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第12話 5日後…︰消えた気配

 あれから――さらに3日が経った。

 有村恵理は、11階のレストランにいた。病院内では最上階にあたるこの場所は、元々職員や入院患者向けのカフェテリアだった。広く、天井が高く、窓も多い。だが今は、非常灯さえ点かなくなった空間で、冷えた空気と重たい沈黙が漂っていた。

 電源は一昨日、完全に落ちた。非常用電源も限界を超え、医療機器は全て停止した。そのとき、何名かの患者が――文字通り“生命維持”の手段を断たれ、静かに息を引き取った。

 誰も責めることはできなかった。あの人たちは、戦った。最後の瞬間まで、恐怖に耐えながら。


(……ごめんなさい)


 そのたびに、恵理は心の中で何度も謝った。それでも、なお――守り切れなかった命があった。


 この3日、他にも事件があった。あの若い看護師。小柄で、笑顔の可愛い子だった。噛まれていたことを隠し、「大丈夫、風邪みたい」と笑っていた。異変に気づいたときには遅かった。気丈に振る舞っていたぶん、誰も疑わなかった。そして、彼女に最も近くにいた人が、犠牲になった。

 あのときの血の匂い、悲鳴、崩れ落ちる姿。今でも恵理の耳にこびりついて離れない。


「こんなに、脆いんだな……人間って」


 ぽつりと呟いた声に、誰も反応はしなかった。今、このフロアにいるのは20人を切っていた。全員が無言で、壁にもたれ、眠ったふりをしながら目を開けていた。


 昨日はある医師が、泣きながら病院を出て行った。「自分は医者として失格だ」と言いながら。家族が心配で、どうしても会いたいと――。誰も止めなかった。ただ祈った。


(あの人が、無事に家族に会えていますように)


 だが現実は、無慈悲だ。この病院の外に、安息の地など残っているのかも分からない。それでも、出て行く者を誰も責められなかった。人間である限り、守りたいものはある。逃げたいと思うことだって、当然だ。


 恵理は、レストランの窓際に腰を下ろし、ひざに抱えたブランケットの隙間から、眼下にせり出している下層階の屋根をじっと見つめていた。


 5階。そこに、彼女は置いてきた。


(舞……)


 もう、3日。目を覚ましただろうか。目覚めて、自分の名前を呼んだだろうか。きっと今はゾンビたちが徘徊するフロア。閉め切られた病室で、光のない天井を見上げながら、ひとりきりで。


「……お願いだから、生きててよ」


 声に出した瞬間、涙がにじんだ。今の恵理には、もうできることが少なすぎる。もしも舞がまだ動けずにいたら――もう、点滴は切れているはずだった。それでも、恵理は信じていた。


(舞は、あのとき何度もみんなを支えた。私よりもずっと、しっかりしてた。きっと、絶対、目を覚まして……)


 だから、信じたい。彼女は、あの病室のベッドから、必ず起き上がる。そしてまた、誰かを救おうとするんだと。


「……次は、私があなたを迎えに行く番だよ」


 ぽつりと、そう呟いたとき。誰かがレストランのドアを開けた。音に反応して、一同がわずかに顔を上げた。

 けれど、それは新しい救いではなかった。ただ、もうひとつの“現実”がまた一歩近づいてきたという合図だった。ドアを開けた、見回り中の男性医師が声を絞り出した。


「…まずい……あいつらが、登ってきてる」


 薄暗い非常階段の先で――扉が開き何かが這い上がってくる音がした。



*  *  *



 5階の個室病棟。恵理が去ってから、もうすぐ5日になろうとしていた頃――


 闇。……いや、まぶたの裏にうっすらと滲む光があった。

 光――それは、病室のカーテン越しに射す、色のない白。

 七瀬舞は、目を開けた。


 それがいつぶりのことなのか、彼女自身にもわからなかった。意識は重く、泥の底から引き上げられるような鈍さで、身体の感覚がひとつずつ戻ってくる。

 天井。白いはずのそれは、灰色に濁っていた。どこかすすけて見えるのは、照明の加減か、それとも自身の目のせいか。

 唇が、張りついていた。開こうとした瞬間、喉が焼けるように痛む。何かを訴えようとしても、声にならない。


「……っ」


 かすれた空気だけが喉をかき乱す。右手を動かすと、引っ張られる感触があった。見れば、点滴。だが液はもう尽き、チューブの中には何も流れていなかった。皮膚に貼りついたテープは変色し、時間の経過を雄弁に語っている。


(……私……いつからここで寝てたの?)


 彼女は、ゆっくりと、ベッドの縁に手をかける。体を起こすと、腹部に鈍い痛み。熱の残滓。筋肉のこわばり。すべてが「長い眠り」の証だった。

 そして――“音”が、ない。耳を澄ませても、何も聞こえない。点滴ポンプの電子音も、誰かの足音も、気配も。院内で当たり前にあった生活の「環境音」が、まるで初めから存在しなかったかのように、完全に消えていた。


(……なに、この静けさ……)


 ベッドを降りた。素足が床に触れた瞬間、冷たさが足首を駆け上がる。その感覚だけが、唯一の“現実”だった。

 ふらつきながらも扉ある突っ張り棒をどけて開く。廊下に出た。カルテが散乱していた。ストレッチャーが横倒しになっていた。床には血を引きずって歩いた跡が複数ある。


「……なにが……あったの……」


 舞の声は、誰にも届かなかった。ナースステーションに向かう。


「……すみません、誰か……誰かいますか……」


 返事は、ない。何度呼んでも、何度声を張っても、廊下には舞の声だけが吸い込まれていった。モニターの画面は消え、電話のランプは沈黙していた。


 そして彼女は、思い出した。


 ここは――もう、“生きた病院”ではない。誰もいない。自分しか、いない。


「……え…り……さん」


 ぽつりと、友の名を呟いた。とたんに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 本当に、誰もいないのだろうか。逃げられたなら…きっと上の階。彼女は、一歩、足を前に出した。


 舞は、個室病棟に残されていたわずかなクラッカーと水のボトルを口にした。湿り気を失ったビスケットは口の中でざらつき、飲み込むのに時間がかかったが、それでも胃に何かが入ったことで、ほんのわずかに体が温かさを取り戻した気がした。脱力した身体を引きずるようにして、室内の棚を開けると、清潔な衣類がひとまとめに畳まれていた。


 それは、自分のナース服だった。――有村恵理が、畳んで残してくれたのだとすぐにわかった。


 ネームプレートを覆うように軽くかけられたハンカチ。汗を拭くためのシートとタオル。その丁寧な仕草が、彼女の気配を感じさせた。


(ありがとう……)


 病衣のボタンを外すと、身体の節々がひやりと空気に晒された。汗で張りついた布地が肌を離れる感覚が、不思議と現実を引き戻してくる。

 下着は替えがなかった。そのことに気づいた瞬間、舞はふと顔をしかめたが、すぐに目を閉じて静かに息を吐いた。


「……贅沢、言ってる状況じゃないよね」


 手早く、身体をタオルで拭き取り、ナース服を直接身にまとう。乱れた髪をヘアゴムで纏める。ナース服の感触は、かつての日常を思い出させるものだった。――けれど、もうその日常は、どこにもない。

 着替えを終えると、鏡に自分の姿を映して確認する。目の下にはうっすらとクマがあり、顔色は青白いままだった。それでも、服を整えたことで、わずかに“自分”を取り戻せた気がした。

 七瀬舞は、ゆっくりと息を吸い、背筋を伸ばした。


(……行かなきゃ)


 まだふらつく足を引きずりながら、彼女は5階の非常階段を上へと登っていった。途中、各階のドアはすべて閉ざされ、無理にこじ開けようとした痕跡もなかった。誰かが、上へ上へと逃れようとしたことだけが伝わってくる。


 そして──11階。病院最上階にあたるそのフロアの扉。


『HELP!!生存者あり』


 マジックでかかれた殴りがきがあった。文字がかすれている。意を決して扉を開ける。カラン。何かが落ちる音。それ以外は静かだった。

 だが、扉の隙間から漏れる空気は、何かが“終わった”あとの匂いがした。舞は、息を殺してその隙間に指をかける。


 ギィ……


 小さく軋む音とともに、扉が開いた。そこは、かつて職員や患者が憩いの時間を過ごしたカフェテリア――の、残骸だった。床には毛布がいくつも散らばっていた。脱ぎ捨てられたようなものもあれば、何かをくるんでいるように見えるものもある。そのいくつかは、赤黒く染まっていた。

 壊れた椅子。食べかけのレトルトパック。乾ききった食器と、黒く固まりつつある液体。そして気がつく――


「……っ……」


 声にならない吐息が漏れた。毛布で包まれていたのは、“遺体”だった。それも、ただ静かに亡くなっただけではない。胴が裂け、腹部からは中のものが引きずりだされている。明らかに、“食われた跡”。その周りには倒れたままの“それ”らが、床に転がっていた。皮膚の色が灰色にくすみ、目は濁り、口元には血のこびりついた跡。頭を砕かれ、すでに活動を停止して久しいゾンビの“残骸”が、20体以上。

 激しい戦闘があったのだと、誰に教えられるでもなく、理解できた。


(……ここで……何が……)


 人の気配は、ない。生きている気配も、死にきれていない気配すらも。ただ、血と、闘いの名残だけが、このフロアに残されていた。


「……恵理さん……?」


 名前を呼ぶ。でも返事は、ない。誰も、応えてはくれなかった。そのとき、舞の目に、カフェの奥――従業員エリア、キッチンやバックヤードへ続く扉が映った。

 ドアの前には、テーブルや備品ラックなどで組まれていたと思しきバリケードがある。中央に人ひとりがようやく通れるほどの隙間が空いていた。


 向こう側へ続く、廊下。きっと、誰かが“逃げた先”。舞は足を踏み出した。慎重に、気配を探るように、一歩ずつ。

 照明は点いておらず、奥は闇の中。それでも、彼女は進むしかなかった。


(恵理が、この先にいるかもしれない。)


その一縷の想いだけが、彼女の背を押していた。

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― 新着の感想 ―
めちゃくちゃドキドキするぅ
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