シスター・エリーゼ
「あれ、おきた?」
「あくま、おきた?」
耳元で幼い子供の声がする。それも一人や二人じゃない。もっとたくさんの。
目を覚ますと、ざっと十人以上の子供が僕の顔を見下ろしている。僕は驚いて飛び起きた。
「うわっ!!! な、何なんだ、君たち!」
「おきたおきた~!」
「エリーゼさまにおしえてこよ~」
と、数人の子供が部屋を飛び出していく。残った子供たちは、興味津々な表情で僕の様子を窺っていた。
僕は辺りを見回した。それほど広い部屋ではない。石造りの壁に囲まれて、木製の小さなベッドがたくさん並べられている。そのうちの一つに、僕は寝かせられていた。ベッドといってもマットレスはない。一応布は敷かれているけれど、なんだかゴワゴワした感触。硬い木の上に直接寝るよりはまあマシかもしれないが、寝心地はあまり良くないし、そのせいかはわからないが体のあちこちが少し痛む。
僕を取り囲んでいる子供たちも、服はところどころ切れたり汚れたりしている。テレビのニュースの難民キャンプの映像で見るような感じだ。
窓ガラスの外は、すっかり夜が更けている。室内に蛍光灯はなく、子供たちが持っているランタンが唯一の光源だった。
僕は自分の体を確かめた。白い肌、細い腕、中学の制服……普段の僕の姿だ。悪魔呼ばわりされた異形の怪物の形跡はどこにもない。神城たちにイジられていた時にびしょ濡れになったはずのシャツやズボンが乾いていることが、唯一の変化と言えるだろうか。
どこなんだ、ここは。
いったい何故こんなことに……?
全くわけがわからない。僕は何をしていたんだっけ。
いや、これは夢? それにしてはあまりにもリアルな感触。
学校に行って普通に一日過ごして、放課後に――これは思い出さなくていいか――その最中に、なにか妙な感覚に襲われて、気が付いたら変な場所にいた。僕も変な姿になっていた。その辺りの記憶は曖昧で、気付けば目の前に黒衣のシスターが立っていたんだ。
そして、そう……ピンクの髪をしたシスターの顔が脳裏によみがえる。エリーゼ。金髪の女剣士からはそう呼ばれていた。
エリーゼ……さっきの子供が言っていた名前も、エリーゼだったか……?
僕は子供たちに尋ねた。
「……ねえ、君たち、ここはどこ? エリーゼっていう女の人を知ってる?」
「ここは、エリーゼ様の修道院だよ」
と、子供たちの向こうから、少し年長の女の子の声が聞こえた。子供たちも立ち上がり、その声のした方を振り返る。
ショートカットの髪は橙色。瞳はエメラルドみたいに澄んだ緑だ。やや色黒で、口調や身長から考えてもこの中で一番年上なのは間違いないが、それでも僕よりは年下、小学校の高学年ぐらいに見える。髪や目の色は全然違うけれど、顔立ちは何となく僕の知り合いに雰囲気が似ている。
明らかに日本人ではなさそうなのに日本語が通じることにも今更ながら気付いたが、それは今深掘りするところじゃないだろう。僕はオウム返しで尋ねた。
「修道院?」
「そう。キミは悪魔としてエリーゼ様に召喚されて、悪い兵隊たちと戦って、そこで気絶してここに運ばれてきたの。それからずっと……三、四時間ぐらいかな、ここでグースカ寝てたってわけ」
「グースカ……いびきかいてた?」
「いや、かいてないけど。言葉の綾よ。あたしの名前はブリジッド。ここの子供たちの姉貴分って感じかな。よろしく」
「あ、ああ……よろしく、ブリジッド」
言葉の綾、なんて随分難しい言葉を知ってるんだな、と思っていると、子供を大勢引き連れて、シスター・エリーゼがやってきた。
「まあ、お目覚めになられたのですね。突然倒れられたときは、どうなることかと」
「あ……どうも」
僕はベッドの上で正座に座り直した。様という呼称をつけられるような人と話すときには、なんとなくちゃんとしなければいけないような気がして。
「いえ、どうぞ、そのまま楽にしていてください」
「あ、はい」
「あなたには、お聞きしたいことがたくさんあります」
そう言うと、エリーゼは躊躇なくこちらに近付いてきて、ベッドに、つまり僕の隣に腰掛けた。
すぐ近くで見て初めて気づいたことだが、エリーゼは、たぶん、胸が、すごく大きい。ゆったりした黒い修道服で胴体に幅があるように見えるが、顔周りも肩幅も華奢で、全然ぽっちゃりではないからだ。
そして、改めて思った。すごく、かわいい。
「そう、まず自己紹介をしなければいけませんね。私の名前はエリーゼ。あなたは?」
「え、えーと、僕は、怜流って言います。芒戸怜流」
キラキラネームではないが、当て字ではある。名前はとにかく、苗字のほうも初見で正しく読んでもらえることはほとんどない。自分の名前でなかったら僕も絶対読めないだろうし。
「サトル? サトルがファーストネームなの?」
「ファーストネーム……下の名前のことか。はい、そうです」
「じゃあ、私たちの世界では、サトル・ノギトね。よろしく、サトル」
日本語が通じるのに名前の順番は欧米風なんだな、と思った。いや、常識はこの際考えないほうがいいのかもしれない。この明らかに異常な状況の中では。
「一応、確認しておくけど……サトルは人間……よね?」
「はい、もちろん」
「だよね、どう見ても……」
と、エリーゼは僕の頭からつま先までしげしげと眺める。どこからどう見ても人間。ホモサピエンスのはずだ。さっきはなんか変な姿になってたけど。
本当にこれは夢ではないのだろうか、ふと考えて、僕は自分の頬をつねってみた。普通に痛かった。思わずイデッと小さく声を上げると、エリーゼはクスリと笑った。
「ふふ。信じられないかもしれないけれど、これは夢ではないですよ」
「ふぁ……ふぁい」
「質問ばかりでごめんなさい、最後にもう一つ。サトルはどこから来たの? 悪魔として召喚しておいてこんなことを言うのも妙かもしれないけど、言葉は通じるし、姿かたちも私たちと同じ人間のようだし、でも見たことのない服装をしているから……」
「僕は、日本の、東京から……」
「ニホン? トーキョー?」
エリーゼはわずかに首をかしげる。
「異国の本も結構読んでいるはずだけど、聞いたことのない国の名前だわ……」
「マカイの町の名前なんだ!」
と、一人の子供が言った。
悪魔として呼ばれた僕が住んでいる世界だから魔界ってことか。
なるほど、言い得て妙かもしれない。
人間ほど恐ろしい生き物はないと思うから。
ここで会話がいったん途切れたので、僕は僕なりに自分が置かれている状況を整理してみた。
まず、おそらく確かなのは、ここは僕が生まれ育った世界とは異なる世界、あるいは異なる時空だということだ。21世紀の社会で、エリーゼが彼女の言う通りある程度本などから情報を得ているのならば、ニホン、トーキョーという単語ぐらいは知っているはずだ。だいいち、日本語で会話ができるのに日本を知らないわけはないだろう。
それに、この世界は21世紀の人間社会とは文明レベルがだいぶ違うようだ。この部屋には電気製品が全くないし、異形の怪物になっていた時の僕が殴っていた男たちは、剣と甲冑を装備していた。いくら発展途上国の紛争地域でも、装備は銃器が主体。さすがに今時剣と鎧で戦っている人はいないはずだ。
ってかよくよく考えたら、日本を知らなくて明らかに日本人じゃない人と日本語で会話が成立してる時点で、常識では考えられない、現実世界では有り得ないんだからもう異世界確定じゃないか。
つまり、僕は異世界に召喚されたんだ。ラノベみたいな話だけど、そう仮定しないと何も考えられない。
それをエリーゼに確かめてみることにした。
「あ、あの、エリーゼさんは、どうして僕をこの世界に連れて来たんですか?」
エリーゼは目を細める。
「エリーゼ、でいいよ。私は、古文書に書かれていた悪魔を召喚する魔法陣を使って、悪魔を呼び出した。召喚した直後のサトルはたしかに悪魔だった。そのときの記憶はある?」
「はい、おぼろげながら……向こうの世界で普通に生活してる最中に、突然気が遠くなるような感覚があって……気が付いたら、あの男の人たちを殴ってました」
さすがにイジられてる最中だったとか、その相手をいたぶる想像のつもりでやっていたなんて言えない。こちらの世界にやってくる寸前、何か声が聞こえたような気がしたけれど、それがどんな言葉だったのか、この時は思い出せなかった。
「なるほどね……この召喚術は、違う世界で暮らしている人間を悪魔に変えて呼び出す、という性質のものだったのね」
エリーゼは感心したような表情で大きく頷く。と、ここで僕は彼女に確かめておかなければならない大事なことを思い出した。
「ところでエリーゼさ……エリーゼ、その召喚術っていうの、元の世界に戻す方法とかはあるんですか?」
「その疑問はとてもよくわかる。本には『接吻によって悪魔を還すことができる』としか書いてなくて、他の方法については記述が全くないの。だから、サトルを人間の姿に戻すことはできたけれど、元の世界に返してあげる方法は、今のところ見当もつかない。一応、君が寝ている間に色々本を読んで調べてはみたんだけれど、手掛かりになるようなものすら見つからないの。本当にごめんなさい、こんなことになるとは思わなくて……」
そう呟くと、エリーゼは少し瞳を潤ませる。
元に戻る方法がわからない、なんて言われたら、絶望するのが普通の反応なのかもしれない。でも僕はどこかホッとしていた。ネットが使えないとか、電気がなさそうとか、生活は色々と不便そうだけど、向こうの世界には僕を待ってくれている人なんていない。親でさえそうなのだ。
疎まれ、蔑まれ、イジられ……生まれてきてよかったなんて思ったことはただの一度もない。誕生日を迎えるたびに気が重くなる。僕が存在しなければ、あの世界は僕一人ぶん幸せな世界になるかもしれない。だから、エリーゼに訊いてはみたけれど、僕は元の世界に戻りたいと思っているわけではなかった。
「いえ、別に、あんまり元の世界に戻りたいわけでもないし、大丈夫です。気にしないでください」
「ありがとう。優しいのね、サトルは」
エリーゼはそう言うと、再び目を細めた。
それに――そう、向こうの世界では、何者でもない僕に対してこんなに優しく温かく話しかけてくれる人はいない。飲食店の店員さんなどは丁寧に接客してくれるが、それはあくまで僕が客だからであって、僕に対して優しくしてくれているわけではない。
だから、僕の名前をちゃんと呼んで、優しく微笑みかけてくれる人は、エリーゼだけだと言ってもよかった。
硬いベッドも、ランタンの弱い明かりも、この夜の静けさも、エリーゼの微笑みも、これまでに感じたことのない安らぎを与えてくれる。目覚めてまだ十分も経っていないのに、僕にはそう思えた。
夢なら醒めないでほしい。
僕はもう一つ質問を重ねた。
「あ、あの。何故、悪魔を呼び出そうと思ったんですか? ブリジッドがさっきここは修道院だって言っていたし、神に仕える立場の人が、どうして悪魔を?」
するとエリーゼは、視線を窓の外へ向け、遠い目をしながら答えた。
「それは……すべてを伝えようと思うと、とても話が長くなってしまう。一つは、ならず者から自分たちの身を守るために、力が必要だったから」
「ならず者……あの鎧を着た兵士みたいなやつらですか?」
「そう。暇を持て余した兵士が、時々ああやってちょっかいをかけにくるの。ヴァレリーが気にかけて助けに来てはくれるんだけど、頼ってばかりもいられないし……それと、もう一つは、確かめたかったから」
「確かめたかった?」
エリーゼはここで一度言葉を切り、一瞬の沈黙が流れる。
子供たちも大人しく僕らの話を聞いていた。
不意に強い風が窓を叩き、ランタンの淡い明かりがゆらりと揺れる。
十秒か、二十秒か――不自然な沈黙のあとで、エリーゼは僕の目を見て、これまでになく真剣な、それでいて少し物憂げな表情で言った。
「ごめん、うまく話がまとまらない。この世界のことを知らない人に説明するのは難しい。でも、そうね……今は、私も……私の方が、ならず者なのかもしれない……だって私は、もう魔女だもの」
と、その時。
突然意識が遠のいて、この世界に召喚されたときと同じ、吸い上げられるような感覚を覚えた。夥しい量の情報の渦の中で、削ぎ落とされたはずのものがベタベタと体にまとわりついてくる。
そして気が付くと、目の前に妻夫木、星野、佐藤の顔が並んでいた。
何も変わらない。僕はびしょ濡れの制服の冷たさに震えながら男子トイレの個室の便座に座っている。これが現実だ。僕は束の間の夢を見ていたのだろうか。神城の姿はもう見えなかった。
星野たちが言った。
「あ、ようやく目ェ覚ましたっぽいな」
「何だよブツブツブツブツ寝言言いやがって。キモ」
「キモいからもう帰るわ。床、濡れてるから拭いとけよ芒戸。んじゃな。」
吐き捨てるようにそう言うと、三人はぞろぞろとトイレを出て行って、僕一人だけが残された。
急速に体の熱が奪われていく。
濡れた制服から滴る水滴の音が響きそうなぐらいに静かだった。