第10歯 母子
「その小さな身体でひとひとり背負うのはそろそろ限界だろう?追い先短い年寄りは置いて行きなさい」
「小見世の方で火の手があがっています。依頼の完了を見届けてもらうまでに、死んでもらっては困るんですよ。酒を支払った後はどうぞご自由に」
次期に大見世にも火が放たれるのだろう。事前に聞かされていたのか、あれだけいた遊女たちの姿が一切ない。
「玉雪、いよいよか。維千よ、命あっての物種だ。依頼はなかったことにしよう。早くお逃げなさい」
「お断りします。過ぎたことは何ひとつ無かったことにはなりません。それに、有限不実行は好きじゃない。僕はできない約束はしないし、口にしたことはやり通します」
急な階段を一段降りては息を整え、一段降りては息を整え、慎重に降りていく。
「君はとんだ堅物だね。お父さんそっくりだよ」
「お言葉ですが、いちいち両親と比べるのはやめていただけますか?僕は僕以外の何者でもありません」
「そうかい、そうかい」
冷たく吐き捨てたつもりだが、背中から聞こえる元楼主の声は穏やかで柔らかい。これまでに出逢ったことのない態度に背筋がゾワゾワする。
「お気遣いなさるのであれば、少しはご自分で歩かれてはいかがです?」
とはいえ、平気と言えば嘘になる。元楼主の老体がいくら小さいとはいえ、さらに小柄な自分が成人男性を背負い続けるにはやはり限界がある。
ただでさえ、着物が重くて敵わないのだ。重さと暑苦しさに耐えかねて、カツラはとっくに脱ぎ捨ててしまった。
仕方がないので彼の腕を首に巻いて引きずっているのだが、どうにもこうにもなかなか前に進まない。
「六花」
「うっ…」
元楼主はさっきから心配する素振りをして、そのくせ頑として歩こうとはしない。僕が不平不満を漏らせば、即座に銘酒をチラつかせるあざとさにも苛立ちを覚える。
「寒いぞ、維千。お前…怒っているのか?」
「……文句を垂れる元気があるなら、足を動かしたらどうです?」
「あー?何か言ったかい」
「クソジジイ」
「これ。口が汚いぞ、維千」
「聞こえてるじゃないですか」
苛立ちでまとう空気が冷えてしまうのは無意識のことだから、文句を言われたところで自分にはどうしようもできない。
僕が怒りを知ってからというもの、養父にも何度となく同じことを言われている。屋敷の人間に至っては、僕の成長速度が人間と異なることも相まって、ひそひそ陰口ばかり叩いて近付こうともしない。
「それで?僕を陰間に育てる話が持ち上がり、両親は遊郭脱走を図るものの失敗に終わる。父は見せしめにさらし首となり、母は木に縛りつけられ食事も与えられなかった、と」
「遊郭ではよくある話だ。なんなら玉雪が稼ぎ頭でなければ彼女は殺されていたし、君は遊郭の奴隷になっていたことだろう。習慣とは恐ろしいものでね。それを当然と思い込むと、聞く耳を削いで都合の悪いことに目を瞑ってしまう。私は楼主という立場でありながら、男衆らを止めることができなかった」
「実に人間らしいですね」
「飢えが人喰いの本能を刺激して、玉雪はついに監視役の男衆を食ってしまった。そのことは玉雪と私…そして君だけが知るところだ」
「ああ、それで。貪るように食べていましたもんね」
僕が軽い口調で答えると、元楼主はぐっと拳を握りわなわなと震えた。
「そうか、覚えているか。玉雪に代わって君の世話をしていた私は、君の成長速度を測り損ねた。まだ幼く見えた君の内面は予想を上回る速さで成長していて、君は私の隙をついて母の元に行ってしまったんだよ。最愛の息子に無垢な目で見つめられながら、人を食う手は止めようにも止められない。玉雪はさぞ苦しかったろう」
「それがどれだけの傷みを伴うことなのか、僕は図りかねますが…本能に抗うとはそんなに難しいことなのですか?」
「さてね。私が知っていることは、同じ妖でも氷妖は飛び抜けて野生的であること。そして、玉雪がどれほど君たちを愛しているかということだけだ」
「はあ…愛してる、ですか。ひとまず、あなたがとんだ碌でなしで役立たずということは理解できました…あぐっ!」
元楼主の腕に首を締めつけられて、危うく階段を踏み外すところだった。
「あっぶないでしょう?!クソジジイ」
「はっはっは!なんとでも言いなさい。玉雪に鍛え抜かれた鋼の心、多少のことでは砕けんよ」
「物理的に砕いて差し上げましょうか?」
「おや?できないことは言わないのだろう」
「口数が減りませんね。どこが追い先短い年寄りなんだか…あなた、きっと長生きしますよ」
「そうかい、そうかい。妖怪に化けたら、よろしく頼むよ」
「固くお断りします」
そう長くない階段の最後の一段をやっと降り切ってひと息吐く。
元楼主をずるずる引きずって長い廊下を進んでいくと、左手に出てきた障子に人影が見えた。
「誰だい?ここもすぐに火の海だ。早く逃げないと焼け死ぬよ」
元楼主が背中から転がり落ちるのも気に留めず、パシッと障子を開ける。
がらんとした大広間の最奥で、紺碧の髪と天色の目をした女性がキセルの煙を燻らせ、あろうことが銘酒「六花」の瓶をすべて空けていた。
「おやおや。来るとわかっていたらひと口くらい残しておいたのに…残念だったね、千雲さん」
「維千です」
「楼主様もいっしょかい?あんた達は私のことが大好きだからね。待ちきれなかったんだろうが…あの世から迎えに来るにはちと早いよ」
「玉雪。私はまだ死んでいないよ」
「おや?そうだったかい。しぶといね、楼主様」
「玉雪。君もだよ。君もまだ死んではいけない」
元楼主が声を振るわせる。玉雪はハッとするほど美しい微笑を浮かべた。
「あれまあ。随分と小さくなって…小さい千雲さんもこれまた愛らしいねえ」
「ですから、維千です」
父の名前を呼ばれて、彼女が玉雪であることを確信する。が、今はそれどころではない。
「おい、てめえ。俺の酒に何しやがる」
踏み込んだ足の下で、ピプッと間抜けな音がする。この『頭だけ残して身体の綿を根こそぎ抜かれたぬいぐるみ』のような生き物は…。
「ジョニーさん?」
「維千くん…僕は大丈夫…」
「あなたの安否は聞いていません」
何が気に障ったのか、ジョニーはカッと目を見開いて歯を打ち鳴らし、信じられないといった顔をしている。
「いくら維千くんでもあんまりだ!ちみの頭蓋は酒樽かい?!こんな時にまで酒一色だなんて…なんだい、なんだい!社交辞令でもちょっとくらい、心配してくれたっていいじゃないか!」
「元気な人間を心配する道理がありません。あなたのことですから、どうせ人喰いが怖くて呑気に死んだふりでもしていたのでしょう?」
「そ、それは…」
「あり得ない。そこにいながら、酒がなくなっていくのをただ傍観していただなんて」
「い…維千くん。あの…本当に…ちょっとでいいから、僕の心配してくれないかい?」
「今はとてもじゃないが、仲良しごっこをする気分にはなれない」
パキパキと凍りついた手元にジョニーが「ヒィッ!」と小さく悲鳴をあげて、僕はやっと自分の怒りを自覚した。
(ああ、やってしまった…早雲さんのにやけ顔が目に浮かぶ)
酒を奪われて怒り散らしたなんて聞いたら、養父はきっと抱腹絶倒するだろう。
(…一体、何がおもしろいんだか)
右手で前髪をかきあげて、ふーっと長く息を吐くと少し落ちついた。
「怒ることができるのかい。成長したね、維千」
玉雪がキセルを叩いて火種を落とすとそこからパキパキと床が凍りつき、部屋一面があっという間に氷に覆われた。
パッと飛び退こうとしたが、一瞬の遅れで足は床に凍りつき動かなくなった。
「およし。無理に逃げると砕けるよ。あんたなら知っているだろう?」
「冷凍される側は初めてでして…厄介なものですね」
脱出を諦めて両手をあげる。玉雪は煙管を扇子に持ち帰るとゆっくり歩み寄り、扇子の先で僕の顎をクイッと持ちあげた。
「ああ、千雲さん。会いたかったよ」
「維千です」
こちらの話を聞いているのか、いないのか。玉雪は舐め回すように僕を眺めて、うっとりした表情を浮かべている。
「あの人が帰ってきたみたいだよ。はっきりとした目鼻立ちがそっくりだ。ああ、千雲さん。ずっとずっと愛しているよ」
「ですから、維千です」
パキパキと床から玉雪に向かって氷柱を伸ばしたが、玉雪が扇子を振ると氷でできた熊が現れて氷柱を噛み砕いてしまった。
「柔な氷だねえ。力の使い方がなってないよ。どれせっかくだ。少し教えてあげようじゃないか、千雲さ…じゃない、維千」
「結構です」
元楼主がいうように、本当に自分は愛されているのだろうか?玉雪はさっきから名前を間違えてばかりいる。
「さあ。どれだけ成長したか、母に見せておくれ」
「だから、結構ですと…あなた、他人の話を聞いてます?それでよく花魁が務まりましたね」
「そりゃあ、私が愛してやまない千雲さんが愛してやまない私が愛してやまない千雲さんが愛してやまない女だからね」
「何を言っているんですか、あなたは」
「何を言っているんだろうね、私は」
「知りませんよ」
玉雪が扇子を開くと同時に、足を捕らえていた氷が水に変わる。彼女は形のよい紅唇を不敵に歪ませると、左手のひらに『維千』と彫られた氷晶を浮かべた。
「母子でそれはまずいでしょ…」
咄嗟に右手のひらに『玉雪』と彫られた氷晶を作る。氷晶を握るのはほぼ同時だったが、砕くのは玉雪のほうがわずかに早かった。
「おまえの理性、ぶち壊してやろうじゃないか」
「それが母親の言うことですか」
頭がくらくらして、足元がおぼつかなくなる。
(酒に酔うって、こんな感じか)
奪われていく意思の向こうで、ジョニーが元楼主と何かを話している。
「ヘイ!何が起きているんだい?レディーが氷の結晶を砕いたら、維千くんがふらふらして…なんだか様子がおかしいよ」
「氷妖にしか使えない妖術だよ。名前を砕かれた相手は、術が解かれるまで術者の奴隷だ」
「そんな…!ヘイヘイヘイ!しっかりするんだ、維千くん!」
ジョニーがカカカと激しく歯を打ち鳴らす。応援のつもりらしいが、うるさくて敵わない。
「ジョニーさん」
「なんだいっ?!」
「黙っていてください」
「ひどっ!」
ジョニーはしくしくすすり泣いたが、構っている余裕はない。
「その能面顔がどうなるのか、見ものだね」
玉雪は舌で唇をなぞると、獲物を狙う獣のように怪しく目を光らせた。
「化け物め」
自分も『玉雪』の氷晶を砕いたはずなのに、彼女はケロッとしている。
右手のひらに『維千』の氷晶を作り直して砕くと、少しずつ自分の意思がはっきりしてきた。
「自分に術をかけるたあ、随分と無茶をするじゃあないか」
玉雪は笑っているが、自分には答える余裕すらない。少しでも気を抜けば、すぐさま玉雪の言いなりになってしまいそうだった。
「刀…」
「なんだ?」
「刀を寄越せ!」
玉雪が扇子を振るのと、元楼主が刀を投げて寄越すのとはほぼ同時だった。
青氷の熊はその巨体で突進してくるとそのまま口を大きく開け放ち、僕の首に食らいつこうとした。
「正気か?あの女」
引き抜いた鞘で咄嗟に受け止めたが、勢いを殺せず押し倒される。目鼻の先で熊がグルグルと喉を鳴らし、その白い吐息で前髪がなびく。
「凍ってろ…!」
熊の腹をタンッと蹴り上げて、その巨体を丸ごと凍りつかせる。腹からバキバキと這うように凍りつき、熊の目から口から氷柱が伸びる。
『グアアアアッ!』
暴れ狂う熊の下から転がるようにして抜け出す。熊と床とを繋ぎ止めている氷は、熊の圧倒的な力で今にも折れてしまいそうだ。
(それならば)
熊の巨体を覆う氷にさらに氷を重ね、どんどんと重量を加えていく。屈強な四つ足で踏ん張っていた熊は、体を包み込む氷の重さについに倒れ込んだ。
氷だるまになった体はドオオオンッと地響きを立て、重みでバキバキと床を踏み破ってしまった。
(こんなに力を使うのは初めてだ)
手がビリビリと痺れて、胸が苦しくなる。息を整える間もなく、玉雪が氷で出来た薙刀を振りかざす。刀はそれを受け止めきれず、キンッと甲高い音を立てて跳ね飛ばされてしまった。
「もうお疲れかい?情けないねえ」
「こんな狂人にお会いするのは初めてでして」
玉雪がパチンと扇子を閉じると、ぼやけていた意識がパッと鮮明になる。僕は床に突き刺さった刀を拾い上げ、元楼主から受け取った鞘に戻した。
「千雲さんはもっと強かったよ」
「いちいち比べないでくださいませんか?僕は僕です」
「そうだね。あの人はあんたと違って、いつも笑っていていたよ。どうしようもなく女好きの兄貴のお目付役、そのくせ酒はガバガバ飲んで…遊郭の腐った奴らにもいつも微笑んでいた。バカだと思ったが、気づいたときにはその笑顔に心奪われていたんだ」
玉雪は幸せそうに微笑むと「千の縁を維ぐ子…」と呟いて、こちらの顔をじっと見つめた。
「千雲さんが殺された時、私は死のうと思ったんだ。あの人のいない世に未練はない…そう思ったら、あんたの顔が浮かんでね。まだ死ねない、死ぬわけにはいかないと思ったんだよ」
「はあ」
玉雪は遠い目をして、天井を仰いだ。
「あーあ。あんたの顔を見たら、あの人のところに行こうと思っていたのに。こんな未熟じゃあ、置いていけないじゃあないか。もしもあの世であの人に会うことが許されたなら、会わせる顔がないからね」
「余計なお世話ですね」
「親はね、余計な世話を焼きたくなるものさ」
玉雪はにっこり微笑むと、扇子をポイッと投げて寄越した。
「維千。紫…楊にこいつを渡しておくれ」
「お断りします」
「そう言わずに。ここに来てからずっと苦楽を共にしてきた大切な扇子だ。あの子には姉さんだと思って持っていて欲しいと伝えておくれ」
「扇子はただの扇子でしょう。使い古したものを他人にあげるんですか?」
「あんたにはまだわからないかね」
玉雪は凛と美しい目を細めて、弱々しく微笑んだ。
「謝礼は?」
「それがあるからいいだろう?」
玉雪が僕の手元に目を向ける。握りしめた刀はまるでその存在を知らしめるかのように、艶やかに鞘を光らせた。
「いりません」
「それは氷妖が代々受け継いできた天下五刀の一振りだよ。先代当主が生活苦の果てにやむなく手放したんだが、客が持っているのを見つけてね。買い戻したのさ」
「だから、いりませんと…話、聞いていますか?」
「氷妖は実力ある妖の名家だよ。あんたは氷妖の血を引いているんだ。誇りに思いな」
「おーい、聞けよ。きんきらスパルタババア」
「なんだい?能面坊や」
「聞こえてんじゃねえか、ババア」
僕のまとう空気が冷たくなると、玉雪はあははと声を上げて笑った。
「天下五剣は5礼を示す。どれも氷妖に欠けている心だ。それの名は三日月。他に童子切、鬼丸、大典太、数珠丸があるから、見つけ出して助けてもらいなさい」
この人には何を言っても無駄だろう。僕はため息を吐くと、両手をあげて降参した。
「あの人のいない世に未練などないと思っていたけれど…維千、母を忘れないでおくれ」
玉雪に撫でられた髪がこそばゆい。
「忘れませんよ。こんな歩く金塊みたいな派手なひと」
「あんた。女を例えるなら花になさいな」
僕が白けた目をむけると、玉雪はクスクスと笑った。
「維千、もうひとつ頼まれてくれないかい?」
「はじめてのおつかいにしては頼みすぎじゃないですか」
「いいじゃないか。親孝行だと思って」
玉雪は静かに微笑んで僕の顔をじっと見つめると、ぎゅっと強く抱きしめた。
「笑って生きて。あの人みたいに」
「楽しくもないのに笑えませんよ」
「笑えるさ。私たちの子だからね」
「理解に苦しみます」
玉雪はふふっと目を細め、僕の頬に優しく触れた。僕と同じく、到底生きているとは思えない冷たい手から、不思議なことにじんわりと温もりが伝わる。
(体温じゃない…これは何だ?)
胸の奥底が疼く感覚がして、背筋がゾワゾワする。
「さあ、お行き」
玉雪は僕の体をくるりと回し向きを変えると、その背にひんやりと冷たい手を添えて力いっぱい送り出した。