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第1話 ラスト・オブ・スヌーズ︰社畜、世界の終わりを寝過ごす

 目が覚めたら、午後一時すぎだった。


 桐畑丈一郎は、仰向けのまま天井を見つめる。布団に沈んだ背中が、ぐんにゃりとした眠気の名残を引きずっている。スマホの時計が、まるで無言の告知のように日付と時刻を表示していた。


 月曜日。午後1時12分。


(……うわ、マジか……今日で終わりかよ……)


 思わず、心の中で呻いた。


 10連休の最終日。あの地獄のような大型プロジェクトが終わって、上司の「しばらく顔見たくない」発言に乗じて堂々とぶちこんだ特別休暇。


 寝て、食って、寝て、ゲームして、また寝て。好き放題だらだら過ごして、気がつけば今日で10日目。明日からまた、通勤地獄と会議地獄が始まる。


「……マジで……何したっけ、この連休……」


 枕元のスマホを手に取ってみるも、当然ながら圏外。一昨日から、ずっとネットに繋がらないまま。


 格安SIMだからなのか、基地局がトラブってるのか、もはやどうでもよくなってきていた。


「まあ……たまにはこういうのもいいか」


 SNSも通知も広告も、なにより上司の電話もメールもチャットも一切届かない静寂。ヘッドホンを繋ぎ、仕事三昧でこれまでできずに積み上げていたゲームの世界に没入し、ひたすらやり込む幸せな日々。


 胃の奥から、にぶい訴えが響く。昨夜はレトルトカレーを食べたきり。おやつも尽きていて、冷蔵庫には麦茶とチョコレートだけ。


「まともに食事も摂らず、ちょっと没頭しすぎたな……あ、プリン食いてえ……あのとろけるやつ……」


 甘さと滑らかさと、あの絶妙なカラメルのほろ苦さ。想像しただけで唾液が湧いてきた。


 そういえば今日は月曜日。ジャンプの発売日でもある。普段なら電子版を買ってすぐ読んでいるが、ネットが使えない今はそれも無理。


「ジャンプ……買いにいくか……」


 ぼやくように呟いて、ようやく布団を這い出た。いつものパーカーにスウェットという、連休後半の制服のような格好。


 顔を洗い、髪を無造作に整え、スマホと財布と鍵をポケットに突っ込む。準備はわずか五分で完了。


 最後にもう一度、財布の中身を確認して、つぶやく。


「ジャンプ、プリン、おにぎり、ポテチ、カプヌ……

 ……あ、帰りに冷凍チャーハンと餃子も買っとくか……」


 そんなことを考えながら、サンダルをつっかけ、玄関の前で大きく伸びをする。


「はぁー……働きたくねぇー……このまま、世界滅びねぇかなー」


 なんて、現実逃避の呪文を吐いて――


 玄関のドアを開けた。


 熱のこもった部屋とは違い、外の空気はひんやりとしていた。マンションの共用部廊下に出ると、ふっと風が吹き抜ける。冬が終わり、春の始まりの季節。その狭間の匂いが鼻をかすめた。


「……今日、天気いいな」


 空は青く、雲ひとつない。なんだかいつもより空気が澄んでいる。それだけでもちょっと気分が良くなるから不思議だ。


 と、そのとき。丈一郎は、廊下の向こうに人影を見つけた。


「あっ……」


 視線の先にいたのは、同じ階に住んでいる山﨑さん。柔らかい雰囲気で、いつもゴミ出しの時や、すれ違うときに挨拶を交わす程度の距離感。ただそれだけの関係でも、丈一郎にとって、激務で溜まったストレスを癒してくれる…と勝手に感じている存在だった。朝、偶然顔を合わせて挨拶ができただけで、その日1日頑張れるのだ。


 今日はなぜか壁の方を向いてぼんやりと立っている。しかも、めずらしくスウェットにカーディガンを羽織ったラフな姿で、髪も乱れている。


(あれ……? この時間に?)


 思わず意識が向く。普段の彼女は、もっと早い時間に出かけるはずだ。平日の昼下がりに、同じタイミングで廊下にいるのは妙な偶然だった。


 丈一郎が部屋を出た瞬間振り返り、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってきた。


(……まさか、俺にわざわざ話しかけに――)


 妄想が、危険な方向に走る。だが、丈一郎はすぐに首を振った。


(ちがうちがうちがう。何勘違いしてんだ俺)


 たまたまだ。完全に偶然だ。たまたま同じマンションに住んでて、たまたま同じタイミングで出かけることだって、そりゃある。


(あー、まだ寝ぼけてんな)


 丈一郎は、あくまで自然体を装い、気がつかなかったかのように歩きつつ、エレベーターではなく、階段へと足を向けた。…なんとなく、エレベーターで一緒になるのが気まずかったからだ。


 階段を下りる足音が、やけに響く。


 エントランスへ向かう途中、後ろから同じような足音が重なって聞こえた。


(……あれ、ついてきてる)


 階段の踊り場に差しかかったところで、ちらりと後ろを振り向くと――


 彼女が、いた。


 乱れた前髪で顔は見えないが、ただ前を見て歩いている。でも、間違いなく“後をついてきている”ように見える距離と軌道。


(エレベーター……混んでるのかな?)


 丈一郎は視線を真っすぐに保ったまま、エントランスを抜けた。


 アスファルトの上をサンダルでペタペタと歩き出す。見慣れた住宅街。低層マンションと戸建てが並ぶ、静かな通り。


 でも、ふと気づく。


(……妙に、静かじゃね?)


 車の音がない。すれ違う人もいない。犬の鳴き声も、遠くから聞こえる工事音も――何もない。


「月曜の昼間なんて、こんなもんだっけ?」


 独り言のように呟いてみるが、自分でも違和感を拭えない。いつもなら、この時間帯はちょっとした生活音に囲まれているはずだ。


 ベランダで洗濯物を干す音とか、遠くで子どもが遊ぶ声とか、出前のバイクのエンジン音とか。


 でも今は、鳥の囀りと、遠くでサイレンが聞こえるだけ。


 それでも丈一郎は歩く。不安をかき消すように、頭の中で目的地の品を思い出す。


(ジャンプ、プリン、おにぎり、ポテチ、冷凍餃子……あとなんだっけ?)


 足取りを軽くするための“買い物リスト”を唱えながら、徒歩1分のコンビニに向かう。


 そして――目的地のコンビニが見えてきた。


 看板は灯っていて、ガラス戸も開いているように見える。でも、いつもと雰囲気が違う。


(……あれ? 営業してるよな?)


 店内には結構な数の客がいるようだが、入り口の自動ドアは開きっぱなし。


 レジに店員の姿はなく、陳列棚は荒れている。


(商品の入れ替え……とか?タイミング悪かったかな)


 そう思って足を止めた瞬間。今まで意識しないようにしていた、背後の“足音”がやけに近くに感じる。


「……?」


 ちらりと目線だけ後ろに向ける。さっきまで後ろを歩いていた彼女が、こっちに向かって無言で歩いてきていた。勘違いではない。明らかに、近づいてくる。


「……山﨑さん?」


 足を止めて振りかえろうとした、その瞬間――ふわりと両腕が広がった。


 そして。


「えっ……!?」


 ――背中から、抱きしめられた。ぎゅう、と強く。


「え? ちょ、え!? えええっ!?」


 一瞬、脳がパニックになった。だってこれはあれじゃないのか? 俗にいう“人生逆転イベント”ってやつじゃないのか?


 こんな形で始まる恋もあるのでは?もしかして、ずっと俺のこと……?


 だが、次の瞬間――鼻を刺す、腐臭。それがすべてを打ち消した。


「……うっ……な、なにこの匂い……?」


 あのいつも清潔感があって、すれ違うときにふわっと柔軟剤の匂いがしていた“憧れのお姉さん”から、今は、明らかに異常な、生ゴミのような、血生臭い、臭ってはいけない匂いが漂っていた。


 そして、ガブリ、と――肩に激痛が走った。


「いたっっっっっっっっ……!?」


 衝撃でよろけて、おもわず彼女の身体を突き飛ばす。彼女は地面に倒れ、羽織っていたカーディガンが落ちる。


「っ、いって……な、なにして……っ」


 見下ろすと、丈一郎の肩の服が裂け、肉が見える。血がじわりとにじみ、焼けるような痛みが脳に突き抜けた。


「ちょっ……え? え? 噛まれた? ほんとに?なんで?」


 混乱の中、肩の痛みに耐えながら、丈一郎は必死に呼吸を整える。


(痛い痛い痛い痛い、なんだこれ、意味がわかんない……山﨑さんに噛まれた? なんで?)


 痛みに汗が吹き出し、意識がぐらぐら揺れる。脳が現実を拒みながら、同時に情報をかき集めようとする。そのとき、視界の端で――彼女が、むくりと起き上がった。


「……え……?」


 動きが、明らかにおかしい。頭を垂れたまま、関節の軋むような動作で立ち上がる。その右腕は赤黒くなって腫れており、血が滲んだ跡がみえる。カーディガンの下に隠れていたTシャツや肌着はなにかに引きちぎられたかのように破れており、胸元がはだけて…血の気を失った青白い肌が露出している。

 表情はまるで人形のように無表情。瞳は濁りきって、焦点がどこにも合っていない。その姿は、もう“人間”ではなかった。そう――まるで、映画で何度も見た…


「…ゾンビ」


 非現実の代名詞だったはずの単語が、今、目の前の現実とリンクしていく。


「……そんなバカな……ゾンビ……なわけないだろ……」


 そう思いながら、目を上げた。そして、店の中を見た。コンビニのガラス越しに、見えた。


 人。いや、“人だった何か”。


 無数のゾンビたちが、棚の間をゆらゆらと歩いていた。血まみれの手。引きちぎられた腕。肉片を口に押し込む、どす黒い影。床には倒れた客。その腹の上にまたがり、何かをむさぼっている影。丈一郎の思考は、急転直下で結論に至った。


「……ヤバい。死ぬ」


 背筋が凍った。


 逃げなきゃ、という思考が全身を貫く。肩の痛みを無視して、反射的に駆け出した。


「だれか…!誰か助けて……!」


 コンビニから必死に逃げた先は、地獄だった。


 道路には放置された車や自転車が散乱し、通り沿いのビルはガラスが割れている。至る所に、人の影のようなものが倒れており、ゾンビやカラスに囲まれている。建物の中も、歩くゾンビの姿がちらほらと見えた。通りにいるいくつかのゾンビは、こっちに気がついて…向かってきている。


 心臓がバクバクと跳ねている。息が荒い。視界が揺れる。でも、止まったら――終わりだ。大通りまで出れば、病院があったはず……だけどこの状況では…


 肩の痛みが悪化している。肩を中心に帯びていた熱は、背中や頭にも広がっている。


(これ……感染……してるのか?)


 頭の中が、真っ白になる。その瞬間。ズズズッ……という轟音が足元から響いた。


「地震っ……!?」


 道路にヒビが走った。ビリビリと地面が震え、舗装が裂けゾンビたちが落ちていく。


「やっべ――」


 一歩後ろに下がろうとした瞬間、崩れたアスファルトに足を取られた。そして――視界が反転した。


「ぇああああああああぁぁぁっ!」


 黒い裂け目の奥、何も見えない暗闇の中へ――丈一郎の身体が吸い込まれていく。

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