2、トイレの水を手動で流していた頃
はじめてソレが来たのは、私が31歳のときだった。
30歳で上京してきた私は独身で、非正規社員で、中野駅から徒歩8分の木造アパートに一人暮らしをしていた。
恋人は28の時からいなかった。
貯金はなく、それどころか頻繁にガスを止められるような暮らしをしていた。
大手フィットネスジムの新規店舗を出店するための部署で、派遣社員として働いて一年目のことだ。
特に忙しくもなく、同じ部署の社員は外出していたり、打ち合わせをしていたりして、静かな午後だった。
私は新しく出店した場合の集客数をシミュレーションできるソフトを使っていた。
私はパソコン操作が得意で、なんでもソツなくこなすタイプなので、その会社独自のソフトも難なく使いこなしていた。
都内の新興住宅地でシミュレーションしていたとき、ふと、アパートのトイレのことが頭をよぎった。
半年前から通常の方法では水が流れなくなっていたのだ。
半年前のある日、私はユニットバスのトイレで用を足して流そうとレバーを回した。
スコっとレバーは空回りし、水が流れない。
なんだなんだとタンクを開けてみると、ゴムのカップとレバーをつなぐチェーンが切れていた。
トイレのタンクの蓋を開けて見られるタイプの人は、見てみてほしい。
見られない人は「トイレタンク内の構造」で画像検索してみてほしい。
チェーンが切れていたら、排水弁を塞ぐゴムカップを引っ張り上げる事が出来ず、水が流れないから。
その時は、水の中に手を入れチェーンを引っ張り、水を流した。
どうしようか。
大家さんに言えばいいのだけど、しょっちゅう家賃を遅れて振り込んでいる身としては、なかなかに言いづらかった。
私はしょうがなく、トイレの度に水の中に手を入れ、切れたチェーンを引っ張り上げていた。
しかしそのうち、どういうわけか、ゴムのカップが排水弁をきっちり塞ぐことができなくなった。
常にチョロチョロ水が流れている状態になってしまい、水道代がとんでもないことになる。
ただでさえしょっちゅうガスを止められているのに。
私はタンクの中の浮き玉を常に上がっているように固定し、水が溜まらないようにした。
トイレのタンクの蓋を開けて見られるタイプの人は、再度見てみてほしい。
さっき見てない人も、見てみてほしい。
浮き玉が上に上った状態で固定されたら、タンクに水は溜まらなくなるから。
それで私は、トイレの度に、ユニットバスのシャワーから直接タンクに水を入れ、手で直接ゴムのカップをひっぱり、流していた。
そのトイレのことが、ふと頭をよぎり、みるみるうちに思考が広がってゆく。
そんなトイレの流し方をしている部屋に人を呼ぶことはできない。
客人が用を足した後、タンクを開けてユニットバスのシャワーで水を溜め、チェーンを引っ張る作業を強いることなどできない。
恋人ができても部屋に呼べない。
ていうか部屋汚いし。
ガスコンロとかベタベタだし。ガスよく止められるし。
こんなバリバリ風に仕事やってるから、誰もそんな部屋に住んでるなんて思わないだろうな…。
ああっ!!
私31だ……
東京に来て1年以上になるのに、恋人がぜんぜんできない!
東京に来る前からいないけど。
お金も全然ないし。
どうなるの?
どうするの??
急に動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなった。
顔が真っ赤になっていることが自分でもわかる。
耳の後ろに汗が流れてきた。
自分の思考のみで、平和な午後に、体がこんな状態になることに驚いた。
はじめてのソレは、手動で流すトイレがきっかけだった。
三十代前半の頃は、それでも笑っていた。
そんな状況がおかしくて、自分でも笑えたのだ。
それから5年後に引っ越しをするまで、私はトイレを手動で流し続けた。