悔しい)
そんな心の中のつぶやきを飲み込んで、夏芽は立ち上がる。
「ふぅ。……んじゃまぁ、帰りますか」
「そうだね、明日も朝番でしょ? 無理しないようにね」
「はい。……また明日も、よろしくお願いします」
その言葉に、梓はいつものように笑って応えた。
いつもと同じ、何気ないやり取り。
明日もまた、こうして笑い合えると――誰もが信じていた。
閉店時刻から一時間半が過ぎた頃。
多くの店舗のスタッフも帰宅し、LaLaモールの中は静けさに包まれていた。
あとは夜間の巡回と、バックヤードの整理が済めば、今日という日も終わる――はずだった。
「……あれ?」
警備室にいた木戸 雅也が、監視モニターのひとつに目を留めた。
画面に映るのは搬入口付近の通路。
照明の点滅で明暗が交互に映し出されるその通路を、ひとりの男がフラフラと歩いていた。
「……来客……なわけないよな。なんでまだ残ってんだ?」
隣にいた伊藤 涼介がモニターに目をやる。
「業者か? いや、作業服でもスーツでもないな。……ていうか、動き、おかしくないですか?」
その“男”は、壁に手をついたり、まっすぐ歩けずふらついていた。
ただ酔っているのか、それとも――。
「中谷、お前ちょっと様子見てきてくれ。酔っ払いかもしれないし、病人かもしれない。一応距離取って声掛け、無線はオンで。伊藤はなんかあった時に備えて本部との連絡頼む」
「え、ええっ!? ちょっと待ってくださいよ、怖いっすって!」
「いいから。防災操作は俺が待機してる。それに近くで植田が巡回してるから合流しろ」
木戸は監視カメラに目をやり、続ける。
「ほら、音に気がついて植田もむかったみたいだ。何かあれば防災シャッターも操作するからな」
渋々、防護ベストを羽織って出ていく中谷 海翔。
大学生バイト、臆病で頼りないが、今は人手が足りない。
一方、その頃。
ファッション店『ル・ルージュ』のバックヤードでは、まだ夏芽たちが梓と一緒に残っていた。
帰ろうとしたところ美緒のスマホが見つからず、かれこれ一時間以上探している。
「ごめんね…。私のせいで…」
泣きそうな顔をしながら美緒が言う。
「大丈夫、私が責任持って送っていくから。夏芽ちゃんからご両親にも連絡したんでしょ?」
「はい、でも美緒ちゃんの家、まだご両親帰って来てないらしくて。とりあえず弟くんに伝えてます」
美緒が三度ロッカーを開けて「スマホ……どこ置いたんだろう…」と呟いたそのとき――
ジリリリリリリリリリリ…………!
ガガッ、ガラガラガラガラガラガラガラガラガシャアアアアン!!
突如、アラート音と共にモール内の防災シャッターが一斉に降り始めた。
「え……?」
「ちょ、なに!? 地震!? 火事!?」
夏芽が驚いて顔を上げる。店の外が、シャッターの降下によって急速に閉ざされていく音が、空気を押しつぶすように響いた。
「これ、誤作動じゃないよね……? 誰か、操作してる……?」
梓が無線を取り出すが、通信はザザッという雑音しか返ってこない。全員が顔を見合わせる。
そのとき――警備室からの緊急通報がバックヤードの端末に割り込んだ。
『警備室より緊急連絡! 搬入口付近で不審者を確認し、防災シャッター作動中!現在警備員2名が対応中ですが、各店舗で残っている方は施錠または避難を!』
「まさか通り魔……!?」
「えっ、こわいよ…」
「っていうか、なにが起きてるの……?!」
誰も状況を把握できていなかった。
ただ、確実に“何かが始まってしまった”ということだけは、全員の肌に伝わっていた。
梓が言った。
「とにかく、落ち着きましょう。ここは一階だし、下手に動くと出くわす可能性があるわ。まずはスタッフルームの扉を閉めて鍵をかけましょう」
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
日付はとうに変わり、館内放送が鳴ってからも、もうずいぶん経つ。
あれ以降、モールの中は不気味なほど静まり返っていた。
「あの後、どうなったのかしら…」
梓がそっとスタッフルームの外を覗き、非常灯の薄明かりに照らされた通路を見渡す。モール内はシャッターで外界から隔絶され、薄暗く静まり返っている。
そのとき、唐突に照明が一斉に消えた。
「きゃっ…!」
「停電…!?」
モール内の空調の音も一斉に止まり、静寂に包まれる。
「……ど、どうしよう……」
美緒が不安げな声を漏らす。
「電波も入らないし…梓さん、どうしますか?」
「……仕方ないわね。とりあえず、4階の警備室に行って状況を確認しましょう」
梓の判断で、3人は連れ立ってル・ルージュを出る。周りを警戒しながら1階店舗内を抜け、バックヤードの通路に出た途端、温度がわずかに下がったような気がした。
「……なにこれ、空気、変じゃない?」
夏芽がつぶやく。
「空調が止まってるからかもね」
梓が頷いた、その時だった。
バンッ!!
大きな音が響いた。
非常灯に照らされた通路の奥の扉が、乱暴に叩かれたような音だった。
「……誰かいる!? 警備員の方!?」
梓が呼びかける。応答はない。
ただ、扉の向こうから微かに――何かを引きずるような、擦れるような音。
次の瞬間、
バンッ……!……ガンッ……!
叩く音。ゆっくりと、そして不自然なリズムで。
「……な、夏芽ちゃん……私……」
夏芽が腕を広げて、美緒を背中にかばうように立つ。
バンッ!!
今度は強烈な衝撃。扉が揺れる。
それと同時に、一部の電灯がつく。
モールに備えられた非常電源が立ち上がったようだった。
続けて、扉の向こうから無線の音がする。途切れ途切れの雑音混じりの声。
『……植田、おまえ…何やってんだ……っ!おい、中谷…大丈夫か……っ!!』
「えっ、あいつ何してんの!?てか、中谷さんって大学生の……何かあったの!?」
次の瞬間――
バンッッ!!!
ドアが、開いた。そしてその音の正体が、通路の奥に現れた。
血まみれの警備服。ありえない方向に曲がった肘。真っ赤に染まった腹部からは何かが飛び出し、ぶら下がっている。
その頭の右上は皮膚を何かに食いちぎられたかのように欠け、顔面が血に塗れて見えない。
――しかし、胸元のネームプレートにある『植田 尚也』の文字がその正体を告げていた。
「……ひぃっ」
美緒が小さく叫び尻餅をつく。
あまりの光景に、梓も夏芽も声が出ない。
それは、歩いてくる。フラフラと、こちらへ片手を伸ばしながら。
そのポケットから、何かが――美緒のスマートフォンがずるりと落ちる。
…カタン。
「っ!…逃げて!!!」
スマホの落ちる音で我を取り戻した梓が叫んだ。
3人は植田だった何かに背を向け、近くの非常階段から警備室のある4階を目指す。
階下からは、ズルッ……ズルッ……という不気味な足音。それだけではない。
店舗内からも、ゴツン……カン……という音が重なる。
モールの静寂が、壊れた。
「梓さん、まって!美緒が!」
呼び止められた梓が足を止めて振り返る。階下では、腰を抜かして立ち上がれない美緒を夏芽が必死に支えていた。
肩を貸しているものの、歩くのもやっとの様子だ。
(このままじゃ警備室までもたない、どこかに隠れて、時間を稼がなきゃ――)
「こっち!3階の映画館の方なら、入り口が1箇所だからバリケードできる!」
夏芽の叫びに、梓がすぐ反応する。
3人はバックヤードから映画館へとつながる扉を抜け、そのまま転がり込むようにシアター通路内へ滑り込んだ。
シアター通路の扉を閉じると、梓はすぐに周囲を見渡し、傍に転がっていたモップを手に取り、両開きの通路扉の持ち手部分へ閂のように差し込んだ。
「これで……少しは時間が稼げるはず!」
通路への扉を閉めた瞬間、遠くから不気味な呻き声が響き渡った。




