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恋するハンマーフリューゲル  作者: 山本しお梨
第二章 冥色を抱く
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第二章 冥色を抱く 4

 その日のみそらとの練習は結局、ショパンワルツのうち数曲を初見も含めて演奏することになった。ショパンワルツはいずれも、とくに音大生にもなれば耳馴染みのあるものばかりで、いくつかは実際にレッスンで勉強していたし、中にはレッスン中に初見の練習としてやったものもある。ついそんなノリで何曲かをやってしまって、結果的にみそらが一番楽しそうだった。

 ――ということを、翌週のレッスンで葉子(ようこ)に話すと、彼女は長い髪を傾けながら声を上げて笑った。

「みっちゃんの負けん気が出ちゃったねー」

「負けん気なのかな、あれは」

「知ってる曲なのに紹介できないなんてことにはなりたくない、ってやつでしょ。いい練習になったね」

 たしかに、いくつも弾くのはそれなりに大変だけれど、いやではなかった。――ということは、自分も結局楽しんでいたんだろう。

「ピアノ科ってさ、あれ弾いてこれ弾いてって、なかなか他人に頼めないのよね。その点、みそらみたいな子はそこにつまずかないから」

 ピアノの横に立った葉子は苦笑した。

「プライドが邪魔するのかな。ピアノ科よりも歌科のほうが明け透けな傾向はあると思うのよ」

 言われてみればそうかもしれなかった。そもそもピアノ専攻は自分一人で練習するのがつねだ。大きな楽器が必要だし、練習時間も長い。練習中に誰かと一緒にいるのは案外、他の専攻が多いのかもしれない。

「選曲のアドバイスもしたんでしょ? 上出来上出来」

「言うほどのことは何もしてないけど……」

 みそらがまったくショパンをやったことがないと言うので、初心者が弾きやすい曲を伝えただけだ。ショパンは一見難しそうに見えるし事実そうだけれど、よくよく紐解いてみれば同じフレーズを繰り返すということが、とくにこのワルツでは顕著に見られる。そういった点からいくつか曲の候補は伝えた。

 金曜日の練習時にはまだ迷っていたようだったが、日曜の夜になってみそらから「十番に決めたよ」という連絡があった。十番はワルツの基本的な要素が詰まっているし、右手のメロディもほぼ単旋律のままだ。入門編にはいいのではないかと思っている。

「いやでも、左手の伴奏の練習法も聞いたって言ってたよ。みっちゃん、指導の素質あるんじゃない?」

「自分が苦労したところを伏せとく必要性がなかっただけだよ……」

 ピアノ専攻の特性をもうひとつ挙げるのなら、「褒められ慣れていない」があるかもしれない。葉子のストレートな言葉はなんだかむずがゆかった。

「そういうところなんだけどなあ」

 葉子はそう言うと、嬉しそうに目を細めた。それを言うなら、そうやってちゃんと褒めてくれる葉子こそ、講師としてあるべき正しい姿なのではないかと思えた。

 卒業後は音楽教室などで講師として働くために情報収集をしている生徒も多いが、自分がそうなるとは思えなかったし――そもそも音楽に関係のある職に就く可能性はかなり低い。

 そういったことを、けれど今現在教えてくれている葉子に言うのは憚られた。つい話を変えようと思ったところで伝言を頼まれていたことを思い出す。

「あ」

「どうかした?」

「帰りに山岡とお茶するんだけど、先生も来ないか訊いてって言われたんだった」

 葉子はぱちぱちと瞬いた。

「そういえば、しばらくみんなとお茶してなかったね……ごめん、今日は先約があるの。大学の時の友だちとご飯に行く予定で」

 葉子は今でも講義の合間を縫って演奏活動も行っている。単に食事をするだけではなく、次の演奏会の内容についてなど情報交換をしているのではないかと思えた。

 それにしても、大学時代の友人ということは、自分の先輩に当たる人物でもあるのだろうか。同じ大学出身の者ばかりで演奏会をやるわけではないだろうけれど、葉子の周りではそうやって親交が続いているのだと感じられた。それが職業柄なのかどうかは、まだ三谷(みたに)には判断できない。

「……先生って、いつ頃留学するって決めたの?」

 楽譜を見ているとふとそんな言葉が口をついていた。葉子の友人も留学を経験しているのだろうか、というところからの安易な連想だったが、葉子は気にせずに思案し始めた。

「いつ頃というか……刷り込みみたいな感じだったから、ずっと考えてはいたかもなあ」

「刷り込み?」

「講習会で小野先生についてからずっと『あんたはドイツに留学するの』って言われてた記憶があるの。でもはっきりと自分で決めたのは三年になってからかな」

 三年ならば、就活と時期は似ている。そう思ったところで、葉子が言った。

「なに、留学する気になった?」

「そうじゃなくて――」

「わかってるよ」

 気にした様子もなく、葉子は軽やかに笑った。

「みっちゃんが四年間できちんと終わらせようとしているのは、もうわかってるつもりよ。もったいないっていうのは講師側のエゴだとは思うし」

 エゴという単語はなんだか予想外だった。音大に来ていながら最初から一般企業への就職を目標にしているほうがわがままなのではないかと思えたけれど、葉子が言ったのはそれとは違うように聞こえた。

 なんと返すべきか三谷がためらっていると、葉子はさっぱりと笑った。

「また声かけてね」

「――うん」

 弟子の返事を聞いて、柔らかく葉子はうなずいた。それからふと何かを思いついたように視線を少し遠くに投げた。

「……そういえば、林さんっていつもあんな感じ?」

「いつもって、――合わせのときとか?」

「うん。わりと解釈は事前に固めてくる感じなの?」

「ああ、うん。合わせは基本、週に一回で、その時にはだいたい出来上がってる」

「ふうん……」

 葉子はちょっとだけ考えるように呟いたが、すぐに表情を和らげて「さ、今週分をやりますか」と言った。

 部屋の時計を見れば、レッスン開始時間から十分ほど経過している。いつものことではあるが、やっぱり一回のレッスンが四十五分しかないのは短いな、と思いながら、三谷はまずバッハへと向き直った。

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