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鏡の前に座り、丁寧に銀の髪をサラが櫛梳る。少しだけうねりを持つ長い髪は整えるのが大変だ。ジェイドと会うときにはできる限り髪が美しく見えるように手入れをするのも楽しかったが、今は最小限でもいいかと思ってしまう。どうせ会っても閨の中だ。
ただ、その最小限会うはずの寝室でさえダグラスは訪れない。後宮からも出ないことを考えたら、手入れがしやすいように短く切ってしまってもいいかもしれない。
思わずため息が出た。
「アデライン様」
気遣うような声かけに、少しだけ笑みを浮かべてみた。
「陛下と王妃様は大恋愛の末の結婚でしょう?後継者を作らなくてはいけないとはいえ、陛下にとってわたしはどうでもいい存在なのよ」
「……この輿入れは国との契約です。アデライン様の幸せを壊したのですから、同じように代償を払うのは当然です。蔑ろにしていいわけではありません」
「そうだけど」
「あまりにもひどいようでしたら、国へ報告するつもりです」
サラの固い声音に驚いた。いつも強い意志を持っていても、柔和な感じのサラがこれほど不快感を表すとは思っていなかった。
「あら?もしかしたら数日この状態だったら、国に帰れるかしら?」
「アデライン様は戻りたいですか?」
戻ったところで元の婚約が戻るわけではない、と言葉にならない問いかけを受けてほんのり笑う。
「もちろん、戻ったところで別の人と婚姻を結ぶでしょうね。だけど、ここにいるよりは国に帰りたいわ。自由がないし……つまらないから」
「そうですか。では、アレックスが調べたことをそのまま報告しましょうか」
サラがうふふと笑う。いつになく、ほの暗い笑みに思わず鏡の中のサラをまじまじと見てしまった。
「サラ?」
「アレックスによれば、王妃様がアデライン様を殺してやると連日、執務室で騒いでいるようだと。王妃様のご乱心ぶりは心の病気ではないかと王宮中で噂されているようです」
「え、っと。それ、そのまま報告って不味くないかしら?」
思わぬ情報に、この国の将来が心配になる。そんな報告された日には、父だけでなく祖父も激怒しそうだ。ダグラスもこの国大嫌いだが、国民が辛い生活を強いられるのは求めていない。ツケを払うのは、義務を疎かにしたこの国の王と貴族たちだ。
「ええ。ですから、アデライン様のお心ひとつです」
「はあ、わかったわ。もう少し様子を見るわ。そもそも王妃様が納得していないのに何故この輿入れが実現したのかが謎よね」
再びため息。
帰りたいけど、一か月くらいは待った方がいいだろう。
というか、ジェイドとの挙式予定日までこのままだったら、帰ってもいいわよね?
ああ、でもそうなったら、わたしって何故ここまで来たのかしら。嫌になるわ。
「失礼します」
ノックの音とともに入ってきたのは、祖国から連れてきたもう一人の侍女クリスティンだ。こちらはアデラインよりも5歳ほど年上であるが、とても頼りになるお姉さんだ。とても気が利いているし、趣味もいい。
「どうしたの?」
「陛下がお越しです」
「はい?」
わたしは思わず変な返事をしてしまった。クリスティンはわたしの反応をさらりと流し、大きく扉を開けた。
「遅くに済まない」
通された人物はクリスティンの言う通り、ダグラスだった。
******
今夜も来ないと思っていた。
一応、念入りに風呂に入り、髪を梳かしてはいたものの、侍女たちも護衛達もわたしも、ダグラスは今夜も来ないものだと思っていた。輿入れして10日もダグラスの訪れがないというのは、それだけ異常な状態だということだ。わたし達が形だけの輿入れと判断してもおかしくはない。だけど、11日目にしてようやくダグラスはわたしの部屋へ訪れた。
執務が終わった後すぐにこちらにやってきたのか、普段来ている衣装のままだ。ダグラスは誰もがうっとりと見とれてしまうほど金髪碧眼のいかにも王族と言った美貌の持ち主だが、その美貌も一日の疲れのせいか、少しくすんでいる。すっと立ち上がり扉まで出迎え、長椅子の方へと促した。
「湯を用意させますが、どうしますか?」
そう告げれば、ダグラスは頼む、と軽く頷いた。
「何か軽い食事でも……」
覇気のない疲れた様子に食事をしていないのでは思い、聞いてみる。別に心配になったわけではない。とりあえず、言ってみただけだ。
ダグラスは小さく首を左右に振った。
「食事はしてきたから大丈夫だ」
ダグラスは疲れた様子でどかりと長椅子に腰を下ろすと、わたしにも座るようにと告げる。向かい側の席に浅く座り、背筋を伸ばして彼を見た。視線が合ったところで、ダグラスが口を開く。
「長い間、貴女の元へ来られなくて申し訳なかった」
「あの……お気になさらずに」
このままずっと来てくれなくてもよかったんですよ、とは流石に言えない。ああ、これでわたしの祖国へのトンボ帰り計画はなくなった。
「貴女の護衛を増やそうと思う」
「何故でしょう?」
「すでに知っていると思うが……キャサリンが貴女を殺してやると騒いでいるのでね。今は薬で抑えて、閉じ込めているが危険なことは変わらない」
ため息交じりに事実を言われ、少し驚いた。てっきり隠すかと思っていたのだ。驚いたことに気が付いたのか、ダグラスは自嘲気味に笑う。
「あれだけの騒ぎだ。隠せないだろう?」
「まあ、そうですわね」
「護衛が決まるまでできる限り、後宮を出ないでいて欲しい」
「……承知しました」
特にこれといった話題があるわけでもなく、沈黙する。二人の間に微妙な空気が漂った。
「湯の準備ができました」
「サラ、ありがとう。陛下、湯をお使いください」
「ああ、少しの間待っていてくれ」
ダグラスはさっと立ち上がると、湯殿へ向かった。部屋に残されたわたしとサラはほっとため息をついた。
「さて、ではわたしは隣で控えています」
「えっと、そうよね?」
「大丈夫でございます。アデライン様は何もせずにとにかく陛下にお任せしてください」
ちょっと視線がうろつく。サラはくすりと笑って、退出の挨拶をすると出て行ってしまった。
というか、これから初夜なのよね?
「初夜ってどうするの?」
自分が全くと言っていいほど、閨の教育を忘れていることに愕然とした。確か、色々受けていたはずだけど、抽象的過ぎてよくわからなかったことだけ覚えている。あの時はまだジェイルと結婚するつもりだったから、彼に任せればいいと思っていた。
やや呆然としながら、ダグラスが部屋に戻ってくるのを落ち着かない気持ちで待っていた。
***
「緊張しているのか?」
部屋に戻ってきたダグラスにふわりと抱きしめられ、体を硬くしたわたしの耳に笑いを含んだ声が囁いた。余裕な態度にむかっとするが、そもそもダグラスは12歳も年上だし、後継者が生まれないことできっと沢山の女性を抱いているはずだ。決定的に場数が違うと思う。もの心ついた時にはすでに婚約者がいたわたしが恋愛沙汰に疎いのは仕方がない。
しかも、嫌いな相手と同衾などできるものなのか、心配にもなる。嫌悪感で変な反応をしたらどうしよう。唯一の存在意義が、子を産むことなのに。
「そうかもしれません」
「言葉」
「え?」
するりと背中を撫で上げられた。触られただけで何でもないないはずなのに、思わず震えが走る。
「私たちは対等だ。もっと砕けた言葉で話してほしい」
「ですが」
なにそれ、いまする話なの?!と叫びたくなったが、ダグラスの怪しく動く手にどう対応していいかわからない。サラは大人しく任せてください、と言っていたけど。
落ち着かない気持ちをどうにかしようと、手を彼の胸に置き、強く押した。だけど力が強く、びくともしない。かえって抱き込まれてしまった。むっとして離れようと暴れていたが、抱きしめる力は弱まることなく、息が上がってしまう。大きく息を吸うと、ふわりと石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
同じ石鹸のはずなのに、少し違う香り。
「口を少し開けて」
ようやくおとなしくなったわたしにダグラスは囁く。抱きしめていた腕を緩め、体を少しだけ離すと顔を上に掬われた。じっと見下ろす深い青の瞳を思わず見つめ返した。何をしたいのかわかっているけど、言われて素直に口など開けられない。恥ずかしさに、きゅっと口を結んだ。その態度にもダグラスは笑うばかりだ。
「まあ、いい」
ちゅっと唇を食まれ、ぺろりと舐められた。何度も何度も。宥めるような優しい仕草がとても恥ずかしい。やめてほしくて、思わず声を出してしまう。
「あの……」
一瞬の隙で口の中に彼の舌が滑り込んできた。噛んでしまうわけにはいかないから、そのまま迎え入れてしまう。ダグラスは深く口付けをしたまま、わたしの体を抱き上げるとそのまま寝室へと入っていった。