暗殺者、悪役令嬢の教育係になる。
ハミルトン侯爵家の令嬢、リディアーヌ・ハミルトン。
今年十五歳になったリディアーヌは、この世のすべてが自分の思い通りになると信じていた。
リディアーヌが「クマのぬいぐるみがほしい」と言えば、部屋いっぱいになるほどのぬいぐるみが与えられる。
流行のドレスが欲しいと言えばクローゼットいっぱいの量を仕立てる。
ハミルトン家初の女の子なので、両親や兄たちに溺愛され、何不自由なく育った。
結果彼女は、些細なことでかんしゃくを起こし、周囲を振り回す人間に育った。
気に食わないメイドはその場でクビ。
これまで彼女に逆らえる者はいなかった——ゼオンが来るまでは。
「わたくしは肉が良かったのに! なんで魚なんて出すのよ! やり直し!」
リディアーヌは夕食に出された白身魚のソテーの皿を叩き落とした。
「ふざけるな、小娘が。出されたもんは残さず食え。それが料理人に対する礼儀だ」
ゼオンが席から立ち上がる。
ゼオンはもともとリディアーヌを殺すために他の貴族に雇われた暗殺者だった。
この、気に食わないものは攻撃する女は自分が理事長の孫であることを利用して気に食わない生徒を虐げ、退学させた。その結果、退学になった生徒の親がゼオンを雇った。
この屋敷に侵入してリディアーヌを殺そうとしたが、ハミルトン侯爵の護衛に捕らえられ、処刑を免れる代わりにリディアーヌの教育係を任じられた。
「は? 何を言っているの? わたくしが肉を食べたいと言ったなら肉を出すのが使用人のつとめ……」
「お前は暗殺者の俺から見ても救いようのないダメ人間だ!」
リディアーヌの顔は怒りで紅潮していた。
「わたくしは侯爵令嬢よ! なのに、なんで平民風情にそんなふうに言われないといけないの!?」
リディアーヌは手近にあったワイングラスを掴み、床に投げつけた。割れたガラスが飛び散り、メイドたちが慌てて後ずさる。
「何が教育係よ! ゼオン、あなたなんかクビよ! 今すぐこの屋敷から——」
「お嬢様、落ち着いてください!」
メイドや執事たちが慌ててゼオンとリディアーヌの間に割って入る。
「ゼオン様、もう十分では?」
「お嬢様はお怒りなのです。あまり刺激しないように……」
彼らは明らかにリディアーヌをなだめることしか考えていなかった。
これまでに何人も、機嫌を損ねたものがクビになってきた。
ゼオンは嘲るように鼻で笑い、静かに呟いた。
「お前らがそんなだから小娘がつけあがってこうなったんだ」
低く、鋭い声だった。メイドや執事たちはビクリと震え、誰も言い返せなかった。
ゼオンはリディアーヌに視線を戻し、一歩近づいた。
「お前が気に食わないものを叩き潰してきたように、俺もそうできる。暗殺者だからな」
その言葉に、食堂の空気が凍りついた。
「お前がクソだと思ったら、今すぐ首を絞めてへし折れる。このナイフで喉を掻っ切ることもできる」
ゼオンはリディアーヌが床に叩き落としたナイフを拾い上げて、リディアーヌの喉元に当てた。
リディアーヌの喉がひゅっと鳴った。ゼオンの瞳には、冗談ひとつない冷たい闇が広がっていた。それは、ただの教育係の目ではなかった。殺しを知る者の、無慈悲な視線だった。
「け、警備を……!」
と誰かが呟いたが、ゼオンは鼻で笑った。
「ここで矯正できなきゃこいつはまた何かやらかす。別の貴族が暗殺者を雇うだろうな。他のやつが来ても俺は止めない。わがままの限りを尽くした結果。自業自得」
リディアーヌは震えていた。だが、それは恐怖だけではなかった。
彼の言葉は、彼の存在は、今まで自分が信じていたものを根底から揺るがしていた。
これまでは誰もがリディアーヌの願いを叶えてくれたのに、ゼオンはそれが過ちだと言う。
これ以上わがままを言うなら殺すと謂う。脅しでなく、ゼオンは本当にそうできる。
ゼオンには何の意味も持たないことを、今さらながら思い知らされた。
「料理人はお前の奴隷か? 嫌なら食うな。どうしても文句を言うなら、明日からお前の食事はパンと水だけにしてやる」
「……ふん! そんなもの、食べなくても……!」
「好きにしろ。ただし、貴族たるもの、与えられた食事に文句をつけるのは恥ずべき行為だ。そんなこともわからないとはな。平民の五歳児でもできることが、十五歳のお貴族様にできないなんて。これまで受けてきた教育の程度が知れる。一日一食食うのもやっとな平民がいるこの国で、よくもまあ与えられた食事を、一口も食べずに捨てられたものだな」
リディアーヌは悔しさに唇を噛んだ。だが、それでも彼女は折れない。いや、折れたことがないのだ。
しかし、ゼオンは容赦なく彼女の甘えを断ち切っていった。
食事だけではない。他のことでもリディアーヌのわがままを許さない。
容赦のない指導に、リディアーヌは何度も反発し、何度も泣いた。それでも、ゼオンは決して彼女を見放さなかった。
そんな中、リディアーヌのお気に入りのメイドが突然辞めることになった。
彼女は理由を尋ねたが、メイドは何も言わずに去っていった。
後になって、他の使用人たちが「いくらお金をもらえたって、毎日毎秒ワガママに付き合わされるこっちは体が持たないわよね。作り笑いするにも限度があるわ」を耳にし、リディアーヌは衝撃を受ける。
「……わたくしは、あの子に嫌われていたの?」
今まで当たり前のように仕えてくれていた使用人たちが、実は彼女を恐れ、嫌っていたのだと知った瞬間、胸が締め付けられた。
「メイドが仕えていたのはお前が好きだからじゃない。ただ雇い主の命令があったからだ。皆、金のために仕方なくお前のわがままを聞いていただけだ。侯爵の娘じゃなきゃ、彼らはお前みたいな自分勝手な小娘の話に耳を傾けやしない」
「……そんな」
「学校でも同じだろうな。お前の機嫌を損ねると退学になるから、周りの連中は嘘の笑顔を貼り付けているだけだ。お前は従えて叩き潰して、一度でも彼らに謝ったことがあったか?」
リディアーヌは何も言えなかった。だが、その日を境に、彼女の中で何かが変わり始めた。
まず、食事に文句を言うことがなくなった。
きちんと最後まで食べて、ごちそうさまを言う。
使用人にも、ご苦労様と言うようになった。
こうして、甘やかされて育った令嬢と、彼女を叩き直す教育係は、師弟の絆で結ばれていくのだった。
——それから三年後。
無事に学校を卒業したリディアーヌは、子爵家の次男と結婚することになった。
「ゼオン。あなたのおかげで、わたくしは変わることができた。本当に……ありがとう。わたくしが親になる日が来たら、あなたに教育係を任せたいのだけれど、いいかしら」
参列したゼオンに、リディアーヌは深く頭を下げた。ゼオンはそんな彼女をじっと見つめ、わずかに口元を緩めると、いつもの調子で言った。
「お前みたいになったら困るからな。その時が来たら声をかけろ」
リディアーヌは微笑み、しっかりと頷いた。
リディアーヌの教育係を終えたあと、ゼオンは暗殺者家業から足を洗った。
かつて悪役令嬢と呼ばれた少女リディアーヌは、新たな人生へと歩み出した。