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第5歯 玉雪

大浴場の白い湯気がもくもくと自由気ままに昇ってはどこぞに消えていく。手のひらに掬った風呂の湯は、指の隙間からチョロチョロとこぼれ落ちて、小さな泡を息苦しげに立てると風呂の湯に混ざり込んでしまった。

手のひらの窪みにわずかに残った湯を、大切に両手に包んで彼の名前を口にしてみる。

「メロウ…」

少年はそう呼んでいた。彼の淡黄の狐目は私を人間として見ていた。

「嬉しそうだね、楊。間夫でも見つかったのかい?」

バシャッと水飛沫をあげて振り返ると、雪のように白い女性がにっこりとこちらに微笑みかけていた。

「玉雪姐さん!」

彼女は玉雪、源氏名は深雪太夫。楊が引込禿として働き始めた頃から、ずっと世話になっている姉のような存在だ。

「間夫だなんて…そんなのじゃないわ。おかしな客が来たのよ。何でも少年の母親を探しているとかで…話だけして、とっとと帰っちまった」

「それはけったいだねえ。どんな客だい?」

「顎髭を生やした金髪の男と紺碧の髪に天色の目をした不思議な子よ」

「子連れで遊郭に来たのかい?」

「ええ。哀れね。母親が遊女なんて…見つけたところで碌なことないのに」

玉雪は遠い目をして、静かに微笑んでいる。

「まったくだね。その子は元気だったかい?」

「え?ええ…まだ子供なのに、連れの酒を平然と飲んでいたわ」

「ふふ。それはいけない子だね」

玉雪は形のよい唇に手を当てて、少し寂しげに笑った。

「楊。遊郭の客は腐っているけど…時々、おもしろいのが来るんだよ。あんた、お迎えが来たかもしれないね。水揚げ前に連れ出してもらいなさい」

「姐さん、無駄な期待をさせないでちょうだい。身請けは断られたわ。私を迎えに来るのはきっと仏様よ」

湯船に顔を半分沈めてため息を吐くと、煮え立つようにぶくぶくと泡が弾けた。

「そんなこと言わないで…楊がここに来てどのくらい経ったろうか?」

「8つのときに身売りされてから…8年かしら?」

「そんなに経つのかい。小さな肩に親の借金を背負い、人買いに連れられてやってきた少女がねえ。今や誰もが憧れる名花だよ」

玉雪の綺麗な顔にじっと見つめられ、段々と気恥ずかしくなる。

「あんたは親の都合で売られたってのに、恨み言ひとつこぼさないで…主さんたちは親孝行な娘だと競うようにかわいがったね。したたかで…本当はとんでもなく泣き虫で…」

玉雪が「姐さ〜ん」と泣き真似をするので、沈めた顔を湯から揚げて笑ってしまった。

「そんな昔の話、覚えてないわ」

情けない顔で見返すと、玉雪はふふっと眉を下げて笑った。

「姐さん。その傷、まだ…」

玉雪の腕に懐かしい火傷痕を見つける。それは妬まれいじめられていた私を庇って、できてしまった傷だった。

「しけた顔しないの。これは大事な妹を守り抜いた証…私の誇りさ」

「だけど…」

「しけた顔しない」

玉雪の指先に口角を持ち上げられて、しけた煎餅のようになっていた自分の顔が明るくなるのを感じた。

「ほら、笑いなさい。私はあんたを助けるつもりでいて、ひたむきに笑っているあんたにいつも助けられてきたんだ。忘れないでおくれ。いつだって楊は、私の大切な妹だよ」

「姐さん!」

「およしよ、楊。恥ずかしいじゃないか」

胸がいっぱいになって急に抱きついても、玉雪はいつも優しく微笑んで受け止めてくれる。

間夫なんかいらない。遊郭を訪れる人間に人間なんていない。みんな私利私欲に溺れた(けだもの)だ。

私は玉雪姐さんがいてくれたら、他には何もいらない。

「姐さん、お願いだよ。どこにもいかないでちょうだい」

「急に何を言っているんだい。わかっているだろう?あたしの居場所はここしかないんだ」

「心配なのよ。新楼主は姐さんを目の敵にしているわ」

「あはは。昔、こっぴどく振った腹いせさ。気にすることはない」

楼主が足と目を患い、その息子が吉原を継いだのは最近のことだ。

彼は古参でありながら遊郭一の花魁に君臨し続け、時に楼主に物言い、遊女たちを守ろうとする玉雪を邪険にしている。

彼は人を食ったなどと根も葉もない噂を立て、彼女を今の地位から引き摺り下ろそうとしているようだが…玉雪と元楼主に対する遊郭内の信頼は厚く、うまくはいっていないようだった。

「昔…玉雪姐さんはいつからここにいるの?」

「そうだねえ」

玉雪は天井を仰いで遠くを見つめている。

「小さい頃に人買いの口車に乗せられて…それからずっとだよ」

「小さい頃?」

「小さい頃さ。雪女ははるか昔に人間を誘惑して食っていたから、長い人生の殆どが人間を魅了しやすい10代後半から20代なんだよ。それより前は小さい頃、それより後は老い先さ」

「羨ましい」

ぷうっと頬を膨らませたら、玉雪に指先で突かれた。ぷっと空気が抜けてクスクス笑いあう。玉雪とふたりでこうしている時間だけは、嫌なことを忘れることができた。

「楊はまだまだひよっこだねえ。私は少しずつ歳を重ねていく人間が羨ましいよ」

玉雪は子守唄のように穏やかな鼻唄を口ずさんでいる。雪のように白い肌、紺碧の髪、天色の目…その横顔にハッと息を呑んだ。

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