予告文
朝海の家は、神谷の家とさほど離れていない。
東京郊外のこぢんまりとしたアパートの一室が、彼の部屋だ。
ほとんど寝ることしか考えていない部屋なので、家具はベッドと冷蔵庫と洗濯機と、最小限の生活用品しかない。強いて趣味的なものといえば、壁沿いに腹筋運動用のベンチが置いてあるだけだ。
物が少ないので乱雑にはなっていないが、床に埃がたまり、洗濯物は部屋の隅に折り重なっている。決して綺麗とはいいがたい。
ドアを開けて数歩でベッドにたどり着くと、ジャケットを脱ぎ、着替えもせずにそのまま倒れ込んだ。
寝具以外にも、一昨日脱ぎ捨てたワイシャツなどもあって寝苦しいことこの上ないが、朝海にとっては慣れたことだ。
平気で毛布を体に巻き付けると、風呂に入ろうか迷っている間に目を閉じた。
昼過ぎにでも起きれば、余裕で間に合うだろう。
午前中のまだ柔らかい光の中、心地よい微睡に身を任せていると、甲高い電子音が鳴った。
粘るような瞼をあけ、脱ぎ捨てたジャケットの右ポケットで不愉快な音を立てる携帯電話をみた。
折り畳み式のひと昔前の携帯電話だ。
初期設定の単調な電子音。職場からの電話だとわかる。
地鳴りのような唸り声をあげながら、体を起こし、ジャケットのポケットを漁り、携帯電話を開いて通話ボタンを押した。
年々広くなっている額を撫で上げながら、寝そべったまま耳に携帯電話を充てると、横柄な女の声が聞こえる。
「お休みのところ、すんません。今、大丈夫ですか」
後輩の、安原恵の声だ。まともな敬語が使えず、頭の悪い体育会系のような喋り方をする。それが今、本当に腹立たしい。
大丈夫なわけがないだろと思いながら、乱暴に返答する。
「なんだよ.急ぎか」
「はい。急ぎっす。」
急いでなきゃ電話しないだろ。とでも言いたげな、投げやりな声が返ってくる。
嫌になって、こっそりと舌打ちしてしまった。
「俺は今日、休暇を取ってるんだ。」
助けを求めてきた後輩に対して、大人げない態度だったなと反省する。
「今、舌打ちしました?」
反省するのをやめて、すぐにむっとした。
「したよ。そんで、なんなんだよ。」
「舌打ちとか、普通します?」
「いいから、早く言えよ。」
脅すように声を荒げると、安原はやっと本題に入った。
「予告がありました。爆破予告です。」
その瞬間、はっと目を見開き、部屋の薄暗い一角を見つめた。
先ほどまでの怠惰な気分が吹き飛んだ。
同時に、神谷が言っていた事を思い出す。「そろそろ起こるかもしれないよ。」
「犯罪声明か?」
「えー、インターネットの書き込みです。掲示板の煽りの一部かもしれませんね。」
それならば、緊急性は少ないかもしれない。某大型掲示板に、何度となくそういった書き込みがあり、そのたび無駄足を踏まされた。
鬱憤のたまった気弱な誰かが、顔の見えないのをいいことに過激な事を言って知らない誰かが慌てているのを見て楽しんでいるのだ。
「分かった。今から行く。一時間くらいで着く。お前は一応部長に報告して、出動準備しとけ。」
慌ててベッドから抜け出し、脱いだばかりのジャケットを羽織る。
風呂に入ってないのを思い出し、軽くシャワーを浴びようかと思ったが、面倒なのでやめた。
元々、酷くずぼらなのだ。急いでいるのだから仕方ない。誰に言うでもなく言い訳すると、放り出していた鍵を拾って玄関のドアを開けた。
今日は春先なのに気温が高く、太陽が眩しい。
警察庁に着くと、狭い二輪車駐輪場にKawasaki製の大型バイク、ヴェルシス650が窮屈そうに停まっていた。
安原のバイクだ。オールブラックの車体は持ち主のように愛想がない。
横目で睨みながら、警察庁国際テロ対策部の対策室を目指す。
守衛に挨拶し、エレベーターの上りボタンを押した。
「風呂、入って無いんですか。」
部屋に入って、初めに言われたのがそれだ。
朝海の油の浮いた顔を指さしながらあからさまにため息をついて見せた。
安原は、女性にしては体格がよく、身長も高い。ヒールのある靴を履くと、朝海と目線が並ぶ程だ。
生意気な後輩に一言怒鳴りつけてやろうと思った矢先、
「休日に呼び出しておいて、そんな言い方はないでしょう。」
と、今年で還暦を迎える、井坂部長が、穏やかな声でいさめた。
唐草模様がプリントされた安っぽい来客用湯呑に煎茶をそそいで、朝海に手渡す。
身長は低く、白髪交じりの頭髪に、黒縁の眼鏡。無害が絵を描いたようなその姿に若干毒気を抜かれ、黙って湯呑を受け取った。
ぬるめのお茶をすすりながら、
「予告文見せろ。」
と安原に指示した。
安原は、黙ってデスクトップパソコンの液晶画面を指さす。
ネットスラングの、読みにくい文章が羅列されているが、確かに予告文が書かれていた。
2019年4月3日の正午。××小学校を糞生意気なガキ共々爆破する。
おおよそ、こんな内容だ。
このようなちょっとした脅し文句、いくらでもインターネット上に溢れている。
しかし、注意すべきなのは、この後だ。
元々荒れたスレッドだったが、この書き込みに対して、酷い中傷文が躍る。
絶対にやれよ。ニュース見てるからな。
近所なんだけど
ほら、やれよつまんねーな
爆弾アップしろよ
画像もないとか
日和ってんじゃねーよ
明日、マジで小学校襲撃されてたらどうする。
いや、やんねーだろ
俺は信じてる
煽りと呼ばれる批評に耐えかねて、
徐々に内容が明確になっていく。
圧力鍋を用いた爆弾の作成。作業着を着用し、身分証を偽装する手口、次々に、まるで誘導されるように、計画が鮮明に出来上がっていく。
その対応は、まるで放課後の強がった中学生だ。
しかし、書き込んでるのは中学生じゃない。いざ、激昂すれば簡単に実行できるのだ。
大体ここにいるのは日々不満を抱え、大人になってしまった弱者だ。
「発信元の回線の特定は出来たか?」
とりあえず、書き込みをした人物を特定する必要がある。
某大型掲示板はIPアドレスを掲示しなければ書き込むことは出来ない。
プロパイダー管理会社に話をつけ、書き込みを行ったパソコンを特定するのは簡単だ。
「特定できてます。」
IT知識に乏しい安原の代わりに答えたのは、同じ部署の小山内晴夏だ。
今時珍しいほどきちりと固められた七三の前髪に、薄いPC対応眼鏡をかけたやや細身で長身の中年男の小山内は、まさに気難しい中間管理職然とした風貌だ。
黒縁眼鏡を押し上げながら、平然と報告する。
「発信元は新宿区のマンガ喫茶です。自宅のPCよりは身分が特定されにくいと考えたのでしょうが、使用客のカードを確認すればすぐにわかります。」
国が進めたマイナンバー制度のおかげで、個人の確定は政府にとって実に容易なものとなった。
うっとおしいとは思うが、こういった犯罪者の特定においては、なかなか便利なツールとなる。
「よし。すぐに店に顧客カードを提示させろ。」
小山内に指示を出し、すぐに腕にはめたままの腕時計を見た。時刻は10時過ぎ。
予定時刻までにはなんとか動けそうだ。
しかし、何とも親切な予告だなと、朝海は思った。
犯罪時刻、服装、爆破方法。何もかも筒抜けではないか。
まるで、計画の実行を止めてほしいかのような。
そこまで考えて、今日、神谷と約束をしていたことを思い出した。
すぐにロッカールームに向かい念のため、防弾チョッキを着こむ。
鍵付きのガンケースから拳銃ほどの大きさのゴム弾銃を取り出し、調整作業を行う。整備は常にしているので問題はないと思うが、現場で役に立たなければ意味がない。
拳銃型のゴム銃は、例のテロ事件以降に警察内部で復旧されたもので、通常の拳銃よりも発砲許可が下りやすい仕様となっているが、今まで現場で活用されたことはない。
事実、これを集中砲火したとしても、犯人を銃殺することは出来ないだろう。やれて全身骨折が関の山だ。
今回も、ただ、持っていれば不便はない。といった理由で手に取り、胸に吊るしてある革製のベルトに仕舞った。
部屋に戻ると、安原が同じように防弾チョッキを着こんでいた。
窮屈そうな胸元と、柔らかそうな腹部は魅力的だが、如何せん本人が色気に欠ける。
「うっわ。一年前のチョッキがこれか。買い直すかな。」
悔しそうに無理にジッパーを上下させている。
気にしているなら痩せろ。と言ってやりたいが、このご時世、それはセクハラとして訴えられてしまう。
下らないことに構ってはいられない。
朝海は携帯電話を取り出し、神谷の運営する花屋へ連絡した。
神谷は仕事中、私用のスマートフォンをマナーモードにしているためだ。
数回コールを聞いた後、神谷の接客用の笑声が聞こえた。
「お待たせしました。フラワーショップ大村です。」
「俺だよ。朝海。」
「おお。どうしたの。仕事中だけど、とっても暇だよ。」
通話相手が朝海だと気づいた神谷声は、急に緊張感の欠片も無くなる。
おいおい。こっちは、防弾チョッキを着ているんだぞと、理不尽な悪態をつきたくなった。
「悪い。今日の被害者の会だけど、たぶん行けない。」
「え。なに、なんかあった?」
狼狽した声に、罪悪感が生まれた。
急な予定変更を詫びながら、出勤になってしまった経緯をかい摘んで話す。
その際に掲示板の書き込みの件にも触れたが、神谷が、そちらの内容を聞きたがるので、それも話した。
「爆破予告。小学校ね。」
神谷の声から、休日の暢気さが消える。
「な。俺も行っていい?」
「え。」
朝海は躊躇した。
神谷は元警察官だ。しかし、このような捜査活動にほいほいと同行させるわけにはいかない。
悩んでいる間、なおも神谷は食い下がった。
「大丈夫。何もしない。ただ、近くで待ってるだけ。」
お願い。と、電話越しに手刀を切っている様子が目に浮かぶ。
飲み会に参加したがっているような軽い口調だが、その語気はまるで有無を言わさない雰囲気があった。
「花屋。どうすんだよ。」
朝海が問いかけると、歌うように軽く返事を返す。
「今日はもう、畳んじゃう。」
「そんなんでいいのか。自営業は気楽だな。」
「いいんだよ。今日はどうせ早めに閉店する予定だったし。それに。」
「それに?」
神谷が言葉を詰まらせたので、問いかけた。少し間を置いた後、神谷が答える。
「子供の命より、大事なものは無いからな。」
あの日、まだ乳幼児だった麻衣の小さな遺体を抱いた神谷を思い出す。
涎と鼻水と涙を垂らした顔を、病院が用意した白いおくるみにうずめ、肩を震わせしゃくりあげていた、あの姿を。
朝海は、神谷に小学校の名前と住所を伝えてから電話を切った。
大きくため息をつき、警察車両の置いてある駐車場に向かう。
まだ状況が不確かで、被害届も出されていないので、同行するのは、安原だけだ。
使い慣れた灰色のマークXの運転席に乗り込み、シートベルトを締めてエンジンをかけた。それと同時に、安原が助手席に滑り込んでくる。けたたましい音を立ててドアを閉めるので、
「静かに閉めろよ。うるせえな。」
と悪態をつく。
「この車、タバコ臭いですよね。」
安原は、俺の悪態には反応せず、鼻をひくつかせながら付属のナビをいじりだした。
小学校までの道は大体わかっているが、念のためナビに目的地を入力しているようだ。
ナビの表示する道順を確認し、簡単にルートをイメージすると、ゆっくりと車を発進させた。