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治安の悪い街


【一】


 全てのものには、意思が宿っている。父の教えだ。

 生まれたらからには皆幸せになりたいのだから、皆の幸せを願いなさい。これは母の教え。

 要するに、両親の考えを合わせたら「この世のもの全ての幸せを願え」ということだ。

 人間にも、犬にも、猫にも、木にも、土にも、風にも、意思があってそのどれもが幸せになりたがっているという。

 だったら、この寒風は何を想って、僕の冷や汗を引っ掻くように吹きつけに来ているのだろう。それが風にとっての幸せだったら、エゴだ。これは、何かの幸せは、何かの不幸せの上に成り立っているその縮図なのかもしれない。


 深夜も三時を回った頃、僕は針のように刺さる冬の風を浴びながら原付を飛ばしていた。風の幸せなど願う余裕はなかった。寒さよりも冷や汗を噴出させる熱の方が勝っているのだから。

とんでもないミスを犯してしまった。指紋を残さない為に付けていた手袋を落してしまったのだ。落すとすれば、友人の富田(とみた)を山肌に転げ落したあそこしかない。

 端から殺すつもりで、山に富田を誘ったのだ。金に目が眩めば、いくらでも僕の物を盗む奴だった。財布から、時計、値が付くかもわからないコンテストの記念オブジェ、果ては僕の愛しい、愛しいサチコちゃんまで……。未練がましい話だが、今思えば、サチコちゃんを奪われたことが殺意への決め手となったのかもしれない。

 奴にとある儲け話を持ち掛けた。ある山に松茸の群生地を見付けた、穴場で誰が手を付けている様子もない、と誘えば二つ返事で話に乗ってくれた。

 証拠隠滅の算段は完璧だった。富田の足が残らないよう山へは原付に二人乗りで行ったし、もしかしたら誰が所有している山かもしれないから人目が付かない頃に行こう、と理由付ければ深夜に呼び出すのも簡単だった。元々僕に対し盗みを繰り返していた悪人だ。不法侵入や窃盗を気にするような人間性は持ち得ていない。

 スコップも手袋も、全てが松茸採取のためだと言い訳ができた。更には、頭髪を残さないための防寒具は真冬の対策、唾液を残さないためのマスクはコロナ対策。その装いを富田が疑う余地はなかった。

再度言う。証拠隠滅の算段は完璧だった、完璧だった、はずなのに――。

 富田を山に埋めて帰る時に、泥だらけの服装では不信がられるかもと、現場から離れたところで着替えた。その際に手袋も外したのだ。余計だった。敏感になりすぎた。

 原付の速度は、焦れば焦るほど、上がっていく。

 その速度でも、山まではまだ二十分ほど走らなればならない。時間は二時間にも、三時間にも感じる。

 お願いだから、誰も山に入らないでくれ。

〈そこの原付、止まりなさーい〉

 背後から、男性の音割れしたスピーカー音に呼び止められた。チカチカと赤いランプが回り出す。

 しくじった、警察だ。手袋のことが気になるあまりに、後ろのパトカーに気付かなかった。

 ここで変に巻こうとしたり、急いでいる風を出してしまったら、目を付けられてしまう。おとなしく応じるのが賢明だろう。

 僕は原付を路肩に止め、なるべくゆっくり、そして申し訳なさそうにおずおずと原付を下りてヘルメットを取る。

 ランプを回したまま、パトカーから警官が下りてきた。胸元に警察庁と書かれたジャケットははち切れんばかりで、帽子も心なしか浮いているように見える。

 なんだか鈍臭そうな、いかにも田舎警官という感じだ。これは早いところ切り上げられるかもしれない。

「お兄さん、何キロ出してたの。明らかに制限越えてるよね」

「すみません、DVD返すの忘れてて。ゲオに。隣町の」

「夜中の三時だよ? やってる?」

 間違えた。繕おうと思い過ぎて、意味不明な言い訳が出てしまった。

 冷や汗が一層滲むのがわかる。いや、よく考えろ。DVDを返しに行くのだ。借りるわけじゃない。

「いや、ポスト投函で返せるんですよ。今日までなんで。朝だと寝坊しちゃうから」

「そういうもんなの。取り合えず免許証見して。それと書類はパトカーん中で書くから。免許持ったら乗って」

 どうやら切り抜けたらしい。振る舞いに出ないよう胸を撫でおろす。

 あとは免許証を見せれば終わりだ。この状況でパトカーに乗るのもかなりの緊張感だが、大丈夫。余計なことを言わなければいいのだ。繕おうとしない方が逆にいいのかもしれない。

 しかし、原付の収納スペースを開けたら、落ち着きかけた気持ちがまた飛び上がるように昂った。

 長財布の上に転がる、茶色い玉。

 丸めた手袋だった。

「あっ!」と反射的に声を上げて、手袋を掴んだ手を掲げてしまう。

 途端、警官が拳銃を構える。「あっ」と言葉にならない声が連続する。

「なんだ! 抵抗するのか!」

 僕が取り出したものがナイフとでも思ったのか、警官は血の気立った表情で僕から拳銃を向け続ける。

 ただの速度違反だぞ。その程度で警官脅してまで逃げるわけが――まさか。

 この警官は、恐らく僕が殺人を犯したことを察しているんだ。そうだ、こんな簡単に警官が民間人に拳銃を向けるわけがない。警官の推理からすれば、泥だらけの手袋はその確固たる証拠。鈍臭そうに見えたのも、もしかしたら僕を油断させるための演技だったのかもしれない。

 どうする。手袋の言い訳さえ上手く言えれば切り抜けられるかも……しかし何て言えば。もう手袋の発見をあんな大きなリアクションで喜んでしまっている。昨日の畑仕事で失くしてて、とか言えばいいのか。違う、そんなもの調べればすぐわかるだろ。大体あっちは僕が殺人犯だとほぼ確信しているのだ。泥をバイクの整備のオイル汚れだと……だめだ、質感が違い過ぎる。いっそ逃げてしまった方がいいのか。原付対四駆自動車だぞ、勝てるわけがない。いや、路地裏に入れば巻けるかも……。

「何してる、両手を挙げろ!」

 警官の怒鳴り声が僕の逡巡を遮る。逃げようとした瞬間、撃たれそうな威勢だ。

 どうしてこうなった。完璧だったはずなのに。

 頭の中はみるみるうちに活発な暗雲でいっぱいになっていった。



【二】


 全くじれったい若造だ。もじもじしてないで、さっさとパトカーに乗ってくれないか。こっちは急いでるんだよ。

 何せ、豪邸から運良く警官を倒して抜け出してきたんだ。富田邸は空き巣にしちゃあデカい山だった。随分長い間目を付けていた。夜中に家がもぬけの殻になる隙をずっと狙っていたのだ。しかしまあ、この日の為に足が付かないよう他の盗みを休んでいたツケが来たんだろうな、パトロール中の警官に見付かっちまった。それも、大方金目のモンを盗った後だよ。

 逃げ場はなかったが、勝機が浮かんだ。俺は空き巣にしちゃあ不向きな図体だが、そいつが小柄な警官と相対するときに限って功を奏したんだな。こいつぶっ倒して、警官になっちまえば逃げられる。悪運の強い俺だよ、ぼーっとした田舎警官はただ俺が飛び掛かるだけでひるんじまった。そこを手元の重そうなオブジェで一発、二発。

 警官が参っちまったら、身ぐるみ剥がして、この通りだ。少々サイズが小さいがな。

 とはいえ、盗んだ車がパトカーじゃ足が付くのも時間の問題だ。限界がある。

 ここで二度目のツキが回ってきた。こんな人っ子一人いない真夜中に原付飛ばしてる野郎がいるじゃないか。

 同じ戦法だ。こいつの身ぐるみも剥いで、パトカーから原付に乗り換えちまおう。

 若造は茶色い軍手みたいなものを持ったまま、両手を頭の上に挙げた。目が随分泳いでいる。怯えているんだろう。そりゃあそうだ、拳銃向けられたことなんて人生で一度もないんだろうからな。

「その右手に持っているものはなんだ」

「手袋です、ただの」

「手袋じゃなくて、免許証見せろっつったろ。さっさと免許証持ってパトカーに乗れ」

 もののついでだ。どうせならこいつの財布もいただいておこう。免許証は大抵財布に入ってる。

 若造は目を丸くしたと思うと、一瞬表情が緩む。なんだ、なににホッとしたんだ。

 手袋と入れ違いに財布を取り出すと、わざとらしく申し訳なさそうな雰囲気を作って足取りは緩やかにこちらに近付いて来る。

 拳銃を向けられているんだぞ。どういう感情でその余裕そうな表情ができる。

 腹が立つ。お前が余裕になればなるほど、こっちのリミットは迫るんだよ。

「さっさとしろよ! んで乗ったら服を脱げ」

「え、服を? なんで」

「なんでもだ」

「これってアメリカの映画とかによくある、体で払えば見逃してやる的なことですか」

「野郎の体にゃ興味ねえよ、気持ちわりいな! さっさと脱げ! ぶっ放すぞ」

 イライライライラ……なんなんだ、畜生。自然と歯の割れるような強い舌打ちが出る。声を荒げれば荒げるだけ苛立ちが増してくる。早くしないと掴まっちまう。せめて、服だけでも交換してくれないか。

 若造はピンと来ていない表情で、「取り合えず」とその場で、財布から免許証を取り出す。全然思うようにいかない。怒りに任せて拳銃の尻で頭を搔きむしる。

 その時だった。道路を挟んだ向こうの家から人影が近付いて来るのに気付いた。

 ツキは波だ。幸運の後には、不運が待っている。しかしこんな早く来なくても。

「あのう、うるさいんですけど。何時だと思ってるのかしら」

 ふやけたパジャマを着たばあさんが、シワというシワを深めて怒っている。黒いナイトキャップの下から枯れ木のような顔が生えているもんだから、一瞬シイタケかと思った。

 やばい。これ以上騒ぐと近隣住民が続々起きてきて大騒ぎになる。一旦場を静めよう。そして、この若造は諦めよう。事態が悪すぎる。他のやつを泣く泣く探すしかない。

「おばあちゃん、ごめんね。もうすぐ行くから」

「誰がおばあちゃんだよ! 不眠のせいで老けちまったんだよ!」

 この期に及んで地雷を踏んでしまうとは。横を見れば、頼りなさそうな若造。それも俺が先程まで脅迫していたやつ。

 ひとりでばあさんと若造を処理して逃げなきゃなんねえのかよ。

 ばあさんは唾を飛ばして喚き続けている。骨が折れる、なんてもんじゃなかった。



【三】


 数か月振りの安眠なのに。それを今日に限って阻害しやがって。

「うちはねえ、あんたらみたいに交番でのんべんだらり落とし物の受付してりゃ食べられる家庭じゃないんだよ! ロクに仕事もしない息子の代わりにパートに出かけて、帰ってきたら夕飯作って、眠るのだけが楽しみなんだよ! それなのに昼間ぐうたらしてる息子が夜中になったら朝方までユーチューブの撮影だとかで毎晩大騒ぎ……うちはただでさえ猫がニャーニャーうるさいってのにさあ! ようやくだよ、ようやくなんだよ、息子が寝て静かな夜になったのは。それをまさか警察に邪魔されるとはねえ! ホント公害だよ、公害! 訴えてやる!」

 もう止まらない。全然止まらない。溜め込んで溜め込んで溜め込んだ怒りが、全部この警官に向く。

今の私が誰よりもうるさいことなんて百も承知だ。しかし、今日だけは許してほしい。一晩眠れないことぐらいなんだってんだ。私は何か月も眠れない日々を我慢してこの日を待ってたんだ。

 そう、息子が深い眠りに就くこの日を。

 夫が亡くなってから、引きこもりがちになった息子と共に夕飯を食べたことはなかった。毎日息子の部屋の前に夕飯を持っていき、三度ノックする。それが息子の食事の合図だ。

 部屋から出て仕事に行けなどと、夜中にユーチューブの撮影を止めてほしいなどと私が指図すると手を上げられるから、何も言えなかった。

 だから、気休めかもしれないが、恐る恐る夕食とともに持っていく飲み物をコーラから缶ビールに変えてみた。息子は酒に強い方ではなかったはず。酔わせてしまえば、寝てくれるんじゃないか、って。

 次の日には空になった空き缶が部屋の外に投げ捨てられていて、缶には『明日から二缶持ってこい』と書かれた付箋が貼られていた。満足しているようだった。太ってる割には案外味に頓着はないみたい。

 寝るどころか、酒の勢いで輪をかけて騒がしく撮影するようになったけど、これが私にとって、大きな大きな発見だったの。

 一週間ほど試してみたけど、特に何も不満を言われることはなかった。

 それなら、もしかしたら、いけるかも……。

 今日、息子の缶ビールに睡眠薬を混ぜた。素人ながらに、医者から処方された中でも強力な作用があるものを混入させたつもりだ。

 夕飯を持っていく際、息子と対面するわけでもないのに、胸が高鳴った。もしバレたらどんな報復が待っているんだろう……でも杞憂だったみたい。

 久しぶりに、本当に久しぶりに、静かな夜が待っていた。空気が澄んでいた。これから寝るというのに、星が眩しいくらい輝いていて目が冴えた。

 こんな幸福が続くのなら、もう、息子が一生眠ったままでもいい、と、本気で思った。

 それなのに――。

「ねえ、聞いてるの⁉」

 私はあたふたする警官の肩を掴んで言った。警察は街の治安を良くする機関じゃないのか。国を挙げて私の睡眠を邪魔するつもりなのか。

「ごめんなさい、おばあ……おねえさん。ホント、すぐ出るから」

「おばあっつったねえ! 今おばあっつったねえ! 悪いと思ってるならパトランプ消したらどう⁉」

 回り続けるこの目障りなパトランプ。眠れないのは音だけじゃない、この光も大きな要因だ。深夜に人家の間近、赤い光で煌々照らされて迷惑してるのは私だけじゃないはずだ。

「そうだね、そうだね」と私の体を片手で制止しながら、警官はパトカーに戻って運転席を覗き込む。

 なにやらガチャガチャしている。突然プァーと、鼓膜に刺さるようなサイレン音が鳴り響き、すぐに止んだ。「これじゃない、あれ、これじゃないな」と呟きながら、警官がごそごそ席の奥に頭を埋めていく。

 嫌がらせなのか。眠れないと訴えているのに、さらに騒音を重ねてきた。いまだに、パトランプは回り続けている。

「ランプ消すのにいつまでかかってるのかしら」

「いやあ、点けたのはいいんだけど、どうやって点けたのか忘れちゃって」

「は⁉」

 一声の金切り声が飛び出す。どこまで民間人を舐めているのだろう、この警官は。

 後方でまた、うるさいエンジン音が飛び込んでくる。さっきまでそこに呆然と立っていた若者がバイクのエンジンを回したらしい。

「どこ行くのよ! あなたキップ切られてたんじゃないの」

「いや、もう、いいから、別の人探すから」

 警官が耳元から口を挟む。なんで許してるのよ、なんで若者も素知らぬ顔で去ろうとしてるのよ。

 そして、手袋をパタパタとはためかしながら颯爽とエンジン音だけを投げつけて去って行く。

 道路のすぐ向こう、自宅二階の息子の部屋から猫が「フギャア」と鳴いた。

 全員で私を馬鹿にしている。警官も、若者も、息子も、猫も。


「うるさいって言ってんでしょお! 寝させてよおおおおお!!!」


 みんな、みんな、永遠に寝ちゃえばいいんだ。



【四】

 

「……映ってる? 映ってますか? 大丈夫そう?

 はいどうも、クズにちは~『引きこもリッチchannel』でーす……今夜はね、緊急でカメラ回してますけどもね。

 いつもより声小さいでしょ。そりゃあ真夜中だからね……って毎日バカ騒ぎしといて今さら何言ってんだって感じだよね(笑)。

 今日は兼ねてより! あっ、声出ちゃった……兼ねてより企画してた『お袋で実験 ~人間は何日寝なかったら気が狂うか~』の、緊急中間発表なのよ。それで今日まで毎晩騒音出しまくってたわけだけど……今これ、生配信で回してるのはさ、もうね、まさに今。今だよ。お袋が狂ってる最中なのよ。

 ほらっ……これ見える? 窓の向こう、家の前の道路なんだけど、そう、あのしょぼくれたパジャマのババアがお袋。警察と金切り声で口論してんの。うるさい、寝れないってヒス起こしてるわ(笑)。

 一応さ、今夜はね、何か事件起きるんじゃないかって山張ってたんだよね、うん。なぜかって言うとね……よいしょ、この黄金肉球『ドッキリちゃん』の野生の勘。つーか猫勘? そんな言葉ないか。今朝から我が愛猫ドッキリちゃんが、俺のイタズラを避ける、避ける。前企画やって、アンコール多かったネズミ型爆竹もさ、近寄ることすらしないでやんの。やっぱ猫は知恵付けるとつまんねえ。だから、今度は餌に爆竹仕込んでみようかって……死んじゃうか(笑)。さすがに俺も良心あるからさ、ちゃんと食べる寸前で破裂させるよ。食ってる最中は胸が痛むわ。ドッキリちゃんもなあ、怖いもんなあ。

 まあそんなわけで、今日はそんなドッキリちゃんの猫勘が働いて……って、うっそー。俺の天才的な機転ですわ。でもさ、肉球が黄金色の黒猫なんて、なんか持ってそうじゃない?  第六感的な。スピ系の何か。ってかさ、ホントにこの色、俺マジで何も塗ってないからね。この前もイタズラしかけ過ぎて、何か遺伝子おかしくなって変色したんじゃないかってコメントあったけど、この色……ほらっ見せな。この、肉球の色、拾ってきた時にはもう既にキンピカだから。

 まあ、この肉球だけは傷付けないようにイタズラ仕掛けるよ。金の生る木ならぬ、金の生る肉球だからね。話戻そっか。なんだっけ……ああそうだ、今日山張ってた理由ね。

 先週から、お袋が俺に酒献上するようになったのは伝えたよね。缶ビール。違和感だったわけよ、さすがに。だって俺引きこもって、配信とお袋のパート代でネトゲ課金してるだけだもんそれで待遇良くなるって意味不明でしょ(笑)。

 ってことで、缶ビールを有難く、”グラスに移して”飲ませていただいてました~♪。見せた方が早いかな……これ、グラスに入ってる青いやつ何だと思う? なんとね、ビールなのよ、今日献上された缶ビールの中身。マジだよ。これこそ色付けてねーから。

 お袋缶のまま持ってくるから知らなかったんだろうな、最近の睡眠薬は犯罪防止するために、液体に混ぜると青くなるの。大学生が睡眠薬使ってレイプした事件あったじゃない。ああいうの防ぐ工夫。俺、製薬会社に守られちった(笑)。

 だからさ、今夜もしかしたら、お袋が俺の寝込みでも襲ってくるじゃないかって撮れ高期待して狸寝入りしてたわけさ。そしたらもっと面白いもん撮れた。

 窓見てほら、今パトランプ止めろって絶叫してるよ、お袋。んでまた、全然パトランプ止まんねえの。ドン臭い警官だよ。

 これだけでも十分面白い動画なんだけどさ、せっかくの生配信だから今日来てくれた人たちにおまけ企画。睡眠薬入りのビール、ドッキリちゃんに飲ませたらどうなるか実験~! ……気い抜くとデカい声出ちゃうな。さて、当チャンネル鉄板道具スポイトを手に持ちまして……死にゃあしないとは思うけど、まあちょっと今朝のイタズラ避けられた悔しさもあるからな(笑)。お仕置きってことで。

 ほら、もう夜だから寝なさい、ドッキリちゃん。ほら、おい、暴れるな、お前が悪いんだぞ。口開けろよ、おい」



【五】


「フギャア」

 笑った。このデブニートは、あたしの鳴き声を笑ったのか、怯えたのか、怒ったのかすら区別がつかないんだ。

 こいつに声なんて届いたことは一度だってなかった。これって当たり前だと思う? 猫の意思が人間に伝わるわけないって思う? それはね、意思疎通をしようとしたことがない人間の意見だよ。

 伝わる人には伝わるの。受け取ろうとしてる人には受け取れるの。そういうもんだよ。

 絵空事? そうかもね。でも、あたしにはこの生臭ニートが自分のママを虐めてることも、ビールに睡眠薬投入されたことも、今ユーチューブの生配信であたしにその睡眠薬ビールを飲ませようとしてることも伝わってるよ。

 伝わった上で笑ったの。その理由は二つある。

 一つは、こいつ、声は潜めてるけど相当な興奮状態にあること。何が山張ってた、だよ。ママから薬で反撃食らってふて寝してただけじゃないの。だから、さっきの撮れ高は棚からぼたもち。思わぬラッキーに高揚して、生配信なんてイキったことしてるんだ。登録者数三十五人しかいないチャンネルでさ。つまりさ、こいつは今冷静じゃないんだよ。

 もう一つは――こっちの方が大事。生配信中だってこと。

 こいつの醜態をネットに残せるチャンスだってことだよ。

「痛ってえ!」

 あたしは、カメラにあたしとデブがしっかり映ったタイミングで、思いっきり顔面を引っ掻いた。あんだけハードなイタズラ仕掛けるんだったら、爪ぐらい切っとけ、バカ。

 バカは、大した傷でもないのに「血だ、血だ」って半泣きでティッシュで顔を拭ってる。

 軽傷で結構。飼い猫の爪で人間の雄をぶっ殺せるなんて思ってないよ。あたしの目的は他にある。

 あたしはフィギュア棚に跳び乗った。ママが稼いだお金で買った、半裸ゲームキャラがズラッと並んでいる。でも、そのどれもがホコリを被っていて、中には倒れてたり、後ろを向いてるものも。可哀そうにね。この娘らにだって意思はあるのに。

 自分で稼いだお金で買ってないから、愛着が湧かないのかね。醜いね。

 さて、挑発をひとつ。

「ホニャア」

「てめえ! 俺が拾わなかったら野垂れ死んでたんだぞ!」

 青筋立ったヤツは、狭い部屋で巨体を揺らして突進してくる。そんな愚鈍な動きで捕まえられるわけないだろ。あたしは別の棚に移るよ。

 がっしゃあん! ヒット! 案の定フィギュア棚に突っ込んでいった。

 愛着がないからそんなに全力で突っ込めるんだよ。自分から愛さなきゃ一生愛されないよ。そんなこと今はどうだっていいんだけどさ。

 パラパラと巨体の背中に崩れ落ちるフィギュアたち。壊れちゃったものもある。それらを跳ねのけるようにぐるんと振り返ったその顔は、タコみたいに真っ赤だった。

「ぶっ殺してやる! 拾ってやった恩を忘れたかクソ猫!」

 泣いてる、泣いてる。怒り泣き。あのさ、恩着せがましく拾った、拾った、って言うけど、あたし拾ってくれたの、亡くなったアンタのパパだからね。

 でも、良い。絶好調だよ、おデブくん。そのまま理性をどんどん失ってくれ。

 あたしがいま背中伸ばしてる棚は、アンタが十年余り開いてない教科書やら参考書の本棚だよ。愛着なんて、もっとないよね。

 さあおいで。そのフィギュア棚の脇に置いてある金属バットを掴んでさ。

 アンタにそのバットをゲットさせるために、フィギュア棚に突っ込ませたんだから。

 散々ママを脅した金属バットをさ。

「ムニャア」

「舐めてんじゃねえぞ!」

 バットを杖に起き上ったら、その反動のまま本棚目掛けて片手でスイングする。あたしは、バットと同じ速度で、窓際に跳び移る。

 間髪入れずに「フシャアアア」と威嚇。もちろんすぐにあたし目掛けてバットを振り被る。

「死ね死ね死ね死ね」

 下品な言葉を何度も連呼してる奴の頭の中には、今がまだ、生配信中だってことなんてすっかり飛んでるんだろうな。


 取り合えず、最後だけ、ありがとう、だわ。

 この動画、バズるといいね。猫とママ虐めたキチガイ配信者の末路として。


 窓を目掛けて振り下ろされた金属バットは、綺麗な音を四方八方に散らばらせながら大小さまざまなガラス片を舞い上げた。

 あたしはすんでのところで、バットを避けて、奴の汚い頭に飛び乗る。

 舞ったガラス片が床に落ちるまでは一瞬。人間の反射神経では反応できっこない刹那。

 瞬きの間の安全圏を見計らってヤツの頭を蹴り、あたしは割れた窓から外に跳び出した。


 ここは二階。久しぶりの感覚。

 こういう時に、「ああ、あたし、猫でよかった」って思うんだよな。



【六】


 空気の成分は、約七八%が窒素様で構成されています。

 それに比べて我々、酸素たちはたったの約二一%。微々たるものです。

 しかし、この地球という星の生態系を支配する人間たちが生存する上では、最重要成分と言っても過言ではありません。

 人間は、我々がいなくなれば滅んでしまう儚い生き物。それなのに、今日も我々の存在をあって当たり前と慢心し、激しく口論したり、焦ったり、怒声を交わしたりと、無駄遣いならぬ無駄呼吸。残念極まりないことです。

「あれえ、ランプどうやって止めたんだかさっぱり」

「いい加減にしてよ! あなた本当に警官⁉ 偽物じゃないでしょうね! 眩暈してきた」

 警官とご婦人が夜中に激論を繰り広げていますね。先程から何十分もこの調子です。

このように街の治安が荒れると、我々はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ酸素濃度を変えて、解決に導きます。

 例えば、警官の方はついさっきまで血気盛んでしたが、ほんの少し酸素濃度を減らしたらぼーっとして、このようにぼんやり。口論は同じテンションが拮抗していると、いつまでもバトルし続けてしまいます。

 しかし、なかなか喧嘩が収まりませんね。ご婦人の方の酸素濃度も減らしたはずなのですが。何かいいアイディアはないものか……。


 ん、今パリンと景気のいい音が鳴りましたね。

 どうやら、口論をしているお二人の向かいに建つ家の窓ガラスが割れたようです。そこのお部屋、随分換気していなかったみたいですねえ。新しい酸素たちが窓に吸い込まれるように次々と入っていきます。これだけ新しい酸素が入ると、住人も清々しい気持ちになるでしょうね。

 ――そうだ! 逆に酸素濃度を高めることにしましょう。

 警官とご婦人のいる周辺の酸素濃度を一時的に引き上げて、脳に大量の酸素を送ります。あえて頭をすっきりさせた方が、解決の道をお二人自ら導き出せるのではないでしょうか。

 そうと決まれば、早速……ぐぐっと……ぐぐっと……もう一声……。

 ほら、もう警官の方の顔色がすっかり良くなって――。

「偽物? 俺が偽物の警官だと⁉ どこで見破ったんだシイタケババア!」

 随分活発になりましたね。少し活発になり過ぎたのかも……おや、あれは拳銃? ご婦人に突き付けてますよ。

「バレたら死んでもらうしかねえんだよ!」

 まずい、まずいですね、警官の方撃つ気ですね。

 だめなんですよ、本当に。この酸素濃度内で火花が散ったら二人とも跡形もなくなるほどの大爆発――



――あっ。ドッキリちゃんだ。



 ■



 ■




 ■





 ■




 いやあ、煌びやかですね、ドッキリちゃん。

 路肩に沿って業火が走っていて、そのいたるところから火の粉が舞い踊っている。深夜三時とは思えない明るさですな。

 見事なものです。人間の愚かさも、見ようによってはこんなに美しいものなんですね。

 しかし、ドッキリちゃんこそ、お見事。爆風で舞い上がった後に、そのまま自宅の屋根に着地して、無傷とは。猫っていうのは、大体そういうもんなんですかね?


 え、もうドッキリちゃんじゃない?

 幸子(サチコ)? あなたの名前が?

 名前がふたつもあるんですか。


 へえ、なるほど。

 子猫の時分に拾ってくれた人に付けてもらった名前なんですか。

 『子』には『(はじめ)』から『(おわり)』という意味があって、生まれたからには最期まで幸せでいてほしいとの願いを込め『幸子』ですか。なんだか、人の子みたいな名前ですな。


 あなたの言葉ですか? そりゃあ伝わりますよ。

 我々なんて酸素ですからね。酸素にさえ意思があるんですから、猫に意思がないわけがない。全てに意思はあるんです。それを受取ろうって思って聞けば伝わるものです。

 ――幸子さんの名付け親も同じこと言ってたって? そりゃあ猫と意思疎通を取ろうと努力する、良い飼い主さんだったんですね。


 ほう、それはまた。

 幸子と名付けてくれた親の元から、その友人の富田という男に「車を傷付けられた弁償代」だといちゃもんを付けられて奪い去られたと。

 ああ、肉球が黄金色だから、高く売れるんじゃないかと、ね。

 そしたら、黄金色が自然のものだと誰にも信じてもらえず売り物にならなかった。

 金にならないと見限られ、すぐにまた、捨てられた。それで、今の家主に拾われた、と。

 随分と忙しい半生ですね。


 あ、まだ二歳! それは御見それしました。

 しかし、幸子さんの家、これ、一階には完全に火が回ってますから、二階まで燃え上がるのもあっという間ですよ。飼い主さん、二階で狂乱して喚いてますし、恐らく死にます。

 これからどうされるんですか? 今は炎がありますから暖かいですけど、この寒空の下の野宿は試練ですよ。


 行く場所が決まってる?

 さっき原付で去って行った人の家?

 幸子と名付けてくれた人?

 そうですか――これも何かの縁ですから、我々もそこまで同行させてください。

 酸素濃度が常に高めだと疲れませんから。


 えっ、なんですか?

 ああ、炎ねえ……いや、いいんです。

 おっしゃる通り、一旦酸素濃度を低くすれば、あっと言う間に鎮火できます。

 でもね、なんでしょうね。

 地獄の業火に焼かれるような光景がこの街の治安には妥当な気がしてね。

 人間たちには不幸でしょうが、なぜだが今、我々酸素は幸せです。


 あ、もう行くんですか?

 もう少し見ていきましょうよ。なかなかこんな光景目の当たりにできませんから。

 ねえ、聞いてます、幸子さん。


「あたしはアンタの幸せ願ってる余裕はないの。やっと幸子に戻れたんだよ。

あたしは、あ・た・し・を、幸せにしてあげなきゃ。

 だから、もう行くの」




(おわり)

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