第19話 レフト・フォー・ザ・デッド:最後の犠牲者
コンクリートの粉と血の匂いが混ざる中で、丈一郎は静かにナイフを納めながら、丈一郎はひしゃげた腰に手をあてて、ふう、と息をついた。
(……大ごとになったな、こりゃ)
空気は騒がしいのに、頭の中は妙に静かだった。ゾンビの拳は重かったはずだが、体にはほとんど残っていない。《打撃耐性》スキルがあるおかげで、拳自体のダメージや痛みもほとんどなかった。
ただ、吹き飛んだ先でフェンスの根元に突き出ていた鉄筋――あれが当たってたら、さすがにヤバかった。スライム由来の耐性だ。試してはないが刺突や斬撃には耐性が効かない。
コンクリートから顔を出していた金属の角が、視界にあったのを覚えている。現にぶつかった際、頭は何かで切ってたみたいで血が出ている。
(運がよかっただけかもな……)
そんなことを考えていると、視界の右上――ずっと残っていたシステムウィンドウが、かすかに瞬いた。
《デミ・タイタン=ゾンビを捕食しますか?(Y/N)》
丈一郎はチラッと周囲を確認する。舞も、特戦群も、女医たちも、みんな上空のヘリに気を取られている。
(Y…っと)
ゾンビの巨体が、ゆっくりと淡い光に変わっていく。
(こういう時、演出が焦ったいな、はやくはやく!)
肉の塊が、煙のような光粒子になり、すべて丈一郎の胸元へと吸い込まれていった。
(ふう、大丈夫だ、みんなこっち見てない)
瞬間、システムウィンドウが怒涛の勢いで表示される。
《職業:戦士を習得しました》
《スキル:自己治癒 Lv1 を習得しました》
《スキル:戦士の初期スキル斧術Lv1、格闘術Lv1を習得しました》
《スキル:体当たりLvMAXが戦士スキル猛進LvMAXに変化しました》
《スキル:猛進がLv上限に達しました。上位スキル勇猛果敢に変化しました》
《スキル:レベル10に達したため戦士スキル挑発を取得しました》
(まてまてまてまて、情報多すぎる)
スキルの検証は後だななどと考えていると、背後から声がかかった。
「私は陸上自衛隊特殊作戦群所属の大島、今回の現場指揮官です。……先程はありがとうございました。正直、あなたが来なければ全員死んでいただろう」
「桐畑 丈一郎です。いえいえ、みなさんが粘ってくださったおかげで間に合いました。それに、大島さんほどの方から敬語使われると申し訳なくって。そんなかしこまった話し方しなくて大丈夫ですよ」
「うむ、私もあまり得意ではないので助かる。そうさせてもらおう。それで、君もダンジョンに?」
「ゾンビから逃げてたら地割れに巻き込まれて、落ちた先がダンジョンでした。
運良くモンスター倒したら、ウィンドウが出て……って感じです」
「……職業を教えてもらっても?」
「戦士です」
丈一郎は、そう言いながら脳内で隠蔽スキルを使い、盗賊の職業を隠す。
「戦士、か。その強さは一体?」
「ダンジョンでそのまま迷っちゃって。レベル上げしているうちに、という感じです」
「そうか。できれば一緒に基地に来て欲しいんだが、良いかな?」
「もちろん、というより、下があんな状況じゃ他の選択肢ないですけどね」
そういって、丈一郎は笑う。それにしても、最悪能力のことはバレるリスクも覚悟してたけど…あまり突っ込まれなかったな。
「君なら隣のビルにでも飛び移るか…いや、全てを相手にしても生き延びそうだな」
珍しく大島が冗談を言い、笑った。続けて質問する。
「そういえば、先ほどまでそこにあったゾンビの死体は?」
「あぁ、万が一でも動いたらまずいので、下に捨てましたよ」
「なるほど、助かる」
(…こんなに簡単に信じてもらえるとはな。まぁ、基地に行けばお偉いさんから色々聞かれるんだろうな)
ふと視線を感じて振り返ると、少し離れたところに舞が立っていた。着ているナース服は汚れ、髪にも埃が絡んでいる。それでも、何年経ってもすぐにわかる顔だった。丈一郎がゆっくりと近づくと、舞の方から口を開いた。
「……やっぱり丈一郎くん、なんだね。中学以来…かな。いつからゾンビと戦う人になったの?」
「いや、俺もびっくりしてるとこ。気づいたら、こんな感じになってた」
舞が笑った。丈一郎も小さく笑い返す。けれど、その胸の奥では、言葉にできないざわつきが続いていた。
(……まさかこんな再会になるとはな)
言いたいことは山ほどある。けれど、どれも口に出すにはタイミングが違いすぎる。それでも、今、目の前で無事な姿を見られただけで――
「……ほんと、間に合ってよかった」
「……うん。助けてくれてありがとう」
舞がそっと視線を落とす。表情は見えない。その肩に、ヘリのローター音が重なる。旋回しながら、UH-60Jの黒い機体が屋上に降下してくる。
風が強くなり、舞が顔を腕で覆う。丈一郎は咄嗟に彼女の肩を支えた。一瞬だけ、距離が近くなる。けれど、それもすぐに散る風の中にかき消された。
「乗ろう」
「うん」
舞は、他の避難者と共にヘリへ向かう。その途中、少し離れていた恵理に声をかける。
「恵理、行こう!大丈夫?」
「…うん、ありがと。なんだか気が抜けちゃって」
恵理は舞に気づいて笑ったが、どこか様子がおかしかった。額に汗がにじみ、表情も固い。丈一郎はその場から見ていただけだったが、妙に気になる仕草があった。
恵理は返事をしながら、左手を無意識に撫でていた。その手の甲には、フェンスに引っ掛けたのか、引っ掻き傷が見えた。
怪我をしている南雲、坂口が先に乗り、その後残っていた患者2名、女医、舞、恵理の順にヘリへ乗り込む。真壁、岸本、大島ら特戦群も配置につき、収容を手伝っている。丈一郎も最後尾に加わり、タラップを踏みしめる。
そのときだった。――階下から何かがうごめく気配。
(……来るな)
まだ遠い。けれど、気配察知が教えてくれている。ヘリの搭乗口から、真壁が声をかける。
「全員乗った!離陸を!」
パイロットが頷き、スロットルが開く。機体が揺れ、扉を閉めないまま宙へと浮かび上がる、その瞬間。
――ガラララッ!!!
非常階段の瓦礫を突き破り、無数のゾンビが飛び出してきた。あちこちから、叫び声。屋上を見上げるゾンビの目が、こちらを捉える。
「っぶな……!」
丈一郎は思わず声を漏らした。UH-60Jは、ローター音を響かせながら上昇し、新宿のビル群を越えて移動を始めている。かろうじて、間に合った。
同時に、特戦隊5名と丈一郎の頭にディスプレイが表示される。
《生存者14名を確認。おめでとうございます。
ミッションをクリアしました。
これより168時間、ダンジョンの拡大を停止します》
途端に抜ける緊張。丈一郎だけでなく、特戦隊のメンバーでさえ緊張が溶けた。ギリギリの戦いだった。そう思った矢先。横にいた舞の肩が、小さく震える。
「恵理、手、どうしたの?」
聞かれた恵理は、声を絞り出す。
「舞……ごめんね」
「……え?」
恵理は、そっと左手の甲を見せる。そこには――《《なにか》》に引っかかれた傷跡があった。赤黒く変色した皮膚。肘にかけて、不気味な暗い色が広がっている。
機内の全員の視線が集まる。そして一人あっと声をあげるものがいた。
「14名…」
岸本のその声に他の特戦隊メンバーが気がつく。先のヘリに乗ったのは、患者8名、看護師2名。このヘリに乗っているのは、患者2名、女医1名、看護師2名…。
「1人、数が合わない…か…」
大島のその言葉を聞いて恵理がつぶやく。
「…そっか」
俯く恵理の表情は見えない。誰もが…舞ですらかけるべき言葉を見つけられないでいた。丈一郎だけは、何かを考えるように俯いていた。
すると、恵理が皆に向けて顔を上げる。何かを覚悟した表情で。
「…助けていただきありがとうございました……せっかく助けていただいたんですが、私ここまでみたい。」
そう笑って、続けて舞に顔を寄せ、親友にだけ伝える言葉を遺す。
「…さっきの雰囲気でわかったよ。彼のこと好きなんでしょ? 私応援してるから! 頑張ってね!」
そう笑って、恵理は開かれたままの乗降口へと向かって飛び出す。
「恵理――!?」
舞が叫んだと同時に、恵理は迷いなく空中へ跳び出していった。
「先に向かっててくれ!」
叫んだのは、丈一郎だった。
直後――彼はヘリの乗降口を蹴り飛ばすようにして、真っ逆さまに飛び降りた。
「恵理!!!! 丈一郎くん!!!!」
舞の絶叫が、ヘリの回転音にかき消されながら――新宿の空にこだました。




