4.事故
スーツケースをアヤさんに任せて、目標目掛けて全力で駆け出す。
「ちょっと、ケイくん……」
というアヤさんの声が後ろで聞こえたが、事情を説明している余裕はない。
「すみませんが、先にアナーキーに行っててください。あとで必ず行きますから。それからみんなにはくれぐれも内緒でお願いします!!」
そう叫びながら、目はしっかりその人を捉えて離さない。
夕暮れ前の駅前は、買い物帰りの主婦と学生でそこそこ混雑していた。電車の中はあんなに空いていたのに、不釣り合いな人の数。俺はそれをかきわけて一人の女の人を追いかける。
トレウラのギタリスト。ケイガのお母さん。
もしかしたら見間違いかもしれない。勘違いかもしれない。なにしろ四年前に見たポスターの記憶だけが、手がかりなんだから。そのポスターだってかなり昔に撮られたものだ。
だけど、走る足を緩めることはない。人違いならそれでいい。ちょっとばかり恥をかくだけだ。
背中に背負ったギターが、ガンガン腰に当たる。結構痛いけど、気にしている場合ではない。
ケイガのお母さんは俺から逃げているわけではないだろうが、スルスルと人混みをかき分けて、どんどん先へ進んで行く。人混みに慣れた歩き方だ。一方の俺は、背中にギターを背負っているせいもあって、なかなか思うように進めない。
駅前のロータリーを抜けると、さっきまでの人混みが嘘みたいに閑散とした住宅街が広がっている。田舎のターミナル駅によくある光景。
なんとかケイガのお母さんに追いつきそうだというとき、ガツンと何かにぶつかる感触があった。感触では少し生ぬるい。衝撃に近い。
「いたいよぉぉぉ!!」
ガツンという衝撃から少し間があって、大きな泣き声が響き渡る。何事かと思って声のほうに目をやると、小学校低学年くらいの男の子が仰向けに倒れていた。俺が倒してしまったのは明らかだ。きっと俺の体の幅より少し大きいギターがぶつかったのだろう。夢中で走るあまり、周りをあまり気にしていなかった。
「ごめん!! 大丈夫?」
俺は慌てて駆け寄り、声をかける。男の子は俺の言葉が届かないのか、ただひたすら大声で泣き続けていた。よく見てみると、おでこに大きなコブがある。
「大丈夫? ごめんね。痛いよね」
なんとか泣き止んでもらおうと声をかけ続けても、男の子は泣き声以外の反応を示さない。壊れたおもちゃのように「痛い、痛い」と泣き続ける。
ケイガのお母さんがいなくなってしまう、と一瞬頭をよぎったが、どう考えても優先すべきはこの男の子だ。
ギターが頭に当たったのなら、なおさらだ。緩衝パッドがついたギグケースに入れているとはいえ、それでもギターは硬い。そんな硬いものとそれなりの勢いをもってぶつかったのだとしたら「ただ、たんこぶができただけでした」ではすまない可能性だってある。もしかしたら、ぶつかった拍子に倒れて、後頭部をコンクリートに打ち付けているかもしれない。俺のせいでこの男の子に取り返しのつかない怪我を負わせてしまったかもしれないと思うと、体の熱が失われて行くのを感じた。
ひたすら泣き続ける男の子に、駆け寄ってくる人の気配はない。親が近くにいるということもなさそうだ。俺はどうしたらいいか分からなくなっていた。俺だって、もう二十歳。もう大人なのだからそれなりの対応をしなければならない、と表面的には分かっている。けれど具体的に何をどうすればいいのか分からない。ただただ、うろたえてしまう。
「どうしたの?」
オロオロする俺の頭上から、優しい声が聞こえた。
「ぶつかっちゃった? おでこ痛そうね」
頭上を見上げると、そこにはケイガのお母さんがいた。
「あの、俺……走ってたらこの子とぶつかっちゃったみたいで……。俺が気をつけてないから。この子に大怪我させちゃったかもしれないです」
なんとかそれだけ説明すると、ケイガのお母さんは俺の隣にしゃがんだ。
「あらまぁ〜。あんた、ギター背負ってんだから気をつけて走りなさいよ。っていうか、そもそもギター背負って走らない!!」
ピシャリという言葉がぴったり合う。その言葉は、どこかケイガに似ていた。もっともなことを言われて、返す言葉もない。まさか「あなたを追いかけていたんです」なんて言えるはずもない。
「おでこぶつけたの? びっくりしちゃったかな? あ〜、でも少し赤くなってるね。頭ぶつけたなら病院に行った方がいいかもね。他はぶつけてない?」
今度は男の子に向けて、ゆっくりと丁寧に声をかける。男の子は少しずつだが、泣き止み始めていた。
「君、お名前は?」
ケイガのお母さんが頃合いを見てそう訊くと、男の子は「ようた」と小さく答えた。
「よし、ヨウタ。これからおばちゃんと一緒に救急車に乗るぞ!! ヨウタは救急車乗ったことある?」
「救急車」というワードに俺とヨウタがほぼ同時に反応する。反応こそ同時だったが、その中身はまるで違った。
ヨウタは、「救急車に乗る」と言われて目を輝かせていた。
俺は「救急車を呼ぶ」という選択肢があったこと。そして、頭をぶつけたのだから当然にそうすべきだったことに気づかされた。
「救急車が来るの!? 僕、乗れるの?」
ヨウタは、さっきまで泣いていたのが嘘のようにキラキラとした目を向けている。
「こら。頭打ってるんだから急に動かない。救急車が来るまで、じっとしてなさい」
ケイガのお母さんはヨウタを軽くたしなめると、スマートホンを取り出して手際よく救急車を呼んだ。本来なら俺がするべき行動だ。
「あの、すみません。本当は俺がすぐに呼ぶべきでした」
そうやって謝ると、ケイガのお母さんは俺のおでこをコツンと軽く小突いた。
「本当だよ。あんた、子供って歳でもないんでしょ? まぁ、事故みたいなもんだから、気が動転しちゃうのも分かるけどさ。救急車にはあんたが同乗してやんな」
ケイガのお母さんの言葉に男の子が不安そうな顔を見せる。その手はケイガのお母さんの服の裾をつかんでいた。俺と二人で乗るのが嫌なのかもしれない。
「なに? このお兄さんと二人じゃ心配? たしかに頼りないもんねぇ……。一緒に乗るって言っちゃったしなぁ。私も暇じゃないんだけど、しょうがない。病院までだよ」
その言葉を聞いてヨウタの表情がパッと晴れる。少し複雑な心境だが、俺としても一人で付き添うよりもケイガのお母さんが一緒にいてくれたほうが安心だった。
数分で救急車はやってきた。さすがにすべてをケイガのお母さんに任せてしまうわけにはいかなかったので、救急隊員への状況説明は俺がする。救急隊員は「それならば」とヨウタの頭をなるべく動かさないようにストレッチャーに乗せた。そして、そのストレッチャーごと救急車に乗せる。
「どなたが同乗されますか?」
と救急隊員に聞かれたので俺は「二人ともです」と伝える。
「ご家族の方の連絡先は分かりますか?」
と救急隊員は続けて訊ねる。
救急隊員に訊かれたことをそのままケイガのお母さんがヨウタに訊ねた。するとヨウタは「これ」といって背負っていたリュックサックのサイドポケットから一枚の紙を取り出し、ケイガのお母さんに手渡した。
そこには「如月陽太」と男の子のフルネームに加えて、住所と電話番号が書かれていた。迷子カードのようなものだろう。
ケイガのお母さんは受け取った迷子カードをそのまま救急隊員に渡す。救急隊員は短く礼を言うと、そこに書かれた電話番号に電話をかけ始めた。
その間に別の隊員がバックドアを閉める。
バックドアが閉まったのを確認すると、救急車はサイレンを鳴らして走り出した。




