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第4話 ヴァイツの悲劇

 ヴァイツ修道院は、表向きは男子禁制の、厳しい戒律を守る女子限定のアケメナス教主流派修道院であった。その名は周辺国に広く知られており、還俗した女性達の評判も良かったことから、敬虔な信者が、聖地として巡礼に訪れる程に、憧憬を抱かせる存在であった。

 その威光を支える存在として、修道院付きの騎士団の存在があった。修道院は、規模の違いはあれど、所属する修道士が自衛と鍛錬の意味も兼ねて騎士団を形成することは珍しくなかったが、ヴァイツ修道院の場合は、少し様相が異なった。修道院自体は男子禁制、つまり尼院であり、修道女しかいなかったが、騎士団の騎士達は、そのほとんどが男性であった。これには、ヴァイツ修道院の成り立ちが影響していた。


 ヴァイツ修道院のあるヴィゼーヌは小さな湿地帯で、3つの国が隣接する緩衝地帯に立地していた。その3国それぞれが強国であったり、宗主国や強力な同盟国を持っていたため、過去においては激しく対立し、戦乱の絶えない時期もあった。ヴィゼーヌは、その地理的条件から、交通の要衝と成り得る場所ではあったが、同時に侵略の玄関口にもなること、湿地帯の開拓に莫大な金と労力が必要であったことから、緩衝地帯としての地位を脱していなかった。

 誰が言い始めたのかは定かではないが、長く続いた戦乱の時代に、自らの支配基盤すら揺らぎ始めた各国の王侯貴族は、不戦条約の締結と、それを担保するに足るだけの象徴を求めた。そして、神の代言者を標榜するアケメナス教教主により、当時何も無かった要衝ヴィゼーヌに教主府を置き、不戦中立の象徴となる悠白のヴァイツ修道院を建立するという宣言がなされたのだった。


 乱世の常として、救世と平穏安寧を説くアケメナス教は、各国に根を張りつつあった。世が乱れれば、弱き者は心の拠り所を、希望の灯火を求める。そうしないと、生きていけないからだ。人は弱い生き物だ。存在感を増しつつあったアケメナス教教主の言葉に、疲弊した権力者達は保身のため便乗した。

 教主を仲介とし、各国間で休戦条約が締結された。その実効力を高めるために、教主はまた、諸侯の子息令嬢について、人質兼教育名目でヴァイツ修道院に身柄を預けることを提案した。教主は更に、修道院建設のために寄進を募った。裏向きには、アケメナス教教団の信徒増加、資金力影響力発言力の拡大を狙った策だと皆分かってはいたが、各国が牽制しあう中、時代の要請と利害がぴたりと一致してしまった。結果、驚くほどの早さでヴァイツ修道院の建立は既成事実化した。


 集まる人間の層からして、付き人だ護衛だ何だと言い始めるとキリが無いことから、最終的に修道院は尼院として男子禁制にする傍ら、専属の騎士団を結成して護衛に当たらせることになった。そして、修道院では、淑女教育をはじめ、元の身分関係なく規律を厳格に守ることとし、心身の安全を保証するとともに、教育機関としての役割を担うこととした。そう、ヴァイツ修道院は人質を住まわせる収容所や監獄では無く、王侯貴族の令嬢が集う上等な教育機関であるという体裁を整えることに、教主は腐心したのだった。

 努力の甲斐あってか、『ヴァイツ』は瞬く間に有名になった。いつしか周辺国家の間では、ヴァイツに令嬢を入れるのは、高位貴族としてのステータスとまで言われるようになっていた。ヴァイツは、戦時下においても不可侵とする条約が各国とヴィゼーヌ教主領との間で締結されたため、近隣諸国の高位貴族令嬢の緊急避難場所としての地位も持っていた。莫大な資金力と、各国中枢にすら言葉が届く強大な発言力、そして信徒に対する絶大な影響力を誇るアケメナス教主流派の後ろ盾に加えて、各国から選抜された屈強な騎士から構成される強大な騎士団を擁したヴァイツに刃を向けるのは、最も無謀なことの例えとまで言わしめた。


 各国の王族はじめ有力貴族の令嬢が集うヴァイツ修道院は、さながら麗しき淑女ばかりが集う超上流サロンの様相を呈していた。ヴァイツでは、表向きは修道女として身分差も無く、服装の違いも僅かであった。それ故、色とりどりのドレスを着て踊る社交界のような華やかさはないものの、実務的には外交折衝の場としても機能するなど、ヴァイツの存在感は大きくなり、その権勢を誇っていた。


 そのヴァイツが、襲撃された。侍女達の一部には辱めを受け、命さえ奪われかけた者もいた。幸い、令嬢の集う修道女の中には、たったひとりを除いて、死者どころか大きな怪我を負った者も出なかったが、精神に相当な衝撃を受けた者や、そして社会的に死んだも同然の者が数多くいた。

 その多くが家の為の政略結婚の道具としての役割を期待される高位貴族令嬢において、醜聞とは、例え穢された事実が無かろうとも、その噂が流れるだけでも致命的になることがあるからだ。そして、たったひとり、行方の分からなくなった令嬢が、醜聞に拍車をかけた。クリスティーナ=クロイツ侯爵令嬢、ヴァイツでは肩書きによる区別をしない方針のため、家名を名乗ることは禁じられていたが、クリスその人であった。彼女の実家は、本国では一二を争う権勢を誇っていた貴族であり、その威光は他国にまで届いていた。そんな大貴族の令嬢が、行方不明になったのだ。憶測を呼ぶなと言う方が無理筋であろう。


 後の世に、ヴァイツの悲劇、又は後日譚も含めてヴァイツの奇跡と呼ばれる事件である。


◇◇◇


 クリスは困惑していた。どうやら、目の前の男、ハインリヒは、彼女の命まで奪うつもりは無いようであった。しかし、彼女の体を弄んだだけで満足して捨てるようなことも無かった。つまり、彼は彼女を連れ歩くつもりのようであった。


『腑に落ちないですね』


 クリスは訝しんだ。人掠いにしては、金の話どころか、彼女の家名を聞こうともしない。ヴァイツのことを、本当に知らないのかしら、と彼女は思った。

 侯爵家の箔が落ちてしまったら、自分など貧相な体と、可愛げの無い顔つきの、ただのひ弱な女に過ぎない、とクリスは自己評価していた。まあ、娼婦としては綺麗な部類なのかしらね、と彼女は自嘲気味に笑った。


 ヴァイツにいれば、クリスよりも社交界受けしそうな容姿の持ち主など、幾らでも見付けることが出来た。国元では侯爵令嬢として若干の自負もあったクリスであったが、ヴァイツに来て、世間は広いと思い知らされた。容姿、知性、交渉術、淑女の嗜み、そして武芸。ヴァイツでは何ひとつ、抜きんでたところの無かった彼女は、密かに持っていた自負心を粉々に砕かれた。自分の価値は、侯爵令嬢という肩書きだけだという現実が、嫌と言うほど突き付けられた。

 しかし、クリスは腐ることなく、修道院での日課をしっかりとこなし、日々努力を惜しまなかった。が、それは他の修道女も同じことで、なかなか芽は出なかった。


 普段なら、あんな場所にはいなかった。思い詰め、心の整理を必要としたクリスは、人気のない場所を求めて、修道院の中を彷徨っていた。それが、命取りになるなんて、人生とはままならないものですね、と彼女は隣で無防備に眠る男を見ながら、ひとり唇を噛んだ。


 それにしても、不可解であった。普段であれば、遠征があっても、守衛として幾人かは残っているはずの騎士達が、今回に限っては全員出払っていた。


 ヴァイツを襲うような馬鹿は居ない、と騎士団が高を括った可能性もあるが、それにしても、だ。


 末席に近いとは言え、王族も居る以上、最低限の護衛は侍女に紛れているが、それにしても、だ。


 クリスは必死に走っていたので、はっきりとは分からなかったが、かなりの人数が修道院内に侵入していたように感じた。しかし、今この状況となっては、彼女には確認のしようも無いことではあったが。


 不可解と言えば、この男、ハインリヒも相当に不可解、不思議な存在であった。彼は、自分自身に対する記憶が無く、名前も適当に名乗った、と言った。そんなことを、掠ってきて弄び捨てるだけの女に言う必要性はどこにも無いはずなのだが、彼はクリスにそう語った。

 記憶が無い、という話も、鵜呑みにするわけではないが、ひょっとして、寂しいのだろうか、とクリスは思った。話を信じたならば、記憶が無く、ここが何処なのかも、自分がどこの誰かも分からないまま、あの喧噪の中に放り込まれたのだ。


 悲しいかな、クリスは自分の境遇と男とを重ねて見てしまった。自分には、特筆すべきものは何も無い、それでも、まだ侯爵家という拠り所があったが、彼には何も無い。自分にしたことは、到底許せることでは無かったが、ある種の共感のようなものを、彼女は彼に感じていた。

ちょっと硬いかなぁ、と思ったり。


ぼちぼち書いていきます。

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