第5話 婚約破棄したら触れないで
「クラウディオ・リル・セブリオンの名において、竜の乙女との婚約を破棄する」
言葉と同時に、じわりと手の甲が熱くなる。文字が熱を持ち、僅かに光った。竜が残した文字がメレンデス公爵家の娘にしか継承されない理由は不明だが、何らかの魔法に似た力が働いているのだろう。
王家は王太子と姫が2人生まれる。これは必ず決まった数で、メレンデス公爵家同様変わることのない不変の理だった。メレンデス公爵令嬢を母にもつのが、王家の王女と王子となる。そのため竜の文字を持つ女性の不思議を、誰も解明しようとしなかった。
神のもつ神秘に近いのだ。理に触れることはタブーとされてきた。その文字が熱くなり、私は婚約破棄の単語を聞いた瞬間に口元を緩める。
掴まれた左手をそのままに、右手を大きく振りかぶった。その手には畳んだ扇が強く握られている。
「無礼なっ! 手を離して!!」
大きな声で叱咤し、右手を全力で振り抜いた。ぱしっと大きな音がして、クラウディオの頬に真っ赤な扇の跡がつく。緩んだ隙に左手を取り戻し、数歩後ろへ下がった。よろめくように下がったのは、後ろに立っていた御令嬢にぶつかりそうになったからだ。
「ティファ、大丈夫? 礼儀も弁えない男が王太子だなんて、最低ね」
ハーフアップにした銀髪の一部がほつれたのか、一房肩に落ちた。それを耳にかけてひとつ溜め息をつく。右足の踏ん張りも、振り抜いた手の速度や角度も完璧でしたわ。自画自賛しながら、左手にレースの手袋を嵌め直す。
「ティファ、ちょっと待って。見せてごらん、清めてあげるから」
駆けつけた兄が左手をそっと捧げ持ち、竜の文字に異常がないか確認してから空いた手を出す。心得たように、派閥の若者が濡らしたハンカチを差し出した。それで丁寧に指先や爪まで拭いてから、兄は竜の文字に唇を押し当てた。
「これで安心だ」
ほっとした様子で返してくれた手には、レースの手袋もはめられる。人前で素肌を見せるのは恥ずかしかったが、兄の気遣いが素直に嬉しかった。
「お、俺を殴ったのか?! 王太子である、俺を!」
「クロード様ぁ、大丈夫ですかぁ?」
先ほどは指摘しなかったが、この国の貴族階級の間では、男女が愛称で呼ぶのは「性的行為をした」と公言するのと同じだ。家族や婚約者なら許されるが、そうでなければ公認の愛人が呼ぶ程度である。中には結婚しても愛称で呼ばない夫婦もいるほど、厳格なマナーだった。
くねくねと歩み寄るカルメンは、「ひどいですぅ」と頭の悪そうな間延びした口調で、クラウディオの頬を撫でている。手袋なしの手で。
他人の寝室事情を覗いたような光景に、若い男女は一斉に目を逸らした。貴族令嬢の中には真っ赤になって卒倒する者も出る。
「私も卒倒して運び出されたいわ」
呟いた本音に、フランシスカがくすくすと笑った。