第4歯 薄明
引き付け座敷で花魁を待つ間、芸者の舞が酒席に興を添える。すっかり機嫌が良くなって酒をグイッと飲み干すと、維千が空になったお猪口をサッと取り上げた。
「メロウさん、飲み過ぎです。どこにそんなお金があるんですか?」
「こういうときは身体の心配をするもんだろが。ったく…金は心配いらねえよ。歯の形した巾着があるからな」
「ジョニーさんは金蔓ですか」
「おいおい。人聞きの悪いことを言うなって…経費だよ、け、い、ひ」
ジョニーは日常生活においてドケチであったが、仕事となれば惜しみなくポケットマネーを注ぎ込む。こんな酒代、あいつにしたら駄菓子を買うようなもんだった。
「まだ働いてないでしょう」
「腹が減っては戦はできぬってな。なんだ、うるせえな…おまえは俺の嫁か?ほれ、これでも飲んでろ」
維千の前にこれ見よがしにジュースを置いてやったが、彼は涼しい顔をしている。
「子供扱いしないでください」
維千はかっさらったお猪口に酒を注ぐと、グイッと飲み干してしまった。
「その容姿で酒を一気飲みされると肝が凍りつくぞ」
後ろに控えた芸者がこちらをチラチラ伺い、ひそひそ話をしている。
当然である。維千の背の低さは小柄という言葉の範囲外に小さく、あどけなさが残る顔はどこからどう見ても子供だ。実年齢はわからないが本人曰く「酒の味がわかるくらいには大人」らしい。
「早く慣れてください。まだ新しいことを覚えられないような歳じゃないでしょう?」
「かっわいくないねえガキだな」
「だから、子供扱いしないでください」
障子がサッと開いて、「お待たせしんした」と声がする。そこに艶のある黒髪と色気のあるたれ目をした、目を見張るほど美しい遊女が立っていた。少しずらした振袖の襟から白い肩が覗いて、妖艶な空気を漂わせている。
「深雪太夫を指名したのは主さんでありんすか?」
「おう、あんたが深雪太夫か」
「とんだ塩次郎でありんすね。初会が太夫の顔を拝めると思わねえでおくんなんし」
「ほら、言わんこっちゃない」とイチが小声でぼやく。
「それにここは、子連れでくるところじゃありんせんよ」
彼女のひと言にニヤリと口元が緩んで、イチがムッとした表情をした。
「あんた、深雪太夫じゃなきゃ誰なんだ?」
「わっちは深雪太夫つきの振新、紫でありんす」
「ほう、振新…振新ってなんだ?」
顎髭を撫でて維千を振り向くと、彼は呆れ顔で「振袖新造。見習いの遊女ですよ」と囁いた。
「なあ、あんた。ちょいと話を聞かせてくれねえか?」
「振新は客をとりゃしんせん」
「話だけでいいんだ」
「客じゃないなら帰っておくんなんし」
紫は冷たく言い捨てるとサッと踵を返した。
「頼む。金は払うからよ」
投げてよこした皮袋を紫が受け損ねて、彼女の足元にジャラジャラと金貨がこぼれ落ちた。
「横暴な方だ…どうなっても知りませんよ」維千は隣で頭を抱えている。紫は獲物を窺う蛇のように絡みつくような目でこちらを品定めしていた。
「それにあんたみたいな美玉を目にして、帰るわけにはいかねぇだろ」
「…こちらに来なんし」
「悪りぃな」
これだけの大金を叩いて手土産なしじゃあ、さすがにジョニーも怒り心頭に発し、黒板を引っ掻くような歯軋りをして、裁断機のような歯を割れんばかりに高速で打ち鳴らすだろう。
助かった。ホッと胸を撫で下ろし、酒に後ろ髪引かれる維千の尻を叩いて、さっさと先を行く紫を追いかけた。
引き付け座敷を出て、薄暗い廊下をまっすぐ進んでいく。突き当たりの急な階段をあがって通されたのは、客をもてなすにしてはやたら生活感のある小さな部屋だった。
紫は腰を据えるなり、火鉢に刺した煙管を手に取ってゆっくり口に咥えた。
「あんた、こいつに似た女を知らねえか?」
維千の背中を叩いたら思いのほか力が入って、彼は大きくつんのめると2、3歩前に出た。
紫はトンッとキセルを叩き維千をじろりと眺めると、煙といっしょにふうっとため息を吐いた。
「女…遊女でありんすか?」
「ああ。こいつの母親を探しているんだが」
「名は?」
「覚えていません」
「そうかい。父親は…」
紫は自分と維千をじろじろと見比べた。
俺が金糸のような癖毛なのに対し、維千は海のような紺碧の直毛をしている。温かみのある淡黄の狐目と冬空のような天色の猫目では似ても似つかない。
「ふう…余計な詮索はやめんしょう」
「言っておくが、俺じゃねぇぞ」
紫はふふっと妖艶に微笑んで、維千の髪に指を絡めた。彼の端正で人間味が薄い顔はまるで人形のようだ。
「心当たりはありんせんね」
「…収穫なしか」
「産んだのか産まされたのか、わかりんせんが…子を産んだのなら、位の高い遊女でありんしょう」
「そうか…ありがとう。面倒をかけたな」
結局、収穫はなかった。このまま無理に話を引き出すより、やはり吉原一の花魁に話を聞くのが早いだろう。
「ああ、そうだ」
さっきの皮袋はきっと楼主に取り上げられてしまうだろう。ぽんっと膝を打って紫に金貨を1枚投げると、彼女はそれを両手で受け取って目をまん丸にした。
「いいでありんすか?わっちは何も…」
「情報料だ。いいから黙ってもらっておけ」
先に部屋を出た維千が「メロウさんは美人に甘いんですから」と手を伸ばす。
「なんだ、その手は?」
「おこづかい。僕もなかなかの美人でしょ。どうぞ甘やかしてください」
「アホか。おまえは心が汚い」
「傷つきます。泣きますよ?」
「涙なんてねえだろ。バカなこと言ってねえで…行くぞ」
「待っておくんなんし」
紫がキセルを引っ掛けて引き止める。
「主さん、わっちを情婦にしんせんか?お金はあるでありんしょう?」
「身請けの話か?」
「損はさせんせんよ」
紫が艶のある唇で愛らしく微笑む。
「悪いがそれはできねえ。そいつはあんたの尊厳を損ねる行為だ」
「尊厳?ここにそんなものはありゃしんせん。わっちらは籠中の鳥…身請けがなければ、この欲まみれの肥溜めから羽ばたくことはできんせん」
紫はくゆる煙を切ない目で追った。
「俺がおまえに心底惚れたら、迎えにきてやる」
我ながら恥ずかしいことを言った。頭をぽりぽり掻きむしると、紫は「それは楽しみでありんすね」と虚しく微笑んだ。
「主さん、ぞっとする男だねえ。また来ておくんなんし」
紫は影のある表情でいつまでも見送っていた。
「無駄足だったな」
帰りの汽車で大きなため息を吐いたが、維千は相変わらずの調子だった。
「本当に残念です」
維千はしれっとした顔で車窓を眺めている。窓の向こうでは、雪が深々と降り積もっていた。
「全くもって残念がっているようには見えねえが」
「なにを言ってるんですか」
維千がサッと振り向く。
「生き別れになった母の手がかりすら掴めなかったんですよ?残念至極です…飲みなおしましょう」
「まだ飲むのか?」
絶句した。引き付け座敷で二升は飲んでいたはずだが…俺に飲み過ぎと言ったのはどこのどいつだったか。
「それでお前…本当にいいのか?」
「飲まない選択肢があるんですか?」
「酒じゃない。お前の母親のことだ」
「ああ」
維千は頬杖をついて、車窓の向こうに視線を戻した。
「しつこいですね。人喰いの雪女ですよ?生かしても百害あって一利なし。どうぞお気遣いなく」
「殺さなきゃならないかもしれないぞ」
「どうぞ」
維千の横顔にはわずかな迷いも躊躇いもない。責めるような目でじっと見つめていると、彼はしまったと顔を顰めた。
「泣いたほうがよかったですか?」
「…雪女の血筋ってのはこうも冷たいのかね」
「人間が温かいとは限りませんよ」
「言えてら」
維千は何食わぬ顔で頬杖をつくと窓の向こうの銀世界に視線を戻した。思う存分、酒を堪能したからか、機嫌よく鼻唄を口ずさんでいる。それは子守唄のように和やかな唄だった。