朝
朝。
いつもと変わらない朝。
何の変哲もない朝。
薄い布団の中で、僕は目を覚ました。母親はまだ仕事から帰ってきておらず、部屋には僕一人。いつものことだ。
築三十年、2LDKのマンションの部屋。床にも壁にも天井にもところどころ消えないシミがついている。閉めたカーテンの隙間を縫って日の光が弱々しく室内に差しこんでくる。
おはようを言う相手も、言ってくれる相手もいない。重い体を起こしてリビングに向かうと、テーブルの上に千円札が無造作に置いてあった。これが僕の今日一日分の生活費だ。
僕に父親はいない。母は若くして結婚し、僕を生んだ。世間体の良い場合には授かり婚と呼ばれ、世間体が悪い場合にはデキちゃった婚と呼ばれるやつだ。そして僕が物心つく前に離婚した。それ以後父親とは会ったことがないので、僕は父親の顔を知らない。
母はシングルマザーとして働きながら僕を養ってくれている。両親が離婚したあと、しばらくの間は父親から養育費が支払われていたらしいが、それもやがて途絶えたらしい。離婚してから、母は僕が知る限りでも数人の男性と交際していた。何人かと会わせられたことがあるけれど、二回以上会った人はいない。
新しい男性に出逢い、別れるたびに、母の態度は冷たくなっていった。父親になるかもしれない男性に僕がもう少し愛想良く振る舞っていたら、結果は違ったのだろうか。僕には男女のことはわからないけれど、きっとそうなのだろう。
僕はシリアルに牛乳をかけて手早く朝食を済ませた。温かい朝食を食べたのはもう何年前だろうか。母はたいてい夕方から仕事に出かけ、昼頃に帰ってくる。夜の仕事だから、学校に通っている僕とは生活リズムが合わず、顔を合わせることはあまりない。とはいえずっと職場にいるわけでもないはず。また新しい男ができて、その男のところにいるのかもしれない。ただ単に僕の顔を見たくないだけかもしれない。会話も必要最低限しかしないし。
家族とは言っても血が繋がっているだけの他人だ。母には母の人生がある。学費や生活費を出してもらっているだけでもありがたい。いちおう都内でも上位の中高一貫校に入れてもらって、塾にも通わせてもらっている。それが母の愛情の形なのだ。僕は勉強でそれを返すしかない。そう思うことにしている。
身支度を整えて僕はマンションを出た。
今日もまた憂鬱な一日が始まる。最近夜なかなか寝付けず、日中猛烈な眠気が襲ってくる。眠れない夜、このまま夜が明けないでくれと何度願ったかわからない。それなのに、太陽は飽きもせず毎日顔を出してくる。冬は夜が長いから好きだ。夏が暑すぎて嫌いなせいもあるけれど。
季節は梅雨。空は曇っている。あいにくの曇り空、という慣用表現があるが、雲一つない快晴よりも雨や曇りのほうが好ましい。僕には太陽は眩しすぎる。
通学には電車を使う。毎日過酷な満員電車に揺られながら、もっと過酷な学校へ行かなければならない。
最寄り駅への道を歩いていると、不意に声をかけられた。
「おはよ~、怜流」
知り合いの黒川陽菜だ。
黒髪でショートカット。元々地黒な上に陸上部に所属しているのでギャルかと思うほど黒い。
黒川とは子供の頃に数年間――元父親からまだ養育費がちゃんと振り込まれていた時期――同じマンションの隣の部屋に住んでいたことがあり、それ以来の知り合いだ。小学校も中学校もたまたま同じで、クラスは違うが顔を合わせれば挨拶をする程度の仲。
というのは、ちょっと過少な評価かもしれない。
引っ越したと言っても、僕たち親子はすぐ近くのマンションに移動しただけだったので、通学路では時々会ったりして、その度に声をかけられる。なんて言葉にすると何か甘酸っぱい予感がするかもしれないが、実際はそんな雰囲気ではなく。
「おはよう、黒川」
「怜流、今日はごはんちゃんと食べてきた? 成長期なんだからご飯はちゃんと食べなきゃダメだよ。一日三食、バランス良く。脂質、糖質、タンパク質。食物繊維も忘れずにね。まごはやさしい、って知ってる? バランスのいい食事の頭文字をとった言葉なんだって。豆、ゴマ、わかめ、ってこれは海藻類のことね。野菜、魚、椎茸、つまりキノコ類、最後に芋。根菜類のこと。こんな感じで色々食べるといいんだってさ。でも、これだと肉が入ってないからちょっと物足りないよね。ってことで、あたしはこれに肉の『に』を加えて、まごにはやさしい、っていうのを提唱していきたいんだけど、どう思う? いいアイディアじゃない?」
黒川は病的なほどにお喋りだ。放っておくといつまでもこんな調子で喋り続けるので、聞いているだけでも疲れてくる。顔はあまり美少女というタイプではないが、底抜けに明るい性格でこの通りよく喋るので、入学間もない頃やクラス替えの直後はコミニュケーション能力が高そうに見えてそれなりに人気者になるのだが、次第に皆うんざりして離れていく。
そして、そんな黒川のことが、僕はちょっと苦手だ。
今日のは珍しく新しい話題だったけれど、黒川はお年寄りみたいに同じ話を何度も繰り返し語ったりする。話したことを忘れているのか、覚えているけど同じ話でもずっと喋り続けなければならないという強迫観念に駆られているのか、どちらにしても聞かされるこちらとしては厄介だ。さらに、押しつけがましいほどのプラス思考で一切の遠慮なくまくし立てる。
僕は適当な返事を投げた。
「うん、そうだね」
こうやって相槌だけうっておくのが最も楽な対処法だ。これで『ちゃんと話聞いてる?』などと絡んでくることがないのが幸い。
「でしょでしょ? 怜流も広めてよ、まごにはやさしい、って。最近の若い子は朝食食べない子が多いって言われてるけどさ、やっぱり大事だよ朝食は。一日の始まり、一日の活力だもんね。朝ごはん食べないと、仕事も勉強も恋も上手くいかないと思うわけ。あたしは今日はねえ、えっと、ごはんと、目玉焼きと、ウインナーと、あとサラダ。牛乳も飲んできた。今日は母さんが早番で忙しいから、これでもいつもよりは少ないんだけど。ごはんはおかわりまでしちゃったよ。怜流は?」
「フルグラ」
「また? 他には?」
「それだけだよ」
「だ~めだよそんなんじゃ! 絶対授業中お腹すくじゃん! あたしなら絶対耐えられない。二限で餓死しちゃうわ。お母さん、作ってくれないの? 相変わらずお仕事忙しいの?」
「うん、まあ、そんなところ」
「ん~まあ、それは仕方ないところではあるけどねえ、まだ中学生のあたしらにはわからない苦労があるんだと思うけど……でもうちの母さんも、売り場の主任? かなんかだけど、家のことちゃんとやってくれてるよ。新宿のデパートの化粧品売り場。ベテランビューティアドバイザー、略してBBAなんて自分で言ってるんだけど、ベテランの頭文字はVなんだよね」
お母さんの話を聞かされるのは多分これで十二回目だ。聞きようによっては嫌味にも聞こえるここまでの会話を一切の悪気なく行えるのは最早、一種の才能とさえ言えるかもしれない。そんな黒川もさすがに満員電車の中ではある程度黙ってくれるので、黒川が一緒にいるときは満員電車で心が安らぐという異常な状態が発生する。改札を通ったら、それまでの鬱憤を晴らすとばかりにまた喋り始めるわけだが……。
黒川のエンドレスお喋りに付き合いながら、僕は学校に辿り着いた。上履きに履き替えながら、黒川が不意に言う。
「ねえ怜流っち、最近学校つくと元気なくなるけど、大丈夫?」
ずっと自分の話しかしてないように見えて、意外に他人のことを観察している黒川である。
「元気ならいつもないよ」
「そうだけど、学校近くなると特にさ」
「学校がダルいだけだよ。普通でしょ」
「ほんとかなぁ」
黒川とはクラスが違うので、校舎に入るときに別れることになる。別れ際に黒川が言った。
「まあ元気だしなよ怜流、生きてれば必ずいいことあるし、努力は必ず報われるからさ。じゃ、今日も一日がんばろ!」
生きてれば必ずいいことがあるし、努力は必ず報われる。黒川が口癖のように言う、おそらく彼女の座右の銘みたいなものなんだと思う。
僕は黒川のこういうところが一番苦手だ。
夜眠れないので、昼間、とくに授業中はひたすら眠い。
勉強を頑張らないと、と思えば思うほど眠くなる。夜には少し目が冴えてくるので、塾での勉強を頑張りつつ、寝る前に授業の内容を復習して何とか追いつく感じ。
今日の一限目は数学。一限目の数学は、眠気がピークを迎えるシチュエーションだ。
!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i
「サトル? サトル!」
誰かが僕を呼んでいる。やばい、寝ちゃってたか?
数学教師の板倉はネチネチと陰湿にいびってくるタイプだからこれはまずい。
でも、あいつ下の名前で僕を呼んだことなんてあったっけ?
惰眠を貪っていた脳内に、一瞬にして様々な思考が駆け巡る。しかしとにかく呼ばれたからには起きて返事をしなければならない。僕は飛び起きてその場に起立した。
「は、はいっ! ……え?」
そこは教室ではなかった。頭上に広がる黒雲。体に吹き付ける湿った風。
周囲を見渡すと、大小の石造りの家が林立している。足元を見ると粗い石畳。まるで中世ヨーロッパの小さな村みたいな風景だ。
まだ夜にはなっていないはずだが、曇天の日陰なので昼とは思えないほど薄暗い。どこからか、男の野太い声と女性の悲鳴のような声が聞こえる。
「サトル! 来てくれたのね!」
顔を上げ、声のした方を振り向くと、家々の間を縫うように伸びる狭い路地、その中に佇むエリーゼの姿があった。




