第32話 もう一人の異世界人
近づく足音に震える。狭い牢の中を後ずさるが、すぐに背中は湿った壁にぶち当たった。逃げ場を探して視線を彷徨わせるカルメンに、赤毛の青年が近づく。
攻略対象じゃないけど、顔が整っている。モブならあたしの魅力が効果あるかも! そう思って、胸元をわざと肌けた。赤ワインで汚れた衣服を捲り上げて、足も見せる。びくりと肩を震わせた青年の姿に、にっこり笑った。
そうよ、サービスしたんだから返してもらわなきゃ。あたしをここから逃して! そう囁こうと身を乗り出した額に、彼の手が触れる。だが想像していた優しさはなかった。
そこに淫らな妄想を持ち込む余地もない。額を掴んで後ろの石壁に叩きつけられた頭が、くらりと平行を保てなくなる。吐き気がした。
「おれを誘惑する気か? まあ無理だが」
嘲る響きに反論する前に、額に熱さと痛みを感じる。呻く彼女から手を離した青年が牢の外へでた。後を追おうとして這いずるが、鉄格子にカルメンの手が届く前に閉められる。
「どうぞ」
「ああ、悪いな」
汚れた手を拭うハンカチを差し出すエミリオに、アグニは素直に礼を口にした。丁寧に拭ったハンカチを返そうとして、受け取ろうとしないエミリオに気づき焼き払う。返されても捨てるだけだろう。その判断はエミリオも納得したらしい。肩を竦めて頷く。
「この女も作り替えるのですか?」
エミリオの声に滲んだ響きに気づき、アグニは首を横に振った。さっきの苦痛も悪くないが、同じ手法に飽きたのは竜達も同じだ。それに彼女にはもっと不幸になってもらいたい。
「作り替える必要はない。このまま崩れ落ちればいいさ」
吐き捨てたアグニの声に、嫌悪の響きが滲んだ。カルメンは状況が理解できずに、ぶつぶつと何か呟いていた。
「おかしい、だってあたしがヒロインで、主人公なのに。こんなの、変よぉ。なんでぇ?」
謁見の大広間でも繰り返した単語に、アグニはけろりと返した。
「お前が異世界から来たのはわかってる。主人公、ヒロイン、攻略対象、ハーレム展開、ゲーム……お前が使う単語も知ってるさ。おれは転生だが、お前は転移か? どっちにしろ、この世界はゲームじゃない。現実だ」
諦めて受け入れろと突きつけ、アグニは前髪をかき上げた。この世界の元になったゲームのあらすじは知っている。妹が夢中になって遊んでいたため、何度も話を聞いた。
事故で死に生まれ変わった世界で、竜という最強種族だったことはアグニにとって幸いだ。意識を共有する仲間がいたことで、孤独を感じる経験もなかった。彼が異世界から来たことを、疑うことなく受け入れた竜帝陛下に尽くす彼が思い出したのは、いずれ現れるゲームの主人公の存在だ。
ゲームの補正や強制力といった概念は理解していた。だからそれらを世界から消し去る方法を作ったのが、竜達だ。己の棲む世界を勝手に弄られることは、最強種の竜にとって屈辱でしかない。世界を作り替える魔力の代償として、長い眠りにつくことを承知で彼らは尽力した。
共有する意識の中、竜達は最適な方法を選び出したはず。それこそが、代々の竜の乙女を苦しめることになるとも知らずに……。
目覚めたアグニは、竜帝テュフォンと共有した意識に後悔を募らせた。18代に渡り利用された竜の乙女達と、当代の令嬢を苦しめた原因が、自分の進言だったと悩む。だから自分が矢面に立った。竜の乙女を苦しめた一族と、竜妃となるエステファニアを貶した自称ヒロインの愚か者に、世界の残酷さを知らしめるために。




