第11話 ゾンビ・ホスピタル︰大学病院、パンデミックの始まり
新宿大学病院のナースステーションは、夕暮れの陽が差し込むなか、静かな活気に包まれていた。
「おつかれさまです、夜勤入ります!」
明るく張った声とともに、更衣室から七瀬舞が姿を現した。仕事用に後ろでひとつにまとめたセミロングの髪は艶やかに揺れ、白衣の裾を指先できゅっと整える仕草もどこか絵になる。清潔感のあるその佇まいと、柔らかく華やかな顔立ちは、院内でもひそかに“癒しの天使”と囁かれるほどで、かつて学生時代にはクラスの人気者でもあった。
「おつかれ、舞。今日もよろしくね」
声をかけたのは、同期の看護師・有村恵理。大きな瞳と自然な笑顔が印象的で、きりっとしたショートヘアが凛とした雰囲気を際立たせている。患者からもスタッフからも信頼されるしっかり者で、舞とは対照的な美しさで、並んで歩けば思わず振り返る者も多い。
「うん、今日も平和だといいけど……。恵理さん、夜勤の前にコーヒー買いに行くけどどう?」
「もちろん。ってか、今日も患者さんに『あの子、今日も来るの?』って聞かれたよ。ファンが増えてるよ~?」
「やめてよ……からかうの。ほら、いこ」
病棟内の職員ラウンジ。備え付けられた自販機コーナーでそれぞれコーヒーを買う。コーヒーを片手にナースステーションへ戻る途中、恵理がぽつりと口を開いた。
「昨日さ、“ゾンビ・ホスピタル”っていう映画、観たんだけどさ」
「……ゾンビもの?」
「って思うでしょ? でも違うのよ、あれ。邦題が完全に詐欺」
舞が眉をひそめると、恵理は肩をすくめて言った。
「実際はね、狂った医者が人体実験して患者が凶暴化する話。ゾンビっていうより、知能が残ってる分もっとタチ悪いの。普通に喋るし発狂するし」
「うわ……それ、ゾンビより怖くない……?」
「そうなの! しかもね、ピーター・ストーメアが院長役って時点で怪しさ満点なんだけど、あの人が患者に人体実験するの。目に針突き刺すとか」
「ちょ、待って待って! なんでそんなの夜に観ようと思ったの……」
「いや、B級ホラー好きとしてはね、こういう地雷くさいのを掘り当てるのがまた楽しいのよ……。でもこれはホントやばかった……」
「そんなの観た後でこの病棟歩けるの、恵理さんぐらいだよ」
「ちょっと後悔してる…」
それでも恵理は最後に「でもなんだかんだオチも含めておもしろかったけどね」と笑った。明るいナースステーションの灯りの下、いつもの笑い声が響いていた。
だが、それは“いつもの夜”の、ほんの手前。病棟に広がる静寂の奥では、まだ誰も気づかぬまま、非日常がゆっくりと目を覚まそうとしていた。
それは、夜勤が始まって三時間ほど経った頃だった。院内に異変が走ったのは、突如響いた悲鳴の直後。
「……! 今の、階下から?」
「待って、これ非常ベルじゃないよね……」
廊下の先、エレベーターの向こう――1階救急外来のフロアから、断続的に何かが割れる音、叫び声、そして金属が叩きつけられるような異音が響いてきた。
「……何か起きてる、下で」
舞と恵理が顔を見合わせたその瞬間、病院の無線が激しくノイズ混じりに鳴った。
『こちら……救急……運び込まれた患者が複数…………襲っ――』
そこで通信は途絶えた。
「嘘……襲うって、誰が誰を?」
そのときだった。職員用エレベーターのランプが点滅し、扉が「チン」と開いた。そこにいたのは――夜間勤務の担当医師だった。目の焦点があっていない。
「あ、あの……!」
そう言いかけた舞の言葉より先に、医師が倒れ、背後からなにかが現れた。白衣を着た“別の誰か”が、まるで動物のような姿勢で飛びかかり、医師の上に乗りその体を貪り始めた。
「――っ!!」
悲鳴。肉の裂ける音。白衣を着た医師にとりついた“それ”は、人の形をした別の何かとしか思えなかった。目は血走り、口元からは涎と赤黒い液体が滴っている。
瞬間、舞と恵理は言葉を交わすこともなく本能で走り出していた。
「舞……どうするの、上に逃げる?」
「違う。ここで――ここで止める」
舞の声に、恵理が目を見開いた。
「え……?」
「患者さんたちをほって置けないし。それに今は夜だし、入院棟は面会制限があって各所にロックもついてる。下のフロアは……ここにいて助けを待つ方が安全かもしれない」
恵理は一瞬だけためらったが、すぐに頷いた。
「わかった。私、エレベーターホール側のロックと非常階段のドアを確認してくる!」
「私は職員用エレベーターからの通路を塞ぐ!」
二人はナースステーションを駆け抜け、それぞれの持ち場へ走った。恵理は一般用エレベーターホールに向かう扉のオートロックを封じ、さらに非常階段の扉のハンドルを固定。舞は近くにあったストレッチャーを、職員用エレベーターホールにつながる廊下にはこぶ。
「……急がないと……!」
通路の奥で医師の死体を貪っていたそれが起き上がる。
「来る……っ!」
そのとき、廊下の部屋から、患者たちが顔を出した。
「さっき、叫び声が……」「何かあったんですか?」
「ごめんなさい、今は説明してる時間がなくて、お願いです、協力して!」
舞の訴えに、何人かの患者がすぐに動いた。ジムスペースのテーブル。面会ロビーのソファ。手当たり次第に運んできてもらう。
「そっち、もう少し奥!」「これ、積めるだけ積んでください!」
舞が声を張り上げ、患者たちが汗をぬぐいながら応じていく。だが――バリケードが完全に完成する前に、“それら”は現れた。医師を貪っていたものと、腹を貪られた医師。
「下がって!」
舞が叫んで前に出ようとしたその瞬間、彼が立ち上がった。
「…俺が抑える」
中年の男性だった。数日前に外傷で入院したという、少し不愛想な患者。舞の記憶の中では、廊下で挨拶しても無視されていた――その彼が、今、震える手で折りたたみの点滴スタンドを構えた。
「あんたには……いつも助けてもらってたからな」
「ま、待って、ダメ、それは――!」
「俺が言ったら閉じろ!」
彼は叫んだ。そして、こちらに向かって小さく微笑んだ後、襲いかかってきた“それ”に、真正面からぶつかっていった。点滴スタンドがへし折れ、床に金属が転がる音。もみ合う身体と叫び声。
「っ……!」
バリケードの隙間から、舞は目を逸らせなかった。他の患者が後ろから舞の肩をつかみ、押し込むように叫ぶ。
「看護師さん! 今は閉めるしかない!」
「……っ!」
涙を振り払うように、扉を閉めて、最後のソファを押し込み、金属棚を倒し込んだ。ドン、ドン、と叩かれる音。低いうめき声。だが、バリケードは今のところ、持ちこたえている。
「……ごめんなさい……」
舞は、力なく座り込んだ。呼吸が乱れている。手が震えている。それでも、目は――諦めていなかった。
「助けは、必ず来る。それまでここを、みんなで守らなきゃ」
「うん……絶対に」
戻ってきていた恵理が頷いた。その夜、5階は臨時の“要塞”となった。いつ崩れるかもわからない簡易な砦。それでも、命を繋ぐための最初の拠点となった。
パンデミック発生から、4日目の朝。
病院の窓の外からは、もう何も聞こえなかった。昨日までの悲鳴、誰かの叫び、建物を叩くような音――すべてが、嘘のように止んでいた。
「……逆に、不気味だよね……」
恵理の言葉に、誰も返さなかった。5階に閉じ込められたまま、今日で三日目。入院患者は整形外科が中心で、幸い急変する者はまだいなかった。だが、他の階ではきっと、もう手がつけられない状況になっているはずだった。
昨晩ついに電気が落ち、そこから非常電源が稼働し続けている。機器の最低限の稼働を維持しているが、いずれ限界がくるというのは明らかだった。
電波も止まっているし電気も止まった…
外はいったいどうなっているのだろうか…
東京だけ?なら海外からの助けが来るだろうか…
こんな規模のパンデミックがあちこちで起きているとしたらもう…
この三日間いろいろなことが頭をめぐり、舞たちはほとんど寝ていなかった。
「助けが来るまで、電気が持つといいけど……」
恵理は使っていないナース用端末を閉じて、ふと、舞の様子を見ようとナースステーションの横を見る。だが、その姿はそこになかった。
「……え?」
足元に倒れ込む影が見えた。
「舞っ!?」
駆け寄ると、顔は真っ赤に火照り、唇は乾いていた。
「高熱……!? しっかりして、舞、起きて!」
呼びかけに応じはするが、意識は朦朧としている。体が熱い。
「違う……感染じゃない。感染じゃないはず……。過労と脱水、ここ数日の緊張で……」
恵理は舞を抱えるようにして、空いていた個室病棟のひとつへ運び込んだ。手際よく点滴を準備し、静脈路を確保。
「ごめんね……一人にして……」
熱にうなされる舞の頬にそっと手を添えた後、恵理は病室を後にしたその直後――
「ガンッ」「ガンッ」
バリケードの向こう側から金属が軋むような鈍い音が鳴った。静寂を裂くその一撃に、恵理の背筋が震えた。それは、昨日まで聞こえていた悲鳴や怒号と違う。誰かが助けを求める声でもなかった。もっと、単純で――もっと、恐ろしい。
「……違う、これは……」
恵理の喉がかすれるように動いた。気づいてしまったのだ。この不気味な静寂の“本当の意味”に。窓の外から叫びが消えたのは、助かったからじゃない。逃げ切れたからじゃない。“誰も、もう、いない”からだ。
階下のフロアにいた人間たちは、おそらくもう全員が感染した。“音”を発していた生者たちは、静かに“群れ”へと取り込まれたのだ。そして――その“群れ”は今、数を増やし、力を蓄えた。
だからこそ、今になって。あのバリケードが――
「……破られようとしてる」
もう、1人や2人ではない。10体、20体、それ以上の“それら”が、バリケードに圧をかけている。“意思”ではない。“本能”だけが導いて、前へ、前へと迫ってくる。
「っ……」
恵理は近くにいた患者に全員で非常階段に向かうよう伝え、舞のいる個室へ向かった。扉を開けると、まだ意識は戻らぬまま、点滴の滴が淡々と命をつないでいた。
(連れ出すには間に合わない……なら)
恵理はその場にあった未使用の点滴バッグを、一本、二本と準備し始めた。今ある薬液すべてを最大限に活用するため、セットを複数のルートに分ける。
「少しでも……持つようにしなきゃ」
手が震えていた。けれど、止まらなかった。必要な処置を施し終えると、恵理は個室の引き戸の内扉に突っ張り棒を立てて部屋の外に出る。本当は起きた舞が混乱しないように書き置きも残したけど、時間的余裕はなかった。
「……ほんとは、置いていきたくなんてないよ」
声が震えた。けれど、涙は流さなかった。扉を閉めると、突っ張り棒が倒れて扉が開かなくなったのを確認した。
それよりも、“今自分がやらないといけないこと”があった。恵理は医療ワゴンの中から、蛍光オレンジの救急テープと携帯用のLEDライトを取り出し、ドアの手すりに巻きつけていく。
“ここに誰かがいる”――助けが来た時に備えて、そう伝えるための目印。
患者たちは既に先に上の階へと上がっている。
「遅れてごめんね……でも、もう行くよ」
最後に、舞の病室の方を見つめる。
「必ず戻るから」
そう呟き、非常階段の扉を開け、上階へと続く暗い階段へ足を踏み出した。
しばらくして、バリケードを破ったものたちは、音が逃げた非常階段へと向かっていく。そして、5階は再び、静寂に包まれた。