海辺のお化けは泡のように弾けて消える
私が海辺の町に引っ越してきたのは、もう夏が傾きかけた秋の初めだった。歩いて五分の整備されていない海岸は、大きな岩に途絶えることなく波を静かに打ち付けている。空の青さはもう抜けかかっていて、薄い雲がゆっくりゆっくり流れていく。そんな風景を防波堤からただ眺めて、べたつく潮風を浴びるのがしばらくの私の習慣だった。
「何してるんですか」
そう話しかけてきたのは私より恐らく下であろう年齢の、人の良さそうな少年だった。私は珍しく眺めているだけではなくて、足元に泳ぐ色とりどりの魚に興味を示していたのだった。私は海水に浸かった網を引き上げてから、魚取り、とぶっきらぼうに応えた。少年は興味深そうに笑みを浮かべながら何も入っていないバケツを覗き込んだ。
いいところがあるよと連れて来られたのは岩場の、一際大きな私の身長ほどもある岩陰だった。海水の投げれ込む小さなプールには貝や海老や魚なんかが小さいけれど沢山居て、私はしばらくそこで遊んだ。少し大きな魚を捕まえたので少年に見せようと立ち上がった時、少年はもうどこにも居なかった。
それからも何度か少年はふいに現れては私と少し話したり遊んだりして、そうしていつもいつの間にか消えていた。私はそれを少し不思議だなと思っていたのだけれど、知らない人だったこともありあまり気にしてはいなかった。
それから一年が経って私は相も変わらず海辺で過ごしていた。少年が来ていたのは最初の数ヶ月だけで、このあたりはさっぱり姿を見なかった。私は少し黒くなって、前より少し海の匂いが好きになっていた。少年のことを思い出すと共に思い立って、最近行っていなかったあの岩陰で魚を見ていた。魚を捕まえて顔を上げた拍子に懐かしい人影が見えて、私は思わずその後ろ姿に向かって走りだした。
シワひとつ無い白いシャツが潮風にはためく。
柔らかそうな黒髪が潮風に揺れる。
その光景はどこか幻想的だった。
私はこの少年の名前も何も知らないのだけれど、何の繋がりもなかったのだけれど、懐かしさと変わらなさに少し視界が緩んだ。ねえ、と呼びかけても何の返事もなくて、私は少し大きな声で呼びかける。ゆっくりと振り向く少年は一年前と何も変わらない姿だった。少年がこちらにゆっくり手を伸ばして、私はその手を取ろうと手を伸ばした。
差し出された手をすり抜けた自分の手と、やはりそこにあるように見える少年の手をじっと見つめる。思い返せば私はこれまで一度も少年に触ったことは無かったのだった。驚いたように少年の顔を見ると、少年は寂しそうに私に笑いかけた。
「ねえ僕とどこかで会ったこと、ないよね」
ないよ、と私は笑って、少年も笑った。
少年の昔話はつまり少年がどうやって死んだのかという話だった。そしてその死に関わった一人の少女、少年の恋していた少女の話。少年と、私とよく似た少女の話。
話し終わって少年は海に向かって歩いて行った。その後を追いかけて私は少年と並んで岩場を歩く。海水に触れる直前に少年は振り返って、ありがとうと言って笑うのだった。何に対してのありがとうなのかとかは分からなかったのだけれど、私は笑って頷いた。
海に触れると同時に少年の体が泡のように弾けて溶けていく。その光景はやはり幻想的で綺麗で、私はただ見とれていた。足元に掛かる塩水が冷たかった。泡になって消える直前、少年は悪戯っ子のように笑って口を開いた。
「あとね、お姉さん仕事した方がいいと思うよ」
そう言って消えた少年を見送って、私は濡れた両足をじっと見つめる。顔から笑みが張り付いたように取れなくなってしまった。一つ息をついて、薄い空を見上げる。
何か、始めてみようかなと、少し、思った。