第15話 ナイトメア・ステア︰階段を駆け上がるもの
パンデミック発生から10日目。
舞と恵理との再会から、丸一日が経っていた。わずかな食料を分け合いながら、残された者たちは寄り添い合い、静かに、生きていた。
ここには、子供もいた。思うように身体の動かない患者もいた。舞も恵理も、できる限りのケアを施した。限られた物資と時間の中で、それぞれの役割を持ち寄り、なんとか“日常の風景”を保とうとしていた。
泣き出す子供に、絵を描いてあげた事務員の女性。声の小さな患者に、水を運んだ看護師。医療者でなくとも、全員が“ここに居る意味”を支え合っていた。
午後4時32分。
カフェテリアの空気は、静かだった。今日も何事もなく終わる――そう思っていた、そのとき。
――ふっ、と。
まるで誰かが心臓をわしづかみにしたかのように、舞の胸を不意に不安が走った。息が詰まるような、理由のない圧迫感。
「……?」
何かがおかしい。その瞬間、非常口側から足音が近づく。
「恵理さん……!」
巡回に出ていた恵理が、休憩室へ駆け戻ってきた。目はわずかに見開かれ、言葉を探すように荒い息を吐いている。
「……なにか、走って来る」
その言葉に、大人も子供も一斉に顔を上げた。室内の空気が、張り詰めていく。恵理が戻ってきたことだけで、全員が“異変”を感じ取ったのだ。
そして――
カンカンカンカンカンカンカン……!!
階段を叩く、爆発的な足音。一気に空気が凍りついた。誰かが駆け上がってくる。しかも、早い。
「助けが……!」
女性事務員が声を上げた。目を潤ませ、口元がほころぶ。
「助けが来たのよ……! きっと自衛隊か、救助隊……!」
安堵の声が広がる。疲れ果てた人々の中に、一瞬で歓喜の色が差し込む。だが――
「待って!」
舞が声を張り上げた。
「おかしい……警戒もしないで走ってる……速すぎる!」
「でも感染した人……ゾンビは走らなかったはずよ!」
もう一人の看護師が、震える声で言った。その言葉に、室内の空気がまた緩くなる。ゾンビなんかではない、ゾンビは走らない。これは助けだ。…そう安堵したいかのように。
表面上、励まし合ってきたが…10日間の日々で彼女たちの心は限界を超えていた。一部人の心は、もう壊れていた。
「……ここ、ここに気づいてもらわなきゃ……!」
女性事務員が、すがるような目でそう言うと、呼び止める間もなく、階段へと走り出した。明らかにパニックになっている。
「待って! やめて、戻って!」
舞と恵理が同時に叫ぶ。だが、彼女はすでに扉を開け、階段へと消えていった。その後ろ姿が、必死だった。生き延びるためというより、“信じたい”という一心だった。
そして――
「ひいいいいいいいっっっ!!!!!!」
叫び声が、階段の奥から響いた。まるで命の限界を訴えるような、絶望の悲鳴だった。一瞬、誰も動けなかった。
「……嘘……やだ……」
次の瞬間、
カンカンカンカンカンカンカンカンカン……!!
音が、さらに駆け上がってくる。
一体じゃない。ふたつ、みっつ、十、二十――五十を超えるであろう足音が――階段を這い上がってくる。
悲鳴の余韻がかき消されるほどの轟音。押し寄せる絶望。舞は、拳を強く握りしめた。
「打ち合わせ通り、職員エリアの非常階段から…屋上に逃げましょう……!」
叫びと同時に、舞たちは動き出した。
職員エリア側の非常階段――女医は、患者たちを誘導していた。
「こっちです、大丈夫、落ち着いてくださいね」
彼女の声に背中を押されるように、足元の覚束ない老女が手すりを頼りに必死で階段を登っていく。全員、息を詰めながら、ただひたすらに“上”を目指していた。女性看護師は、子供たちの手を引きながら階段を登っていく。
その頃――舞と恵理は、職員エリアからカフェテリアとつながる通路へと駆けていた。そこには、物資の調達や巡回のために最低限のスペースを残して組まれた、簡易バリケードがある。
「タイミングを合わせて、「せーのっ…!」」
恵理が頷き、二人でタイミングをあわせてソファを押し込む。錆びた音とともに、バリケードの隙間が塞がれていく。数分とかからなかったが、それでも、背後から迫る足音は確実に近づいていた。
「よし、これでしばらく時間は稼げるわね」
「合流しましょう!」
二人は息を合わせ、踵を返して駆け出す。非常階段に到着する頃、女医たちのグループはすでに屋上に出ていた。
――そこに、低くうなるような音が重なった。
「……ヘリの音!?」
誰かが叫ぶ。
ビルの屋上に近づく黒い影。機体側面には「陸上自衛隊」の文字。ローターの風が埃と紙屑を巻き上げ、全員の目に希望の光が差し込んだ。
「……来た……来たんだ、本当に……!」
女医の声が震えていた。誰もが、それを“奇跡”と信じたかった。舞と恵理も屋上へと飛び出し、風圧に目を細めながら、患者たちをひとりひとり、確かに見守った。
だが、歓喜の一方で、階下には確実に“それ”が迫っている。
* * *
ヘリポートに自衛隊機が着陸してしばらくした頃。
11階、職員通路に築かれたバリケードには、五十体を超えるゾンビが群がっていた。扉を引き裂こうとする者。鉄枠を噛み砕こうとする者。狂気の群れが、わずかな隙間に牙を突き立てていた。そのときだった。
ドォンッ!!!
鈍く低い爆音。まるで空気ごと揺らす衝撃が、建物に響き渡った。
バリケードが、ゾンビごと吹き飛ぶ。破片と肉片が舞い上がり、粉塵が廊下を包む。その灰色の霧の向こうから、何かが姿を現した。
――天井に届くほどの巨体。異常に膨れ上がった筋肉。皮膚は裂け、内圧で脈打ち、血の泡を吹いている。群れとは明らかに違う、別種の“ゾンビ”。それは、言葉にならぬ圧を放ちながら、一歩、また一歩と足を踏み出してきた――。