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恋するハンマーフリューゲル  作者: 山本しお梨
第二章 冥色を抱く
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第二章 冥色を抱く 3

 翌日、金曜日の二限は伴奏法だ。今年から講義の担当が羽田(はねだ)葉子(ようこ)に変わったので、三谷(みたに)や彼の同門の友人たちにとっては担当講師と顔をあわせる機会が週に二回に増えたことになる。レッスン形式の講義のため、週に二度、彼女から指導を受けるといっても良いかもしれない。葉子の様子は個人レッスンの時よりも若干猫をかぶっているようにも見えるが、その明るさとフランクさは変わらず、伴奏を苦手とする生徒でもなんとか出席率を保っているようだった。

 伴奏法の講義が行われる部屋は二階にある小さな講堂で、舞台上には一台のピアノがある。生徒が持ち回りで伴奏をし、それをその場で指導するのが伴奏法の授業形態だ。ソリスト(独奏者)には講義の都合が合う他の専攻の生徒に来てもらう。今回は三谷が担当している林香織(かおり)だが、あくまで授業なので彼が伴奏をすることはない。

 音大は一部の公立校を除いて、大半が学費の高い私立大学だ。そのイメージどおりに金銭的に恵まれている家庭の生徒もやはりいて、林香織はその典型的なひとりだった。たまに伴奏合わせをやっていても実家から連絡があって夕飯に戻る、なんてこともあるし、自分とはまったく人種が違うなといっそ面白くなってくるほどだ。自分がこの学校にいるのはひとえに一人っ子の恩恵を享受しているからで、さらに言うなら就職は一般企業にすると受験時に決めたからだ――と、おかげで何度も三谷は自分を戒めることができている。

 曲がまず一度最後まで通しで演奏される。同級生の伴奏は楽譜に忠実な演奏で、ソリストも歌いやすそうに聴こえた。曲が終わると、伴奏者の横に座った葉子は微笑んだ。

「うん、よく練習できてると思う。でも――」

 と、葉子は立ち上がって腕を楽譜に伸ばした。そのまま伴奏担当の生徒と、講義室で聴いている生徒全員に聴こえるように声を伸ばした。

「ここのところ、リズムがちょっと雑だったね。前にも言ったと思うけど、イタリア語特有の発音があるから、それと上手に溶け合ったほうがもっと聴いている人が曲を理解できる」

 葉子が軽くイタリア語の歌詞を発音する。それに合わせて、楽譜に鉛筆で書き込む。三谷の位置からははっきりと見えないが、歌詞と伴奏の音符をつなげたのだと思われた。

 葉子の口調は柔らかいが、内容は相変わらず理路整然としている。三谷にとっては日常の風景だけれど、たまに他人――他の門下の生徒が指摘されるからこそわかる点もあって、そのようなところは漏れなくメモしていく。講堂のあちこちからも、同じようにペンを走らせる音がかすかに聴こえている。

 その間、林香織はきれいに立ったままだった。一本の糸で頭を吊っているような姿勢の良さは、楽器を問わず必要とされるものだ。じっと葉子の手元を見て、自分に何を求められるのかを図っている。こういうところも実力のうちのひとつなのだろうと思えた。

 一人きりでしか舞台に立てないピアノ専攻と、伴奏者がいる声楽専攻。前者は楽器を打弦することによってある意味テクニカルに音を紡ぐが、後者は奏者の声というあくまで原始的な音と、人間にしかない言葉で世界を作っていく。なのに、伴奏というものが介在するだけで同じ舞台にいる。不思議だった。重なるところがほとんどない楽器同士なのに、付き合い方次第で同じ舞台に立てるのだ。

 九十分の講義は滞りなく進み、次回の予定と伴奏者を確認して終わった。次は昼休みを挟んで三限だ。

 学食へ向かおうとすると、「みっちゃん」と呼ばれた。講義を終えたばかりの羽田葉子だった。葉子の栗色の髪が講堂の光に映える。彼女は手にしていたCDを三谷に差し出した。

「これ、みそらに渡してもらえる?」

 なんで俺なんだろう、と思ったのがわかったのか、葉子は小さく笑った。

「今日練習するって聞いたから」

 なるほど、と思って受け取ると、それは大御所ピアニストのショパンワルツを収録したCDだった。ふと、みそらの声が聴こえる。――友だちが弾いてるのを聴けるのは今だけだよ。

 愛弟子がCDを受け取るのを認めると、じゃあまた来週ね、と葉子は去ってしまった。次のレッスンか、もしくは講義の準備があるのだろう。もう一度ピアノの前に行くと、葉子は手早く片付けを再開した。

「先約があったのね」

 軽やかだけれど芯のある声が耳朶を撫でて、ふわりと髪の毛が浮くような感覚がした。移動する人にまぎれて、林香織が近くに立っていた。

「ごめん、聞くつもりじゃなかったんだけど」

「いえ」

 顔を向けた伴奏者の手元を、彼女は見た。長い髪が肩口で艶を放っているのが目を引く。舞台から降りても相変わらず林香織は姿勢がよく、育ちの良さそうな雰囲気をまとっていた。

 三谷はなにかありましたか、と言いかけたが、先に相手に微笑まれた。抑止の笑みだった。

「じゃあまた来週ね」

 葉子とまったく同じセリフを言うと、そのままあっさりと講堂を出て行った。――なんだか、高地に咲く白い花を思わせる後ろ姿だと思った。

 予定にない合わせでもやりたかったのだろうか。林香織との合わせは、普段なら週に一回と決まっている。ただ、演奏会や試験前だとそうはいかないので、今回もそういった事情があるのかもしれなかったし、ただの気まぐれなのかもしれない。どちらにせよ、ソリストが不要と判断したものに伴奏者はそうそう口を挟めるものではなかった。

 三谷はCDをカバンにしまい、講堂の入口付近で待つ友人のもとへ急いだ。

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