第20話 ダイイング・フライト:高度500メートルからの落下
眼下には灯りの消えた新宿の暗闇が広がっていた。照明もネオンも落ちた夜の都心は、月明かりさえ届かない。ただ、ビル群の影が、漆黒の牙のように下からせり上がってくる。
――その輪郭が丈一郎には見えていた。網膜の裏側に、ビル群の形がくっきりと浮かぶ。《暗視》スキルが、視界の輪郭を描いていく。
視界の中央には――気を失ったまま落下していく恵理の姿があった。
「――チッ!」
丈一郎は空中で体をひねり、風を切って加速。すぐに恵理を両腕でしっかりと抱きしめた。
(ここまではいい。問題は……!)
地面はすぐそこだ。このまま落ちれば、ふたりまとめて地面に叩きつけられる。
――逃げ場は、あった。視界の端に見えた、中野坂上の高層ツインタワー。
丈一郎は、抱えた恵理を庇うように体を丸め、左足を伸ばして――ビルの壁面を狙う。
ドゴォッ!!
金属フレームに靴の底がぶつかり、鋭い音が響いた。反動で角度が変わり次のビルへ。さらに右足を突き出す。
ガッ!!
二度目の衝撃。速度がらさに落ち、街路樹に向けて斜めに落下する。だが、それでも減速しきれない。
(まだ足りねえ……!)
丈一郎は、即座に《収納》スキルを使い、スキルの限界距離下方3メートルの位置に取り出す。――毛布。ふわりと広がった毛布が、即座に二人を包む。その直下には――一本の街路樹。
バギャッ!!!
枝がしなる。葉が飛び散る。それでも完全には受け止めきれない。体はさらに下に落ち――
ズガァッ!!
地面へと叩きつけられた。
鈍い衝撃。一瞬、意識が飛びかける。
「ぐっ……!」
左足に走る、嫌な感触。同時に、落下時に恵理を庇うために伸ばしていた左腕からも、嫌なきしみ音。直感的にわかった。
(……骨、やったな)
衝撃で左足にヒビ、左腕は骨折。体中がズキズキと悲鳴を上げている。
それでも――
(……動ける)
丈一郎は、痛みをこらえながら《収納》を操作。取り出したのは、第三層で拾っていた木の枝と、ホテルから持ち出していた救急セット。枝を左足に当て、即席の添え木としてぐるぐると包帯を巻く。
「……よし、行くか」
恵理を右肩に背負い、立ち上がる。拠点まで、歩いても10分かからない。ゾンビが寄ってくるまでに急ぎ移動する。
(しかし……)
足を引きずりながら進みつつ、丈一郎は内心、苦笑していた。
(……数百メートルの高さから落ちて助かるとはな。マジで、ステータスの恩恵、計り知れねえわ)
そう思った次の瞬間。脳内に、ひとつのウィンドウが表示される。
《HPが1/3以下になりました》
《スキル《勇猛果敢》が発動可能です》
(おぉ……これは)
さっき手に入れたばかりのスキル。《体力減少時発動可能。全ステータス1.3倍》と説明があるが、HPをわざと削ることは難しい。実戦で使う前のいい機会だし試してみるか、と軽く意識を向ける。
次の瞬間、体の奥底から、静かに力が湧き上がった。全ステータスが引き上げられる感覚。筋肉の張り、神経の鋭さ、視界のクリアさ、すべてが一段階引き上げられた。何より――痛みが、薄い。
「……これ、いいな」
丈一郎は、走り出す。結果、5分もかからずに拠点のホテルにたどり着いた。
部屋のベッドへ恵理をそっと寝かせる。呼吸は浅い。額には玉のような汗。上着を脱がせると、左手の甲から始まった赤黒い浸食が、すでに肩まで広がっていた。
(……やばいな)
恵理は苦しそうにうなされていた。何か言葉をつぶやいているが、聞き取れない。丈一郎は、拳をぎゅっと握った。
(……助けるか、放っておくか)
正直、ヘリから飛び出した瞬間は考えていなかった。ただ、目の前で落ちていく人を見捨てるなんて無理だった。冷静になった今、この状況はあまりに重い。
(……たしか、舞は“恵理”って呼んでたな)
舞の同僚――きっと、職場での友達だったんだろう。けれど、丈一郎にとっては、名前も顔も今日初めて知った人だ。
(眷属転化……使えば、まだ助かる可能性はある)
スキルの説明を見返す。
▼《眷属転化》
噛みついた人間を感染させ、自身の“眷属”とする。
眷属になった対象は主の命令には従うが、自我を失わない。
また、眷属になった対象には自身のスキルを任意で譲渡可能。
ゾンビウイルスに感染している対象には、眷属因子を上書きするが可能。ただし完全にゾンビになった場合は不可。
眷属化できる人数は、自身のレベル10ごとに1人。
スキル説明を閉じ、恵理に視線を戻す。今の感染状況であれば…間に合う。ただ、初めて使うスキルだ。何が起こるか、リスクもわからない。
それに、眷属転化の枠は限られている。レベル10ごとに1人――つまり、慎重に使わなければならない大切なリソースだった。
(……知り合いでもない人に、使っていいのか?)
なにより、恵理本人の意思すら聞いていない。
(無理やり眷属化して……それでいいのか?)
悩む丈一郎の脳裏に、ふと浮かんだ。舞の顔だ。もし、恵理がこのまま死んだら、舞は絶対に自分を責めるだろう。彼女に自分を責めさせたくなかった。
……いや、それは言い訳だ。舞や恵理がどうこうではない。救える力があって、目の前に救える人がいるのに救わなければ、俺が後悔する。
(……結局自己満足だ。助けれるなら、助ける)
丈一郎は、静かに覚悟を決めた。後のことは後から考えればいい。今はただ、目の前の命を救う。ゆっくりと右手を伸ばし、恵理の冷たくなりかけた右肩に触れる。体温が、かすかに感じられた。そして、丈一郎は体を屈めて恵理の首元に優しく噛みついた。
《――眷属転化を実行します》
アナウンスが表示される。直後、恵理の体がうっすらと輝き出した。




