第18話 ナイト・オブ・ザ・ミッシング・ヘッド:決着
屋上の空気が変わる。
ナイフをゾンビから抜き取り、片手で動かなくなったゾンビを持ち上げ、屋上から軽々と投げ捨てる男――桐畑丈一郎。パーカーの肩は裂け、ところどころ埃まみれ。だが、その姿勢は妙に落ち着いていた。
丈一郎は、階段の残骸を見ると、誰に話すでもなく、ぼそりと呟く。
「……とりあえず、追加はしばらく登ってこれねぇだろ」
大型ゾンビすら、その場を動かず丈一郎を目で追っていた。だが、その場にいた誰一人として、さっき何が起きたのかを正確に説明できる者はいなかった。
「………丈一郎くん……?」
その名を呼んだのは、舞だった。あまりの光景に固まっていた体を無理やり呼び戻し、ようやく声が出た。
「……無事でよかった」
丈一郎は大型ゾンビを警戒しながら一言だけ返す。恵理が振り返り、驚いた表情で問いかける。
「……知り合い?」
舞は小さく頷いた。視線の先から目を離せないまま。
「中学まで、一緒の学校だったの。いつもやる気なさそうだったけど、困ってたら、黙って助けてくれるような人で……」
そう、そこに立っているのは確かに“丈一郎”だった。けれど、目の前の彼は――20体はいたであろうゾンビを、10メートル以上吹き飛ばしていた。そして、おそらく非常階段が崩れたのも、彼が何かをやったのだろう。
丈一郎は、舞の方に目をやったあと、すぐに大型ゾンビに向かってあるきだす。先ほどゾンビから回収した、刃渡り30センチほどのナイフを構える。
「……お前、強そうだな」
大型ゾンビが丈一郎に向かって咆哮を上げる。
ガアアアアアアァッッ!!
地面が揺れた。瓦礫が跳ねる。
一歩。二歩――巨体が唸るような速度で突っ込んでくる。
丈一郎はその動きに、まったく動じなかった。踏み込みの直前、刃がわずかに右へ傾く。次の瞬間。
シャッ――!!
大型ゾンビの突き出した右腕をぎりぎりの間合いで交わす。その脇腹――ちょうど肋骨の間を、ナイフが滑るように走った。
ズッ……!
皮膚が裂け、肉が削ぎ落ちる。だが、すぐさま背後からの反撃。ゾンビが腰をひねり、棍棒を横薙ぎに振る――
ドン!!
――届かない。丈一郎は一瞬、地面を踏み鳴らすように反動をかけ、半身をずらす。
次の一撃。左足を踏み込んで、太腿の外側にナイフを滑らせる。
ジュッ……!!
蒸気のように血が吹き出す。だが、傷口が――再び塞がる。斬られたはずの部位が、まるで巻き戻すように肉を盛り返していく。
「お前はゾンビと違ってちゃんと俺を狙ってくるのか。…なんだか、まだ人間なんだなって安心できるな。
……それに再生能力か。やっぱ、首飛ばさないとダメか」
丈一郎は呟くと、肩の力を抜いたように息を整える。直後、再び両者が動いた。ゾンビが殴りかかる。丈一郎が踏み込み、刃をゾンビの腹に滑らせた瞬間、ゾンビのもう片方の拳が、ナイフごと、丈一郎の腹部をぶん殴った。
ドガァッ!!!
衝撃音と共に、丈一郎の体が横に吹っ飛ぶ。屋上のフェンスに叩きつけられ、根元から“くの字”にひしゃげる。
「――ッ!」
思わず舞が叫びかけた瞬間、
丈一郎は、血を吐きながらも、涼しい顔でフェンスを押し戻して立ち上がっていた。
「……40か、結構くらったな……」
頭から血が流れている。あちこち服も破れているが、受けたであろうダメージに対して、まるで意にしないかのような気軽さだった。だが――その目にはまったく曇りがなかった。
その様子を、後方で見ていた大島諒は、思わず呟いていた。
「……俺たちが相手にしていたあの動き、あれは……」
刀の柄を握ったまま、唇を噛む。
「あいつ、本気を出してなかったのか……? 俺たちは……遊ばれてたってのか……?」
大島の呟きは、誰にも届かなかった。届く前に、戦場がその意味を証明し始めていた。
目の前の大型ゾンビ――攻撃のスピード、威力、そして殺意。すべてが、先ほどまで自分たちが相手にしていたそれとは次元が違う。
だが、それを前にしても――丈一郎は退かなかった。
ゾンビは再び唸りを上げ突進し、丈一郎も、今度は笑いながら踏み込む。
互いに傷を負いながら、何度も交錯する。丈一郎のナイフが肉を裂き、ゾンビの拳が風を切る。まるで、殺し合いの舞踏だ。
やがて、わずかに距離ができた刹那。丈一郎は右手のナイフを逆手に握り直し、静かに沈み込む。
無防備にもまっすぐ突っ込み、案の定ゾンビの拳が繰り出され…突然溶けた。拳が届く寸前の所で、丈一郎が収納内に溜め込んでいた、溶解液スキルを発動したのだ。丈一郎はナイフを胸元で構え、そのま喉元へ向かって跳び込んだ。
ガシュッ!!!
ナイフの刃が、ゾンビの咽喉を深々と貫いた。
「これで終わりだ!!!」
《体当たり》Lv.MAX――発動。
ドゴォォォォン!!!
喉元に集中した衝撃。骨が砕け、首がねじれ、――ゾンビの首が、空を裂きながら、血の軌道を描いて、フェンスを越え、病院裏の駐車場に消えていく。
重たい音と、沈黙。砂煙が上がると、階段外壁のコンクリートにめり込んだ巨体と、その前に立つ丈一郎が見えた。
丈一郎は息を整えると、ナイフを引き抜き、血を振り払って笑う。
「……っし!なんとかなって良かった。経験値もらえるダンジョン内なら結構レベルあがりそ……って、え、捕食!?」
突然、声が裏返る。丈一郎が思わず顔をしかめ、ナイフを腰に戻しながらぶつぶつと呟く。
「え、ダンジョン外でも…っちはいけるの? マジ……? みんな……るしな…」
傍から見ていた者たち――特戦群の3人も、舞も、恵理も、女医も、誰もが何を言っているのか理解できなかった。けれど、異様なほど“気負いのない”その背中に、言葉が出なかった。何者だ、この男は――そう思いながら、誰もがただ見ていた。
――そのとき。ローター音が近づいてくる。風が巻き上がる。上空に、救援のヘリコプターの影が見えた。太陽が雲の隙間から、わずかに差し込む。
破壊された病院屋上――その戦場の終わりを、ようやく告げる風だった。