005
それは、私がまだ、恋という感情を知らなかった時のころ。
今から考えれば、いろんな言葉が当てはまる。だけど、今もまだ、私の中であの時の感情にぴったりと当てはまる言葉は、見つからないままだ。
そのとき、私は泣いていた。
「どうしたの?」
知らない男の子が私の顔を覗き込んでいた。私はしゃくりあげながら、まっすぐ目の前の木を指さした。
「あー、あの帽子、君のか」
めちゃくちゃに流れてくる涙をぬぐいながら、私は頷く。
木の高い所に、帽子が引っ掛かっている。私が大事にしていたものだった。
彼は、私の前にかがみこんだまま、木の上を振り仰ぎ、「よし」と短く言って、私の肩をたたいた。私が呆然としている間に、彼はすちゃっと立ち上がり、一切の迷いなく、問題の木のくぼみに足をかけた。
「…………わぁ……!」
彼の手並みはびっくりするほど鮮やかだった。私と歳はそう変わらないように見えるのに、小さな体で、するするとその高い木を登っていく。
あっと言う間に、彼は私の帽子を手に戻ってきた。髪や服は木の葉や土で汚れていたが、帽子は綺麗なままで。
「はい、どーぞ」
その子がにっ、と笑って私に帽子を乗せた手を差し出す。
大事にしてくれたんだな、なんて思いつつ、私も手を出す。
「? どうしたの?」
彼は笑って、私の手に帽子を乗せ、その上から包み込んでくれた。私は、ぽかん、としていた。目の前に居る彼が、私だけのヒーローにしか見えなかった。
かっこいい。
いつも、アニメの中で主人公を救う正義のヒーローよりも。いつか聞いた童話の中で悪と戦う大きな戦士よりも。お父さんよりも。
今、目の前にいる小さな彼が、と、純粋に、そう思った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
私は笑った。心の底から、涙の残っている瞳で。
あ、笑ったな。彼が呟き、ポケットから出したハンカチで私の顔をぬぐった。
「笑った方が、かわいいよ」
そう言って私の頭を撫でてくれた掌が、優しかった。
十年前、もうほとんどの記憶は残っていない。
だけど、その時私が感じた感情は、ウソじゃないって、今でもまだ、覚えている。
「君はどこに住んでるの?」
「ここの近くー!」
「そっかー!」
小学三年生だと、彼は言った。それじゃあ、私と三つ違いだね。そう言うと、彼はそうだねっと顔をほころばせた。
「その、帽子は?」
「んー? 七歳の誕生日にね、お父さんがくれたの。かわいいでしょ?」
「うん、でも」
「君の方がずっとかわいいよ」
目を見開いた私の顔に軽く微笑んで、彼は立ち上がり、行ってしまった。




