7 高順
「無事、送り届けました」
「いつも悪いな」
ここ最近、気苦労の多い主人であるが、今日は殊更激しいようだ。
長椅子に寝そべり、力なく手をぶらぶらさせている。絹糸のような髪が乱れて、頬にかかっていた。
あの変人、羅漢のことが原因だとわかるのだが、少し自分が部屋を出たすきにまたなにかあったらしい。戻ってくると、なにやら地獄の釜の中をのぞいたかのような青白い壬氏がいた。
また、小猫にちょっかいをだしたのだろうと思うのだが、当の猫猫は変わらぬ様子でせっせと仕事に励んでいた。
一体、なにがあったのだろう。
多少の苦労はわかってもらいたいところだが、結局、高順のもとにかえってくるので困ったものだ。
「明日は後宮だな」
「はい」
猫猫を送り届けたあと、医局に向かい、あるものを調合してもらう。苦味の多い奇妙な液体である。
二つに分け、まず高順が口にする。もう五年飲み続けているが、やはりなれそうにない。
口の端を拭いたところで、もう一方を壬氏に渡す。
鼻をつまむ所作は、見た目は大の大人の分、滑稽である。誰もが六つも年齢を鯖読んでいるとは思うまい。
「いやなら飲まなくてもよろしいのに」
「一応のけじめだろ」
手の甲でぐいっと口を拭く姿は、実年齢以上に幼いものだ。
現帝の後宮になり、五年。歪な仮面をかぶり続けて五年。
こうして男でなくす薬を飲み続ける。
下級妃以下は好きなようにしろ、と皇帝の言葉をもらっているのにもかかわらず。
「そのうち、本当に不能になりますよ」
口直しに果実酒を飲んでいた壬氏が噴き出した。口をおさえ、恨みがましそうにこちらをみる。
たまには、これくらい仕返ししても問題なかろう。
「おまえだって同じだろ」
「いえ、先月、孫が生まれたそうです」
子はもう成人している。今更、作る必要もない。
「いくつだったか?おまえ」
「数え三十七ですけど」
十六で娶り、翌年から年子で三人生まれた。別に無理な話でない。
「はやく孫を抱かせてください」
「努力する」
へたれた主人を見る限り、まだ先のことだと思わずにいられない。
これならば、もっと過激に遊ばせておくのだったと、高順は大きく息をはいた。
定例である四夫人のもとへの訪問は、とどこおりなく終えた。
新しく入った楼蘭妃は、先日の狼狽えぶりもなく、うわさ通りの理知的で冷静な妃であった。
ただ妃たるもののつとめとはなにか、ひたすら演説するかのごとく語るので、聞いていて耳が痛くなった。
そんな話、公務で耳にたこができている皇帝に話したのだろうか。夜の営みにまで、仕事のことは思い出したくないだろうに。
案の定、皇帝の通いは数度で止まり、玉葉妃と梨花妃のもとを往復しているようである。
皇帝なりの指針として、十六になるまで手をださないとあるので、あと一年、里樹妃は安泰である。
さっさとこさえてしまえばいいのに。
壬氏も高順も同じ気持ちを持っている。
例の妃教育のあと、皇帝の足の運びはずいぶん増えたのだが、結果がでるのはまだ先だろうとおもったが、案外早く出るかもしれない。
心配そうに玉葉妃の侍女頭である紅娘があることを打ち明けた。
昨日も翡翠宮に皇帝が訪れたらしく、玉葉妃はけだるげにしていた。心配そうに紅娘が世話をやく。ぬばたまの黒髪が乱れていた。なにかしら苦労の多そうなこの侍女頭とは時折、共感を持ってしまう。
ちょうどいいと、壬氏はある提案をする。
玉葉妃は目を輝かせ二つ返事でうなづいてくれた。
紅娘もやれやれといった顔をするが、むしろ歓迎した顔である。部屋の外で聞き耳を立てている侍女三人娘にその話をする。
どうやら選択は間違えではないらしい。
○●○
「後宮ですか」
「ああ。おまえの大好きな仕事だ」
猫猫は銀食器を鏡のように磨き上げていた。
曇りひとつないのを確認すると、もとの棚に戻す。
ながら作業で話を聞くのは失礼なことであろうから、さっさとものを片付ける。
それくらいのけじめはつけたい。
壬氏は蜜柑を食べている。皮くらい自分でむけばよいのに、水蓮にひとつずつきれいに薄皮を取ってもらい、皿にきれいに並べてもらっていた。
まさに坊ちゃまである。
初老の女官は、この宦官を甘やかす傾向にあるらしい。寒いからと綿入れを着せたり、熱いからと茶をぬるめたり。
大の大人が恥ずかしい。
「玉葉妃の月の道が途絶えているらしい」
(妊娠の可能性ね)
鈴麗公主懐妊時に、妃は二度毒殺未遂にあっている。
心内はおだやかでないはずだ。
「いつからでしょうか」
「今日からでも行けるか」
「むしろ都合がよいです」
後宮内は男子禁制、名前も聞きたくないあれと顔を合わせることはないだろう。
気をきかせてくれたのかもしれないし、都合がよいとしたのかもしれない。
どちらでもよいことだ。
つとめて冷静に動いていたつもりだが、
「あら、いいことあったの?」
と、水蓮が話しかけてきたので、浮足立っていたようである。