第13話 デッド・ウォード︰死と再会
舞は、一歩ずつ、闇の中に足を踏み入れていった。
わずかな非常灯の残光も届かないその廊下は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。埃っぽい空気。誰かの足音すら記憶に残っていないほど、完全な沈黙。進んでいく先には、職員向けの休憩室、調理場、倉庫など、カフェテリアの裏方スペースが続いていた。
舞は、その中のひとつ――調理場に入った。扉は半開きで、冷気の残らない冷蔵庫がぽっかりと開いたままになっていた。中には倒れたボトルと乾燥した野菜の切れ端。床には割れた皿の破片が散らばり、滑らないよう足元に気を配りながら進む。
作業台は荒れ果てていた。何かを切ったまま放り出されたような包丁が、まな板の上にそのまま置かれている。食材の姿はもうない。ただ、赤黒い染みだけが残されていた。
「……ここで何が……」
誰かがここで“最後の調理”をしようとしたのか、それとも別の用途で使われたのか――想像するには十分な、ただし明確ではない、痕跡。
そのとき――
カタン
金属の小さな音が、背後で響いた。瞬間、舞の背筋に冷たい何かが走った。
(……いまのは、何?)
音の方向に誰も見えない。けれど、確かに“何か”が動いた気配があった。ゆっくりと、作業台に置かれていた包丁に手を伸ばす。冷たい金属の柄が、掌にしっかりと触れる。
(落ち着いて。大丈夫、私は……)
呼吸を整える。手の震えを押さえつける。そして、ゆっくりと体を回し、音のした方へ――
「……舞?」
その声は、あまりにも突然で、けれど、耳が覚えている声だった。一瞬、心臓が止まるような錯覚ののちに、舞は、震えるようにその声の主を見た。
調理場の入り口。そこに――恵理が、立っていた。乱れた髪。ほこりにまみれたナース服。手には小さなLEDライト。
「……舞、なの……?」
彼女の声もまた、震えていた。信じられない、でも、そうであってほしい――そんな、切実な声。舞は、返事のかわりに包丁をゆっくりと置き、息を吐いた。そして、かすれた声で一言だけ。
「……会えて、よかった」
照明のない調理場に、ふたりの影が重なった。沈黙と絶望の先に、確かに“再会”の灯がともった瞬間だった。安心と共に舞の膝が折れた。恵理もまたその場にしゃがみこむようにして、彼女の手を握った。
「……舞……ごめん……ほんとに……ごめんね……っ」
「……よかった……生きてて……っ……恵理さん……っ」
そこから先は、言葉にならなかった。声にならない息が詰まり、涙が止まらなかった。顔を伏せて、肩を揺らして、ただ静かに泣いた。お互い1分ほど泣いた後、顔を合わせて笑った。
恵理が、涙をぬぐいながら、表情を戻す。そこから、絞り出すように語り始めた。
「……あのあと……舞が眠ってる間、こっちは……地獄だった」
低い声。感情を抑えるように、整えながら。
「電気は……完全に切れたの。生命維持も、モニターも、全部」
「……」
「何人も、静かに……力が尽きていった。最後まで、看取れなかった人もいる」
「……」
「それでも、6日目の朝には、なんとか18人が生きてたの。……希望があった。きっと助けが来るって、みんな思ってた」
そこで、恵理は一度目を伏せ、口を引き結んだ。
「――でも、その夜、ゾンビが来たの。30体近く」
舞は言葉を失った。想像すらしたくない光景が頭をかすめる。そして気がついた。5階の痕跡…5階にいたゾンビも上に向かったんだということ。
「最初に動いたのは、今年から赴任した若い男性医師だった。名前も、もうちゃんとは覚えてない……」
「……」
「彼が、自分から飛び出して、おとりになって……10体くらいをベランダに誘導して、そのまま……落ちていった」
「そんな……」
「……その隙に…精一杯だった。患者さんのご遺体を、囮にしたの。……私たちがやった。そうするしか…なかった」
言い終えたあと、恵理は唇を噛んだ。
「そのご遺体に群がったゾンビを、警備員のおじさんが刺股で押さえたの。その間に、もう一人の男性医師が……消火器で、頭を潰して回って……」
「……えりさん……」
「二人とも、噛まれたのに、戦って……笑って……最後、ベランダから、飛び降りていった」
その言葉の最後だけ、震えていた。
「……ごめんね、舞。ひとりにして……」
舞は、黙って首を横に振った。責める言葉など、出てこなかった。
「今、生き残ってるのは15人。女性の医師が1人。私を含めたナースが3人。女性の事務員が1人、あとは患者さんが10人。舞を入れたら16人ね」
「みんな、まだ……ここに?」
「ええ。今は……職員エリアの奥。2つの職員用休憩室に分かれてる。バリケードを作っても破られるし、他のフロアから物資を取ってくる必要もあるかもしれないから、最低限のバリケードを用意して、あとはすぐ逃げられるようにして交代で外を見張ってる」
「恵理さんは、見張り……?」
「……ううん。今日は私が休憩番。だから、こうしてここに来てたの。舞がもどってこないかって……」
「……ありがとう。私のこと、諦めないでくれて」
そう言った舞の声は、わずかに震えていたが、力があった。恵理は、その手をぎゅっと握り返した。
「おかえり、舞。ほんとうに……おかえり」