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憎みなさい、愛するために

 いつも私の創作活動に動機と閃きを与えてくれる

 ALI PROJECTの皆様とその楽曲たちに捧ぐ

「ほ~~らよっと!」


 威勢の良いかけ声と共に、氷水のように冷たい水が降ってくる。

 放課後の深い時間、ほとんど誰も来ない校舎の片隅。男子トイレの個室の中で、ズボンを履いたまま洋式便座に腰掛けながら、僕は身を縮めた。

 用を足していたわけではない。

 自分の意思でトイレに入ったわけでもない。

 鍵もかかっていない。僕はこの個室に閉じ込められているのだ。

 個室の扉が外から乱暴に開かれて、薄笑いを浮かべた同級生たちの顔がこちらを覗き込んでくる。


「はっはっは、マジでびしょ濡れになってやんの」

「ドラマとかで時々見るこれ、一回やってみたかったんだよな」


 バケツを持った妻夫木と佐藤が笑い合い、びしょ濡れになった僕の姿を星野がスマートフォンで撮影している。その向こう、一番奥で、三人に指示を出した神城が、その端正な顔立ちを崩さずにじっと僕を見つめていた。彫像のように虚ろな瞳で。無表情のようにも見えるけれど、口元だけがかすかに笑っている。


 でも、これはいじめではない。

 この学校にはいじめが存在しないからだ。

 だから、これはいじめではない。強いて言えば、そう、イジりだ。

 みんな笑っている。

 根暗で陰キャで友達のいない僕を、みんなでイジって面白くしてくれている。

 もし僕が自ら命を絶ったとしても、学校はその見解を曲げないだろう。


 神城の父親は都内の大病院の院長。容姿端麗、成績も優秀で、クラスの学級委員長でもある。みんなからの人望も厚い。それに比べて、顔は貧相、成績は中の下、運動も苦手。母子家庭で金もない、スクールカースト最底辺の僕が彼によるいじめを告発しても、教師も学校もクラスメイトも、誰も真剣に取り合ってはくれないだろう。

 現に担任の教師なんかは、僕の制服が乱れていても、頻繁に物が無くなっていても、見て見ぬふりをしているのだ。

 もしかしたら取り巻きの妻夫木、佐藤、星野ぐらいはどうにかできるかもしれないが、こいつらは絶対に神城を庇うはずだ。何故なら、神城はこいつらに金を渡して僕をイジらせているから。それは一般的な中学生のお小遣いを大きく越えた額らしい。つまり数万単位ということ。今まで渡した額を合わせたら数十万円にもなるのではないか。

 学校もクラスメイトも奴の味方。

 だから、もう、諦めるしかない。


 彼らのイジりはこれが初めてではない。むしろ今までされてきたことに比べれば、今日のはただ冷たいだけだからマシなほうだと言える。軽い暴力なんて日常茶飯事だ。彼らの前で自慰行為をさせられたこともある。その様子はもちろんスマートフォンのカメラで撮影された。僕が彼らに反抗的な態度を取ったら、まず間違いなくその動画は学校中にばら撒かれるだろう。


 神城たちのイジりを受けているとき、僕は自分の心を完全に停止させている。体の感覚や意識から引き離して、心だけを別の世界、別の時空に逃がすようなイメージ。瞑想に近い状態なのかもしれない。心を閉ざして感情をシャットアウトし、気付けばイジりが終わっている。心頭滅却すれば火もまた涼し、という言葉があるけれど、あれはなかなか当を得た表現だと思う。

 僕は心頭滅却し、神城たちが飽きるのを待った。前髪から垂れる冷たい水滴が、手や膝にぽたぽたと落ちてくる。濡れた制服のズボンを通して伝わってくる暖房便座の温かさが、この世界で唯一つのぬくもりだった。


 息を殺す。

 意識を殺す。

 心を殺す。

 そう、少しだけ、今だけ、死んでいればいい。

 簡単なことだ。


 僕はいつものように、自我を遮断して、すべての苦痛を肉体だけに負わせようとした。それがこの状況において最も優れた自己防衛策だからだ。

 でも、その時。


 突然、頭の中に、いや心の内に、声が響いた。


『なぜ怒らないのです』


 女の声だった。しっとりとして、穏やかで――けれど、その声色は怒気を孕んでいるようにも思える。声はもう一度聞こえた。


『なぜもっと怒らないのです』


 怒る……?

 怒ってどうするんだ。怒ったって状況は何も変わらない。ただこいつらに面白がられるだけだろう。それに、こいつらは僕が自慰行為をさせられた時の動画を持っているのだ。下手に反抗してあの動画をばら撒かれたら、僕は間違いなく今以上にみんなの笑いものになる。

 誰も同情はしてくれない。誰も可哀想とは思ってくれない。誰も助けてはくれない。可哀想と思われるには人権が必要だが、人間扱いされない、スクールカースト最底辺の僕にはそれがない。学校や教師も動画の存在を知ったら必死で揉み消そうとするだろう。本当に何も変わらない。だからこうしてじっと耐えているんじゃないか。

 第一、怒るという行為自体がキモいと思われる。怒りだけじゃない。負の感情を露わにして場の空気を乱すのは頭のおかしい奴、排除される、ブロックされるべき対象なんだ。常識だろ、そんなこと。


 怒ったってつらくなるだけ。

 僕の気も知らないで。


 それなのに、声は無遠慮にもボリュームを上げてもう一度僕の意識に語りかけてきた。

 その言葉は、脳が揺れるほど激しく意識の中を反響する。


『憎みなさい。もっと、あなた自身を愛するために』


 そして次の瞬間。僕の意識は、まるで掃除機で吸い上げられるような、あるいは、竜巻に巻き込まれて天高く打ち上げられるような、奇妙な感覚に捉われた。

 既存の言葉では形容できない、でも、あえて言うなら、別の次元へとシフトするみたいな、一瞬の――。

 激流の渦に揉まれて、僕の自我を守っていた殻は瞬く間に砕けて洗い流された。そのごく短い旅の中で、僕の自己弁護と自己防衛機構は綺麗に取り払われて、むき出しの感情だけが残った。自ずから融解してしまいそうなほど熱く滾る、怒りという感情だけが。


 憎めだって?

 じゃあ、僕がいつも想像の中であいつらをどんな目に合わせているか教えてやろうか。

 想像の世界では僕は常に無敵。傷つくことも、恐れるものも何もない。僕があいつらにされたようなこと、いやもっと酷いことだってやりたい放題だ。目の前には、端正な顔を恐怖に歪めた神城がいる。僕はまず手始めに、仮面のように整った神城の右頬にストレートをブチ込んだ。


「ぉがぁっ!」


 神城が不明瞭な声を上げながらその場に倒れ込む。奴の頬骨が砕ける感触が拳にあった。神城の顔は醜く変形し、そのまま気を失ったようだ。雑魚め、と毒づきながら僕は、逃げ出そうとする妻夫木、佐藤、星野を捕まえ、それぞれあばら、右足、左足の骨を砕いてやった。

 折れた箇所を押さえながら三人が上げる豚のような呻き声がとても心地いい。体中の血液が沸騰しそうなほど熱く感じられる。もっと、もっと。

 こんな風に、僕は自分の想像の中で、そして夢の中で、神城たちに仕返しをしている。もう何百回奴らを殺したかわからない。このイメージを膨らませるために、世界の拷問の歴史を記した本を集めているぐらい。想像上の拷問の回数は四桁を下らないだろう。

 どうだ、思い知ったか。でもこれで終わりじゃない。このまま楽に死ねると思うなよ。お前たちはこれから、中世の拷問も霞むようなひどい目に合わされるんだ。その前に、まずは神城を起こさなくちゃ。

 どれぐらい痛くしたら起きてくれるだろうか。


「なあ神城、凌遅刑って知ってるか?」


 僕は横たわる神城の体に馬乗りになろうとした。


 だが、その瞬間。


「待て!」


 女の声だった。

 どこかで聞いたことがあるような、それなのに思い出せない、命令形なのに怖さは感じず、とても穏やかで落ち着く声。

 その声が聞こえたと同時に、僕は全く身動きが取れなくなってしまった。中腰になった姿勢のまま、立ち上がることはおろか指一本さえ動かすことができない。

 そして、動けなくなってようやく気が付いた。僕が嬲っていた男たちが、神城たちとは似ても似つかない大人の男であることに。身に纏っているのはジャージでも制服でもなく、金属製の鎧だった。それを、僕は今まで神城たちだと思っていたぶっていたのだ。いつも想像の中でしているのと同じように。

 何より異常なのは、僕の体が、姿が変わってしまっていること。全身はカブトムシやクワガタのように黒く硬い殻で覆われ、爪は豹のように鋭く尖っている。四肢と胴体は一応人型の範疇に入る形をしているけれど、明らかに人間の姿ではない。


 かろうじて動く目で周囲を見渡すと、辺りは鬱蒼とした深い森。鳥の声さえ聞こえず、ひっそりと静まり返っている。日は差しているが薄暗く、目の前には森を切り開いて押し固めただけのような細い黒土の道。僕が神城だと勘違いして殴りつけていた男たちは、その黒土の上に横たわって呻いていた。


 ついさっきまで、僕は学校のトイレで神城たちにイジられていたはずだ。なのに、今僕がいるこの場所は、学校どころか東京の風景ですらない。完全に別世界だ。

 どこだ、ここは……?

 僕の身に何が起こっているんだ?

 背後から、土を踏むかすかな足音と共に人の気配が迫ってくる。

 一歩ずつ、ゆっくりと。


「その方々はもう戦うことはできないでしょう。敵とはいえ、みだりに命を奪ってはなりません」


 さっきの女の声だ。

 足音は僕の前に回り込んで、僕の目の前で止まった。


「待て、って言うと、ちゃんと待ってくれるのね。これなら、うちの子供たちよりお利口かも。悪魔(デーモン)さん、助けてくれて、ありがとう」


 女は和らいだ声色でそう言うと、優しく微笑んだ。

 黒いヴェールの下からわずかに覗く薄桃色の髪、碧く澄んだ大きな瞳、すらりとした鼻梁、薄めの唇――それらすべてが完全なバランスで、手のひらに収まりそうなほど小さな輪郭の中に収められている。橋本環奈を少しだけ大人っぽくした感じかな、と思った。つまり、すごく、かわいい。

 身長は僕より小さいけれど、そもそも今の僕は元々の僕の体よりだいぶ大きいように思えるので、正確にはわからない。全身をローブのような黒くゆったりした布で覆い、頭にもヴェールを被っている。この服装はこれまで実際に目にしたことはないけれど、写真やマンガ、アニメなどで見覚えがあった。いわゆる修道女、シスターの格好だ。

 それよりも。彼女は僕に何て言った?


『悪魔さん』?


「エリーゼ! 大丈夫か!」


 と、視界の外からもう一人女の声がこちらへ駆け寄ってくる。それが明らかにシスターに向けられた言葉だったことを考えると、このシスターの名前はエリーゼというらしい。


「すまない、少し目を離した隙に……」

「大丈夫。召喚術が成功したの。ヴァレリーこそ、無理しないで」


 ヴァレリーと呼ばれた女は、金色の長い髪をポニーテールに結い、少し彫りが深めで、すらりとした長身の、こちらも美人だった。革製の防具を身に着け、右手には細身剣を握り、左腕は金属製のギプスのような形状のもので覆われている。ファンタジーものでよく見る、軽装の女戦士という感じだ。

 ヴァレリーはしげしげと僕の姿を眺めた。


「これが、悪魔……か」


 やっぱり悪魔というのは僕に向けられた呼び名らしかった。

 ちょっと待ってくれ。突然わけもわからず知らない世界に連れて来られて、何も悪いことはしてないのに悪魔呼ばわりはないじゃないか。そう言いたかったけれど、喋ることはおろか口も動かせない。呼吸できているのが不思議なぐらい、体は金縛り状態になっていた。


「それで、エリーゼにはどこか変わったところはないか?」

「うん――少なくとも、今のところは全く」

「そうか……何事もなければいいが……」


 ヴァレリーは心配そうにエリーゼを見る。エリーゼは穏やかに微笑み返すと、再び僕に向き直り、手に持っていた分厚い本を紐解いた。


「そういえば、この悪魔さんって、このまま召喚しっぱなしなのかしら……それはそれでちょっと物騒だよね。ずっと待てのままだとかわいそうだし、仕舞うことってできないのかな……」

「仕舞うってそんな、モノみたいに……」


 ヴァレリーが苦笑する。もし口がきけたら、僕も全く同じツッコミをしただろう。エリーゼは本とにらめっこしていたが、すぐにページをめくる手が止まった。


「あ、あった。えーと、召喚した悪魔を戻す方法……それは、接吻である」

「せ、接吻? ほんとにそう書いてあるのか?」

「だって、ほら……」


 ――何だか話がおかしな方向に進んでいるぞ。またしても僕の代わりにツッコんでくれたヴァレリーに、エリーゼは開いた本のページをそのまま見せる。


「……いや、私に見せられても、私は古代文字なんて読めないから」

「あ、そっか。でも、とりあえず、この本に書いてある通りに呼べたんだから、書いてある通りにやってみるしかないよ」


 エリーゼはそう言うと、些かの躊躇いも見せず、天然っぽい笑みを浮かべながらこちらに歩み寄って来た。

 ちょ、ちょっと待ってくれ。接吻ってつまりキスってこと? 口にするやつ?

 だとしたら僕ファーストキスなんですけど!?

 体はまだ動かない。そりゃあこんなかわいい子にキスされるんだから嫌じゃないけど、全然嫌ではないんだけどむしろ嬉しいまであるけど、反論の機会がないにしても、せめてもう少し心の準備をする時間をくれませんか!?


 エリーゼは僕に寄り添うように立ち、少し背伸びをして、僕に顔を近づけた。


「お疲れ様、悪魔さん。私たちが困ったときには、また来てちょうだいね」


 そう言うと、僕の頬に軽く口づけたのだった。

 そしてその瞬間、不意に全身から力が抜け、急速に意識が遠のいていく。


「え? あれ、どうなってるの、これ……え、人間の男の子?」

「どういうことだ……とにかく、修道院の中に運ぼう。あ、いや、運んでいいのか?」


 という会話が微かに聞こえたような気がしたけれど、それを知覚する間もなく、僕の意識は微睡みに落ちていった。

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