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自死

作者: 誉史

ここで語る死とはすべからく自死についてである


生きたい人は生きればいいし

死にたい人はしねばいい


見たい人は見るし

見たくない人は見ない


たべたい人はたべるし

たべたくない人はたべない


すべて、どうするかは自分次第。

なのにこと生死に関してはどうだろうか、

なぜ、生きることこそ良しと、生きるべきだと皆狂ったように口を揃えて言うのか。

不思議でたまらなかったが、

少し考えればわかることなのだ。

生きることは尊いと唱えるものは皆生きているからだ。

例えるなら、この世はラーメン屋で、ここにいるものは皆ラーメンが食べたいからここにいる。ラーメンが食べたくないのにラーメン屋に来ている者はいない。

つまり、死の肯定派というものはここではない何処かに行ってしまっているのだから、

この世界の気持ちの悪いほどの生への賛辞は至極当然なのであった。

「人の命を奪う権利は誰にもありません」

小学生の頃から叩き込まれてきた綺麗な言葉である。

 ではなぜ、奪う権利はないのに

自ら死のうというものに対して、それを妨害する権利があるのだろうか。

事故や病気等、死にたくないと願う命に対して、それを救うというのは納得がいくが、

様々な理由で、『自ら死を選択する者』『自ら死を選択した者」がいる。

彼ら彼女らに対し、不用意に生の尊さを語り、生きることの大切さなどを説く。

人の命を奪う権利が無いのなら、

生きていることが死ぬよりも辛いというものに対して、無責任な言葉で救う権利もないだろう。

「人の命に関わる権利」が無いというのが平等なのではないだろうか。


 私自身、もう死のうと思っている。

死にたいから死ぬのではない。

生きていくのは困難だと悟ったから死ぬのだ。

生きていくか死ぬかは一見二択のようだが、その実生きる理由が無限にあるように、生きることをやめる理由も無限にある。

死人に口無し。生きている人間に対してなにを糧に、なにを理由に生きていくか尋ねること、又語ることは容易いが、死人に死んだ理由を聞くことはできない。ただなんとなく死んで見たくて死んでしまったのだろうか。

皆、各々に生きていられない理由があったのではないだろうか。


 死とはなぜ悪いことのように描かれ、語られ、扱われるのだろうか。

どこか別の世界で大罪を犯した者が受けた罰が生きるということかもしれない。

生死に関することで良く語られているのが、

死んだら富も、名誉も、地位も、全てを失うのに、なぜ生きねばならないのかという事である。

こちらの世界での多数派。生きる派の人間は、様々な理由で解答する。

便利な時代なので少し調べればいくらでも出てくる。

だがしかし、これを罰と捉えれば納得いく。

富、名誉、地位、人づきあい

それらを手に入れるためにした努力

乗り越えた困難

喜び

悲しみ

思い出

全てが無にかえる

無にかえるかどうかは死んでみないとわからないが、死んだあとも楽になれないと考えるとぞっとする。

生きるというのはやはりなんらかの罰なのではないかと思う。

宗教の知識は全くないが、生まれ変わりがどうのこうのとはきいたことがあるが、

死んで生まれて死んで生まれてを終わりなく終わりなく繰り返さなければならないと考えたら、5億年ボタンどころの話ではない。


生きてるうちに罪を犯したものだけが、またこの世界に生まれてこなければいけないのではないだろうか。そう考えた方が納得がいくのである。

天寿を全うするとはさぞいいことのように聞こえるが、徳を積んだものから順にこの世から解放され、死んでいけるという考え方はなぜ普及していないのだろうか。

最後には死んでしまうのだから、

早ければ早い方がいいだろう。

生きていたらいろんな経験ができるのかもしれない。あれがしたいしこれもしたい

生きていたからこそこんな風な体験が出来た。なんだかんだ生きていてよかった。

よく聞く言葉だが、この言葉を発した人間がこの後あの時死んでおけば良かったと思うほどの出来事に見舞われるかもしれないし、

仮にどれだけ、生きていてよかったかを噛みしめたとしても、噛み締められなかった人間と同じように死ぬ。

死とは救いなのだ。

生きることに喜びを見出し、夢や希望を追いかけているものだけが、勝手に生きていけばいいのだ。

生に価値を見出せない者、死を望む者は進んで死んでいいのだ。

生に価値を見出した者が、豊かな人生をふかえり、天寿を全うするのが喜びなら

価値を見出せなかったものが、生を捨て脱却するのは喜びなのだ。


巧みな言葉で生を薦めてくるものは山のようにいるが、死の決心を鈍らせたその人間は、自分のその言葉の責任をとらない。無論とる必要もないからだ。

誰にどんな迷惑をかけて死ぬとしても、関係は無い。電車などの飛び込みによる人身事故、死んだ人間を思いやる人間などほぼいない。皆、誰かが死んだ事実より自分が集合に遅れたり、予定が狂う方がはるかに大事なのだ。死とはそんなものなのだ。

死にたいと思ったら死んでいいのだ。

少しの後悔など、劇場で見ようと思っていたけど結局見にいけなかった映画のような、食べ過ごした限定メニューのようなもので、終わってしまえば気にならない。



 命とは皆平等なのだろうか。


個人的には平等であると思っている。

なぜなら、命の重さとは個人の主観だからである。

次にすれ違った人を殺さないと、自分が死ぬとしたら、殺せるだろうか?

殺すぐらいならば自分が死ぬだろうか?

では、実の両親を殺さないと自分が死んでしまうとしたら?

彼女やお嫁さんだったら?兄弟?親友?

誰ならば自分を殺せるか?

それともやはり自分の命はなによりも大事か?

実際こんなことは起こり得ないが、似たようなことはいくらでも起こる。

生きるため、自分が死なないためなら犯罪ぐらい犯すか?

犯罪を犯すぐらいなら死ぬか?

生きていくためなら、身を粉にしてでも働くか?

養うためなら?

欲しいものを手に入れるためなら、嘘をつくか?

目標のためなら、我慢するか?

人生は小さい選択の連続の中にある。

命もその選択の一部に過ぎない。

自分がどちらが重いか判断するだけであり。

その判断は一人一人の主観であるから命とは平等なのだ。


だからこそ何かと自分の命を天秤にかけたとき自分の命の方が軽いと判断したら死んでもいいのだ。

あなたの命が他の誰かにとってはなによりも重かったとしても、それはあなたとその人の主観にしかすぎないからだ。

昨今の有名人の自死なども、ひどく悲しい出来事のように語られてはいるが

それは私たちにとっては重い命であり、悲しい出来事かもしれないが、

当人にとっては自分の命よりも重いなにかからの解放という喜ばしい出来事だったのかもしれない。

だがやはり、こちらの世界にいる私達には、こちらの世界の意見、こちらの世界にいる人間への配慮、同調で満ちている。


死を考えていない人間へ死を推奨しているわけではない。

自ら死を望むあなたへそれを決めるのは自由であり、おかしなことではないと伝えたい。


私自身いつ死んでもいいと思っているが、

いつでも今すぐにでも死ねるからこそ、

この武器を使うのがまだもったいなくて使えずにいる。


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― 新着の感想 ―
[一言] その武器は使い捨てで使用者は威力を測れませんし調節もできませんがその威力は保証します。 毎日息苦しく食いしばる苦しみをあたえられきっと武器使用者の苦しみを少しは味合わせられます。 しかしこの…
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