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今日という日はとても気が重い。
つい最近までこの日をずっと心待ちにしていたのに、こうして別の人の妻となり、不本意にも動けずにいる。昨夜はダグラスがこの部屋に泊まっていったので子作りだ。ダグラスとの夜を過ごすと、次の日は普通に朝起き上がれない。昼までは色々なところが痛み、動けずにいる。しかも夕方まで怠さが抜けずに、ぼんやりしていることも多い。まあ、所謂、抱き潰されるのだ。わたしより12歳も年上の癖に、何て体力だ。子作りが目的なのだから、抱き潰すほどの回数はいらない。
せめて今日くらいは心穏やかに、幸せだった時間を思い出していたかったのに。
だけど、現実は辛いばかりだ。
ジェイドとの幸せな時間を思い出すと、すでに他人の妻となった自分の体が厭わしくなってくる。自分がジェイドのものにならなかった現実が、苦しくて。せめて幸せだった記憶を思い出して心を温めたいのに、心の痛みに耐えられず思い出を奥の方へと片付ける。その繰り返しだ。最近は、それすらも辛すぎて思い出すことをしない。
多分、これが正解。
王女の務めを全うすることが正しい。幸せな時間をジェイドと過ごせたのが奇跡だった。
「意外でした」
サラはお茶を用意しながら、寝台からのっそりと起き上がったわたしに声を掛ける。
「そうね。こんなに頻繁に来なくていいのに」
ダグラスに対して何も感情を持ちたくないから会いたくない、という言葉は飲み込んだ。誰も聞いてはいないが、流石に口にしたらダメだろう。
「でも、陛下のご寵愛があることはいいことですよ?」
「子供ができやすい時期だけすればいいじゃない。どうせ、わたしなんて子供をたくさん産むためだけにここにいるんだから」
「アデライン様……」
少し窘めるようにサラが真顔になった。ばつが悪くなってちょっと視線を外す。
「陛下が大切にしてくれているのはわかっているのよ?」
「よかったではないですか。わたしはもっと冷たい関係になるのではと心配しておりました」
「そうなのかしらね」
曖昧にサラに返事をする。ダグラスにしたら、わたしを大切にするのは当然だろう。後継者を産むためだけに婚約を白紙にし、嫁がせたのだから。頻繁に送られる花もドレスも宝石も、ダグラスの罪悪感の表れとしか感じられない。
「あまりにも期間が短かったためにアデライン様の心の整理がつかないのはわかっています。ですが、失われたものばかりを見つめて泣くよりは、小さくても幸せを拾っていくのもいいことだと思いますよ」
サラの言葉に息が止まりそうだった。
ここで幸せ?
何を言っているのだろうか。
「それは」
「ジェイド様の最後のお言葉を覚えていますか?」
アデライン、幸せに。
ジェイドの幸せを願わなかったわたしに、彼はわたしの幸せを願ってくれていた。最後に見た泣きそうで泣かなかったジェイドの顔。幸せを願った言葉はどれほどの苦しみがあったのだろう。
「さあ、お茶を飲んでしまってください。お支度をしましょう」
サラが考え込んだわたしの気持ちを切り替えるように、やや明るめな声で促した。仕方がなく、寝台から降りる。体を動かして感じた違和感に顔を顰めた。
いつになく、体が重い。少しお腹の奥の方が痛いのは行為のし過ぎだと思う。
「……だるい」
「今日は少し楽なドレスにいたしましょう」
用意されていたのは、落ち着いた黄色味のかかった深緑色のドレス。軽い布を幾重にも重ねているため、とても楽だ。ドレスを着つけてもらうと鏡の前に座る。サラが丁寧に髪を梳かし、緩く結わえた。
最低限の身だしなみを整えたところで、扉が叩かれた。サラは扉に向かうと、そのまま外に出る。食事でも運んでくれたのかなとぼんやりと思いながら、サラが戻ってくるのを待っていた。
「アデライン様」
すぐに戻ってきたサラは困ったような顔をしていた。
「何?」
「陛下がいらしています。居間まで来るようにと」
「陛下が?」
つい数時間前に出て行ったばかりなのに。
思わず首を傾げてしまった。ただ、居間まで来いと言っているのに行かないという選択肢はない。怠い体を無理やり動かしながら、ゆったりとした足取りで居間へ向かった。
******
目を何度か瞬いた。居間にいたのは確かにダグラスであったが、一人ではなかった。ダグラスは長椅子に座らずに立って待っていた。部屋に入ってきた私を見ると、連れをわたしの方へとそっと押し出す。
「挨拶を」
「初めまして。レオールと言います」
金髪碧眼、ダグラスを小さくしたような華奢な男の子だ。年のころは10歳くらいだろうか。この年代の男の子なら、もう少し体がしっかりしていてもいいようだが、かなり細い。
挨拶がしっかりしていたので初めは気にならなかったが、じっと見ているとダグラスよりも濃い青い瞳が不安そうに揺れていた。
なんとなく、アンバランスさを感じる。
「初めまして。アデラインです。どうぞよろしくお願いします?」
思わず疑問形になってしまったのは責められないはずだ。
後宮にダグラスに似た子供。
誰の子なんて、考えなくともわかる。そう思いつつも、魔力の色を見てしまった。うん、やっぱり間違いない。ダグラスにそっくりな魔力。
「この子をしばらく後宮においてほしい」
「わたしは構いませんが……」
「理由はあとで話す。今は時間がないので失礼する」
どうやら顔合わせだけをしたかったようだ。忙しいのは本当のようで、さっさとダグラスは部屋を出て行った。残されたわたしはじっとレオ-ルを見つめた。レオ-ルは初めは視線を合わせてくれていたが、だんだんと下に向いてしまう。じっと見つめたことで、居心地が悪くなってしまったようだ。ただ、それだけではないようにも感じた。
小さな体を硬くして、きゅっと噛み締めた唇が痛々しい。蛇に睨まれた蛙のような……そうなるとわたしは蛇になるのかしら。苛めるつもりはまったくないのだけど。
「レオ-ルと呼んでいいかしら?」
「はい、アデライン様」
小さな返事が返ってきた。少し頷くと、すぐにサラに指示を出す。
「サラ、側室が入る部屋が他にもあったわよね?わたしの部屋から一番近い位置の部屋に案内してあげて」
「わかりました。レオ-ル様、サラと申します。よろしくお願いいたします。お部屋にご案内しますね」
サラは優しくレオ-ルに伝えると、ついてくるようにと促す。ここから出ていけるのをほっとしたのか、そそくさと退出の挨拶をするとサラの後ろについて部屋を出て行った。
「なんか、訳ありですね」
側に控えていた護衛であるアレックスが呟く。アレックスは祖国から連れてきた護衛長だ。30代後半で、経験も豊富で人を観察する目は確かだ。もっとも、あれだけ目に見えて怯えられたら誰でも訳ありだと思うかもしれない。
「あとで情報を仕入れてきてもらえないかしら?それと、レオ-ルに一人、護衛を付けて」
「わかりました。休憩時にでも少し聞いてきます。護衛はキースとダレン、交代で行います」
アレックスは軽く頷くと、扉の外にいた護衛のキースとダレンに声を掛けに出ていく。一人残されたアデラインは長椅子の背もたれに体を預けると、ぼんやりと天井を見上げた。
「アデライン様」
いつの間に戻ってきたのか、サラが名を呼んだ。彼女の方へ顔を向けると、少し困ったような感じだ。
「どうしたの?」
「レオ-ル様ですが。荷物も十分でない上、侍女が付いていないようで……」
「では、クリスティンを呼んで」
サラにクリスティンを呼ぶように指示をすると、すぐに部屋にやってきた。
「お呼びですか?」
「しばらくレオ-ルについてあげて。食事とか食べていなそうだから、きっちり三食、食べさせてね。洋服、道具でもなんでも、足らなそうなものも適当に用意してちょうだい。わたしの方の予算に入れていいわ」
「わかりました。お任せください」
クリスティンが退出した後、思わずため息が漏れる。
「お茶をご用意しましょう」
サラの入れるお茶の香りがふわりと匂い立つ。優しい花の香りに少し笑みを浮かべた。
「なんだか、面倒なことになりそうよね」
「そうですね。ですが、アデライン様は放っておけないのでしょう?」
サラのくすくすと笑いの含んだ言葉に、唇を尖らせた。
「仕方がないじゃない。あんな不安そうな小さな子供を放置できないでしょう?」
「どんな事情があるのかわかりませんが、くれぐれも無理はなさらないように」
「わかっているわよ」
わかっていても、つい手を出てしまうかもしれない。
レオ-ルの握りしめていた震える手を思い出しながら、ため息をついた。