第34話 マン・イン・ザ・ワイア:人かゾンビか①
タイタンの巨体が崩れ落ちてから、しばらくの時間が流れた。
戦いの興奮はまだ皮膚の奥に残っていたが、辺りは静寂に包まれている。崩れた石柱に寄りかかるようにして、新海が腰を下ろし、恵理は回復魔法を控えめに全員へ施した。丈一郎は、戦いの余韻を胸に、じっとタイタンの影を見つめていた。
そんな中、杉谷が口を開いた。
「さて、第五層に進む前に提案があります」
「提案?」
丈一郎の返答に杉谷が続ける。
「はい。ですがその前に桐畑さん。……“大津 直人”という名前に、聞き覚えはありませんか?」
突然の問いに、丈一郎は眉をひそめる。
「いや。……誰です、それ?」
少し考える素振りを見せたものの、結局首を横に振る。
杉谷はそれを見て、ふっと小さく息を吐いた。
「やはり、関係ありませんでしたか。念のための確認でした」
そして立ち上がると、制服の裾についた砂を払いながら、続けた。
「通常であれば、捜査中の情報を外部に漏らすなど、論外です。しかし、この状況では組織も崩壊しかけていますし……何より、あなたにでしたら話してもいいと判断しました」
静かな口調だった。だがその声には、確かな重みがあった。
「“大津 直人”は、パンデミックが発生したあの日――ダンジョンが現れ、我々が巻き込まれたその時まさに、私たちが“重要参考人”として追っていた人物です」
“重要参考人”。その言葉が放たれた瞬間、場の空気が僅かに引き締まる。新海も黙り込み、真剣な眼差しで杉谷を見つめていた。
「これまでの捜査情報や経緯から、私は彼が――ダンジョンに関わっている、少なくとも“何らかの情報を持っている”と睨んでいました。そして、桐畑さん。あなたの強さを見た時、もしかしたら……何か関連があるのでは、と」
そう言って杉谷は丈一郎を見た。真っすぐに。
丈一郎は、笑いながら肩をすくめてみせた。
「で? 実際どうだったんです?」
杉谷は、かすかに微笑んだ。
「このとおり、桐畑さん自身に関しては関係ないと確信しました。ですので、このように話しております」
しかし、その笑みは一瞬で消え、再び真剣な表情に戻る。
「ただ……その力の“在り方”――あなた自身も気づいていない部分に、その力の源泉が、大津や……おそらく彼の背後に存在する“組織”と無関係ではない可能性がある。そう、私は思っています」
丈一郎は黙して言葉を挟まず、杉谷の言葉を受け止めていた。
「話を戻しますと、すでにお気づきのように、私は《隠蔽》スキルで自身のステータスの一部を伏せていました。そして桐畑さん。あなたも、力を隠していますね。」
杉谷は倒れたタイタンの残骸へと視線を向け、続ける。
「……ひょっとすると、一人でも“あれ”を倒せたのでは?」
「いやいやいや、無理だって……」
丈一郎は慌てて否定する。だが――杉谷の真剣な眼差しと、何かを見透かすような静けさに触れた瞬間、言葉が止まった。
「……」
「提案というのは、こうです」
杉谷は静かに言う。
「三層、四層と敵の力の上がり方が尋常ではありません。この先、第五層では、さらに強大な敵と、予測不能な現象が待ち受けているはずです。だからこそ――お互いに、信頼と共に、本当の情報を開示しませんか?」
場に、緊張が走る。
「全てを明かすことで、リスクを最小限に抑える。それが、私の提案です」
静かな空気が流れる中、丈一郎はゆっくりと立ち上がった。
そして、崩れ落ちたタイタンの胸元へと歩み寄る。
「丈、いいの?」
恵理が不安そうに声をかける。
丈一郎は静かに、しかし確かな意志をこめて頷いた。
「……あぁ。もう、隠しておく必要はない」
そう言って手を伸ばすと、タイタンの巨体に触れた。
その瞬間――
眩い光が一閃し、タイタンの身体が光粒となって砕け、丈一郎の胸元へと吸い込まれていく。
「……なるほど」
杉谷がぽつりと呟く。
「それが、あなたの力の源泉なのですね」
丈一郎は、静かに頷いた。
「……一度、ゾンビに噛まれたんだ」
恵理が、すっと息を呑む。
「そのまま、ダンジョンに落ちた。そこで俺は“捕食者”って職業を得たんだ。職業専用スキルの捕食は、モンスターを取り込むことでその能力を吸収できる……職業も、スキルも、な」
丈一郎は淡々と、事実だけを語った。
「この力のおかげで生き残ってこれた。でも、同時に――俺は、もう人間じゃないかもしれない」
その言葉を、杉谷も新海も、黙って聞いていた。
やがて、新海がポン、と自分の膝を叩いて言った。
「……つまり、チート自慢っすね?」
「は?」
丈一郎が思わず振り返る。
「丈ちゃん、めっちゃチート職じゃないっすか! なんすかそれ、うらやましすぎるっすよ!」
新海は、どこか吹っ切れたように、顔をくしゃっとさせて笑っていた。
空気が、ふっと和らぐ。
だが、丈一郎の表情はすぐに曇る。
「……でも、俺はたぶん感染してる。ゾンビに……。リスクとして排除すべきじゃないのか?」
その問いに、杉谷が静かに口を開いた。
「……桐畑さん。私たちが、最初にダンジョンに巻き込まれた時の話をまだしていませんでしたね」
静まり返る空気の中、その声はどこか張り詰めていた。
「……あの時、警察だけでなく、一般市民も複数名巻き込まれていました。ゾンビの襲撃に遭い、感染し、多くの方が命を落としました。……我々の仲間も、その場で命を落としました」
一拍置いて、彼は続ける。
「救える命を守るため、私たちは感染者、つまりまだゾンビとなっていない人間に、銃口を向けざるを得ませんでした」
そこで言葉を切り、杉谷は拳を握りしめる。
「……さらに、その混乱の中で、感染していない一般人による暴走も起きました。職業を得て、力に酔い、多くの市民を殺した者がいたのです。私は、その男を……私の手で、殺しました」
語尾が掠れ、視線がわずかに揺れる。
杉谷の独白は続く。
それは、まるで懺悔のようだった。
警察として守るべき市民を守れなかったばかりか、自らの手で命を奪ってしまった――その事実が、いまも彼の胸に残っているのだ。
「……罪を犯したのは私です。正義の名を借りて、限界を超えた判断をした。何も正当化するつもりはありません。けれど、あの時……あれ以上、犠牲を出さないためには、他に方法が思いつきませんでした」
その声に、悔しさと痛み、そして怒りの感情が滲んでいた。
恵理は今にも泣きそうな顔になり、新海の表情は俯いて見えない。
そして、丈一郎だけが、まっすぐにその言葉を受け止めていた。
少しの沈黙のあと、杉谷はふっと笑みを浮かべた。
「……話が逸れましたね」
穏やかな声色だったが、先ほどまでの痛みをすべて内包したような声音でもあった。
「何が言いたいかといいますと――私はその時、警察を辞すことを決意しました。そして同時に、二度と人に銃口を向けないと誓ったのです」
その顔には、真剣な光が宿っていた。
信念を語る者の、揺るぎない眼差し。
そして――その目を、すぐ隣で新海も同じようにしていた。
いつも軽口を叩き、冗談ばかりの彼が、その時だけは一切笑っていなかった。
仲間を信じ、人々を守る覚悟を秘めた、元・警察官としての目だった。
沈黙のなかに、確かな意志が交錯する。
「桐畑さん。あなたは“人”です。それが、私の答えです」
静かな、しかし揺るぎない言葉だった。
その瞬間――
丈一郎の胸に、込み上げてくるものがあった。
この地獄のような世界で、ゾンビに噛まれ、ダンジョンに落ち、《捕食者》なんて職業を得た自分が、ずっと心の奥で恐れていたこと。
――自分はもう、人間じゃないのかもしれない。
いくら理性を保っていても、力を得て仲間を救っても、それが“ゾンビの力”である限り、その恐れは拭えなかった。
誰にも打ち明けられなかった。その葛藤を、苦しみを、笑って済ませることもできなかった。誰かに裁かれるんじゃないかと怖かった。
そんな中、誰かがはっきりと――しかも“警察官”という、社会の正義の象徴だった男が――自分を「人間だ」と認めてくれた。
握った拳が、わずかに震えていた。
顔を上げられなかったのは、その目に涙が滲んでいたからだった。
――そんな丈一郎の姿を、恵理は黙って見つめていた。
あふれる涙を隠そうともせずに。
その頬を伝う雫は、悲しみの涙ではなかった。
丈一郎の距離感から、彼の抱えるものに気付いていても、かける言葉がなかった。
だからこそ、丈一郎が心の底から救われた瞬間を見られたことが嬉しかった。
そしてこの瞬間、彼らはようやく“本当の仲間”として、同じ場所に立ったのだった。




