球根ガニ
「ところで、その変な形をした石はなんでしょう?」
私は背後を指さして尋ねた。机の向かいにいる青年は答えた。
「ああ、それは球根だよ」
「なぜ、球根が水槽なんかに?」
球根は、水槽の中にあった。しかし水に包まれているわけではなく、積みあがっている砂の上にあった。その見た目はさながら海岸のようである。
「それは『球根ガニ』と言ってだね、まあなんだ、簡単に言えば、球根からカニが生まれるんだな」
私は驚く。それと同時に、少しくらっ、となった。異国とはいえ、こんなにも不思議なものと出会ったことはない。球根もカニも、聞き覚えはあるのに、それらが組み合わさると、なんというか、気分が悪いというか、心にどこかもやもやを感じて、全身がむずがゆくなってしまうのだ。
「へえ、不思議な生き物ですね」
そんな複雑な感情を取り繕うように、私は少し微笑んで言葉を返す。
「これはだな、まあ私がー中学生だった時かな。どこかの庭にちょこんとあったものなんだよ。拾ってみると、薄汚れた表面の奥に、謎めいた紋様があってね。そんなものを見たら、捨てるに捨てられなくて。私はそれをぽっけに入れて図書館に走ったんだよ。だが今思えば、そんな石っころみたいなのになんでそんなにこだわるかと、自分で自分に突っ込みたいが、な」
話を聞いている途中、何度か振り返るが、未だこの球根には慣れない。見るたびに、何か心がむかむかして、不思議とその青年の話に興味がわいてきたのだった。
「そんで、図書館についたころにはもう夕日も隠れかけてて。だけど諦めきれず必死にこの石が載る本を探しあさって。」
話を聞けば聞くほど、向かいの青年が馬鹿らしく思えてきたが、なぜそんなことをしたのかと聞くのは愚問だろう。人間は誰しもが昔はそういう、ある違う生き物だったのだ。
「んで小一時間図書館を走り回って、なんとか見つかったのが図鑑さ。それもオカルトめいたものさ。それを開いてみれば、紋様のある球根が載ってるページが合ってだね。そこには『球根ガニ』って書かれてたんだ。」
私はすっかり、青年の話に夢中だった。
「怖かったさ。今自分が握っている石っころが、そんなにも奇妙で謎に包まれていると知ったらな。だが同時に、わくわくしたんだ。今の私にはない、まあ言葉にするなら、探求心だ。」
子供というのは、すごい生物だ。他人を恐れず、得体のしれない何かに恐れない。私が大人になって失ってしまったものの1つだ。
「そんでしばらくは宝箱…っつたって余り物の段ボールだがな。それに閉まって早10年。すっかり社会人になった私は、すっかりそのことを忘れてたんだ。それで家を買うって時に、掃除してたらたまたま見つかって。その時はなんだか嬉しかったな。自分の周りだけ、10年前に戻ったんだよ」
今では私も、その歓びに共鳴しているまであった。純粋な子供時代を、こんなにも肌で感じるのは久しぶりだった。
「んですっかり探求心とやらを取り戻した私は、さっそくそれを解析してもらったんだよ。知り合いの植物研究家にね。そうしたら、どうだったと思う?」
「…解析途中に孵った、とか?」
「ま、違ったな。私も10年もたてば近いうちに孵ると思った。だが、球根は孵らなかったんだ。…アレはただのチューリップの球根だったんだよ」
「え?」
思わず聞き返した。私の脳内にあった透き通ったなガラスの水晶が割れる音がした。
「…まあ、そうだ。球根ガニなんてハッタリだ。異邦人のあなたなら、ここまで信じてくれると思ったんだ。…すまなかったな。」
こみ上げてきたのは、悲しみと、やり場のない怒りだった。さっき初めて球根を見た時とはまた違う気持ち悪さが、私を襲っていた。
「…だがな。諦めるのはまだ早い」
「えっ?」
「不思議に思うだろう。ニセモンの球根を、わざわざ水槽なんてものにおいているのが。私は信じているんだ。この球根ガニが孵るのを。」
「…どうして?」
「ま、まともな意味なんてないがな。ただ、子供の夢を壊したくなかったのかもな。この世界ってのは、子供時代に思っていた世界に比べりゃ、数段残酷なものだ。だが、この球根があると、なんというか、子供時代の世界に少しだけ入れている気がするんだ。」
私の頬には、なぜか涙がつーと通っていた。子供時代に想像しなかった苦しみが、一気に自分の中に押し込まれていく気がした。だが、それと同時に、子供時代の夢や希望にも押されている気がした。何がなんだがわからなくなって、私は泣いた。
「私は、これがいつか孵ることを信じてる。だってこれには、不思議な紋様があって、子供時代の俺の目に入ったんだからな。」
私はハンカチで手元の涙をぬぐうと、振り返って球根を見た。奇妙な紋様を見たが、不快感はなかった。オカルトなんて興味はないし全く信じていなかったのに、今は、この球根がいつか孵ることを願っていた。それはこの青年のためでもあったが、私のためでもあったのかもしれない。
私はいつまでも、あの球根を忘れることはないだろう。